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2014年01月23日

日本の建国は世界最古
?国を知ることは、国を愛すること

皆さんこんにちは、井之上 喬です。

今週の20日(月)は、大寒でした。小寒(今年は1/5)から立春(同2/4)の間を寒の内と呼び、その中日が大寒と呼ばれています。これから春に向かって少しずつ暖かくなっていくようです。

年末年始の休みの間に、竹田恒泰さんの著書『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』(2011、PHP研究所)を読みました。

読むきっかけとなったのは、先ずはその本のタイトルに惹かれたこと。本を開くと自筆の巻頭で「日本が世界最古の国であることを知っている人はどれだけいるでしょうか。そのことをはじめて知ったとき、僕はびっくりしました」とありました。

私もびっくりしました。どんなことがこの本に詰まっているのか読んでみたくなりました。
そして、皆さんにも紹介したくなりました。

著者の竹田さんは、1975年(昭和50年)に旧皇族・竹田家に生まれています。明治天皇の玄孫にあたるそうです。作家として著書『語られなかった皇族たちの真実』(2006年、小学館)で第15回山本七平賞を受賞。著書はほかに『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』、『原発はなぜ日本にふさわしくないのか』、『現代語古事記』などがあります。

■日本が最古で、次いでデンマーク、英国
日本が世界最古の国家であることは、現在ではほとんど知られてないことですが、戦前までは誰もが共有していたことだと著者は語っています。

日本の建国については諸説ありますが、考古学者たちが主張するように大和朝廷の基盤となる王権が畿内で成立した三世紀前期とした場合でも、1800年前となります。これは『日本書紀』の記述とも一致するようです。

日本の歴史の長さは、他国と比較すると理解しやすいのかも知れません。現在190を超える国家のなかで日本に次ぎ、二番目に長い歴史を持つのがデンマーク。10世紀前半にヴァイキングたちを統合した初代国王ゴームが建国したと伝えられています。

次いで三番目が英国で、初代国王のウィリアム一世がフランスから海を渡ってきてブリテン島を征服したのが1066年、およそ950年前のことです。エリザベス女王はその子孫とされているとのこと。

国連の常任理事国でも英国を除くといずれも歴史が浅い国ばかり。アメリカが独立戦争を経て英国から独立したのが1776年、フランスはフランス革命が始まった1789年、中国は毛沢東が天安門広場で成立を宣言した1949年、ロシアはソヴィエト連邦が崩壊して独立を宣言した1991年がそれぞれ建国の年となっています。

他国に比べ「日本が二千年にわたって、単一の王朝を守ってきたことは、人類史上の奇跡といっても過言ではない」と竹田さんは述べています。

そういえば、日本には創業200年以上の長寿企業が3000社を超え世界の過半数を占めるといわれています。天皇を戴き継続性を重んじ、大きな変化を望まない、島国に住む日本人の国民性がそうさせているのでしょうか?

竹田さんは慶應義塾大学の大学院で憲法を講義していますが、「日本はいつ、どのようにできたのか」と質問しても、答えられる学生はほとんどいないといいます。大学院でも同様な状態であり、全国の大学生や高校生は日本の国の成り立ちを知らなのではないかと懸念しています。

現代日本人のほとんどが日本の建国について知らないという事態は、戦後教育や建国を祝う記念日が廃止されたことと深い関係があるといいます。これについては複雑な背景があり、この紙面では割愛させていただきました。

竹田さんは、こうした状況は国家の存亡にかかわる極めて重大な危機であると警告を発しています。

■日本は建国を祝わない異常な国?
「建国記念の日」は佐藤内閣時代に「建国記念の日は、二月十一日とする」とした政令を定め、公布されました。1966年のことでした。

建国を祝う日が「建国記念の日」として復活したとはいえ、学校での歴史教育を変えるには至らず、建国は日本人の意識から希薄化し、日本は建国を祝わない異常な国になってしまったといいます。

建国記念日は通常、国を挙げて盛大に祝うもの。家庭で家族の誕生日や会社の創立記念日を祝うのは、普通のことであって、まして建国を祝うのは世界の常識です。

たとえば、アメリカでは7月4日の独立記念日、フランスは7月14日の建国記念日には、いずれも盛大な祝賀式典が行われ、国民が揃って建国を祝っています。中国では10月1日が国慶節という建国を祝う祝日とされ、この日を挟んで約一週間が大型連休となるほど重視されています。

日本の「建国記念の日」は、日本人がこれを祝わないばかりか、建国を祝う政府主催の祝賀行事も今は行われず、外国人からは日本は世界のなかでも建国を祝わない、異常な国と映っているといいます。

これは私個人の分析ですが、多くの年配者にとっては「建国記念日」のイメージは戦前の暗い時代を想起させることに繋がっているのではないでしょうか。明治維新以降、先の大戦まで「富国強兵」政策により天皇は万世一系の家長として利用され神格化されてきました。

太平洋戦争開戦前年の1940年(昭和15年)に、紀元2600年記念行事が行われています。神武天皇即位紀元(皇紀)2600年の祝事です。戦後私の幼少時代に聞いた、祝事を記念して作曲された勇ましい唱歌はいまでも脳裡に残っています。

いまの若い世代には理解しがたいところがあるのかもしれませんが、日本の「建国」への理解不足については、「建国記念日」=「天皇の世紀」=「明治維新以降天皇が侵略に利用されひどい目にあった国民」といった建国の意味自体が歪められてきたことが原因と考えられなくもありません。

竹田さんは、日本が最古の国であることを知ったとき、心から感動し「日本はすごい国なんだ」と思ったといいます。祖国を愛する心やこれほど日本人に誇りを持たせる歴史を教えないことに強い疑問を持ったことが『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』を出版する動機となったようです。

いま日本は、官民あげて「ジャパン・ブランド」の構築と普及促進に力を入れていますが、新たに「世界最古の国家日本」をしっかりアピールしていくことも賢明なことかもしれません。

グローバル社会は多様性を認め合う社会。その中で自らのアイデンティティを保持するために自国の歴史を知っておくことは、国際人として最低限必要なこと。

そのためには、新しい世代にも理解できるように歴史を顧みつつ、「建国」の意味をもう一度考え、共通認識を深めていくことは大切なことではないでしょうか。

パブリック・リレーションズ(PR)の手法を用いて、国民の意識改革と世界への情報発信を積極的に行うことが求められます。

投稿者 Inoue: 16:12 | トラックバック

2011年09月19日

羽生三冠で歴代最多八十冠の偉業達成
 ?心を持つ人間と進化するコンピュータとの勝負の行方は?

こんにちは井之上 喬です。

今週は19日(月)の敬老の日、そして23日(金)の秋分の日と3連休が続きますね。台風の影響が心配されますが、貴重な休みを有効に使いたいものです。

休み気分の今日は将棋のお話です。私は将棋が大好きで、少年のころ夏休みに過ごした弓削島で、兄や従兄弟たちと楽しんだ将棋が今でも懐かしく思い起こされます。

先週9月14日の新聞各紙に将棋の第52期王位戦の結果が報じられていました。「羽生善治二冠(王座、棋聖)が王位戦で勝利しタイトルを奪取、将棋界全7タイトルの獲得数が通算80期となり、歴代最多の故大山康晴十五世名人に並んだ!」とする内容の記事でした。

さらに現在対戦中の王座戦を防衛すれば、羽生名人は王座戦20連覇とともにタイトル獲得数で歴代トップに立つことになります。

■将棋の天才が打ち立てた偉業
羽生さんは多くの方がご存じのように、1985年に中学生でプロデビューしますが、世間を驚かせたのは5段時代の第38回(1988年度)NHK杯戦。

当時現役の名人経験者であった大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦 :準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)の4人をすべて破るという快挙を成し遂げます。

そして1989年、19歳で初タイトルの竜王を当時最年少で獲得。

96年には七冠達成の偉業を成し遂げ、2008年には十九世名人を名乗る資格を獲得。対戦後の記者会見で羽生さんは「年代ごとにスタイルを変えてやっていきたい、ということが長い目標の中ではあります」と、たゆむことのない将棋への創造的な取り組み姿勢を披露していました。

以来、プロ生活約2年間のほとんどでタイトルを保持し続けています。まさに現代将棋界のスーパースターとして棋界をリードしています。

大山十五世名人が80期を達成したのが59歳のとき。将棋は技術だけでなく経験、精神力そして長時間に及ぶ対局に耐えられる体力が必要とされます。

9月27日には41歳の誕生日を迎えるようですが、若手棋士が次々に台頭している将棋界でますます活躍して欲しいと思います。

それにしてもいつも驚くのは棋士の皆さんの記憶力とデータ分析力です。過去の対局の、ある局面での一手、その一手がその後の局面にどう影響したか、その時にこんな一手だったらどのように局面が動いていただろうか・・・・などなど、素人からみると「あの人たちの脳の構造は一体どうなっているのだろう」と思わせることもたびたび。

■将棋戦、人間かコンピュータか
こんな人間に挑戦しようというのが情報処理学会のコンピュータ将棋「あから」プロジェクトです。

このプロジェクトは、同学会のホームページを見ると「コンピュータ将棋を通して情報処理技術の進歩を社会にPRすると共に、情報処理技術の重要性、可能性の認識を広め、特に若い世代への情報技術への関心を喚起し、トッププロ棋士との対局を実現し勝利を収めることを目指しております」とあります。

同学会は認知度向上のためのパブリック・リレーションズ(PR)の一環として取り組んでおり、羽生さんも同学会の研究に多大に協力しているようです。

そして2010年10月には、情報処理学会設立50周年記念行事として、清水市代女流王将と、情報処理学会のあからプロジェクトから生まれた、最新のコンピュータ将棋システム「あから2010」が、東京大学キャンパスで対局しました。6時間を超える死闘の末、あから2010が勝利しました。

あからとは、10の224乗の数を示す「阿加羅」に由来し、将棋の局面の数に近いことから命名。

コンピュータを使った思考型ゲームの世界では、チェスのように人間がコンピュータにほぼ勝てなくなっており、コンピュータ同士の対局も盛んに行われているようです。

これまで、将棋は自分がとった相手の駒を、自分の駒として、盤上の好きな場所に打てることから、人間に勝てるコンピュータは難しいとされていました。しかし、その考えを打ち破ったのが「あから」ということになります。

あから2010は、最強レベルの将棋プログラム4種類を搭載し、相手の指し手を受け取り4つのプログラムの合議で最も多い手を最終的な結論とするシステムで、この演算にはインテル社のXeonプロセッサーを搭載した何と169台のコンピュータを並列化した東京大学のクラスターマシンを使用しました。コンピュータ将棋は、市販されている家庭用でもプロに迫る実力と言われているだけに、あから2010の強さも納得できるというものです。

情報処理学会は、今年度もあからプロジェクトに取り組んでおり、この7月にはコンピュータ将棋に精通したアマチュア強豪棋士とあから2010のコンパクト版「あから1/100」の対局を実施、コンピュータが完勝しました。

また、9月初旬に横浜で開催された日本最大のゲーム開発者向けカンファレンス、「CEDEC2011(Computer Entertainment Developers Conference)」でも、あから 1/100を動態展示し、来場者が実際に最新のコンピュータ将棋と接する機会を作っていました。

このあからプロジェクトに関連して興味深い点が2つありました。1つはプロジェクト実施にあたっての仕掛けのうまさです。

2010年4月には、情報処理学会白鳥会長から日本将棋連盟米長会長への挑戦状送付と挑戦を受けて立つ将棋連盟との記者会見を開催、10月の対局を事前に盛り上げていました。パブリック・リレーションズ(PR)に携わる人間が見てもなるほどと唸らせる一手でした。

もう1つは対局結果に関する報道陣のコメントです。「持ち時間のない状態で、コンピュータに意外な手を指された動揺が見えた。この対局は、心を持たないコンピュータの強さと、心を持つ人間の弱さが勝敗を分けたのではないか」、人類の将来についていろいろと考えさせられるコメントでした。

これからもコンピュータ将棋とトッププロ棋士との対局が行われるでしょうが、心を持つ人間と心を持たないコンピュータとの勝負の行方はどうなることでしょうか。

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投稿者 Inoue: 11:19 | トラックバック

2011年07月18日

『小川の辺(ほとり)』に久しぶりの映画をみた
 ?藤沢周平の世界

皆さんこんにちは、井之上 喬です。

猛暑のなか、休みを利用して7月2日から都内で封切上映されている藤沢周平の『小川の辺』(2011年 配給:東映 監督:篠原哲雄、主演:東山紀之、菊地凛子)を見に行きました。

この作品は、藤沢作品のなかでも評価の高い「海坂藩大全」(文藝春秋刊)の一編「闇の穴」を劇場映画化したもので、山形の大自然を背景に、武家の兄妹に訪れた過酷な運命と、藩への忠誠心や正義と友情のはざまで葛藤する武士の苦悩とを交差させて描いています。

山形県出身の小説家藤沢周平(1927-1997)は鶴岡市の農家に生まれました。山形師範学校(現在の山形大学)を卒業し地元の中学校で教師を経験するものの結核を患い東京での長い療養生活を送ります。そしていくつかの業界新聞の記者を経て作家となった苦労の人。

私が藤沢作品に鮮烈に遭遇したのは、2002年NHKドラマの『蝉しぐれ』(出演:内野聖陽、水野真紀)がはじめてでした。

その後同年映画化された、『たそがれ清兵衛』(配給:松竹 監督:山田洋次 出演:真田広之、宮沢りえ)、2004年の『隠し剣 鬼の爪』(配給:松竹 監督:山田洋次 出演:永瀬正敏、松たか子)、そして2005年の市川染五郎主演の『蝉しぐれ』や2006年の木村拓哉主演の『武士の一分』など、映画化された大半の藤沢作品を鑑賞しています。

■日本人の精神をみる
藤沢周平のさまざまな体験が、江戸時代を舞台にした庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説を数多く残したのでしょうか。

侍もので藤沢作品に共通するものは、潔さや清廉性、そして真面目さや粘り強さなど日本人が本来持っている精神性です。

とりわけ全集となった、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした一連の藤沢作品は、高い精神性をもった主人公が描かれて映画化され人気を博しています。

物語の展開は、家老(笹野高史)からの藩命により主人公の藩士・戌井朔之助(東山紀之)が藩政を批判し脱藩した親友の佐久間森衛(片岡愛之助)を討つことになります。しかし佐久間の妻田鶴(菊地凛子)は朔之助の実の妹。

戌井家の家長である朔之助は藩命と親友・妹との間にはさまれ心を揺れ動かします。そんな朔之助に、直心流の使い手で兄妹に剣術を指南した、父忠左衛門(藤竜也)は妹を斬ってでも主命に従えと諭します。

兄妹の間に起きるであろう悲劇的結末に涙を流す母の以瀬(松原千恵子)。妻の幾久(尾野真千子)は朔之助の身を案じながらも気丈に振る舞います。

翌朝朔太郎は佐久間を討つために、幼少の頃から兄弟のように育った若党の新蔵(勝地涼)と共に、遠く100里先の脱藩夫婦の住む江戸にほど近い行徳を目指します。

目的地で見つけた佐久間の隠れ家は、兄妹と新蔵が幼い頃に遊んだような小川の辺にありました。

朔之助と親友の佐久間は、その川のほとりでついに向き合うことになります。
今回の作品もそうですが、藤沢作品には毎回夫を支える、おとなしくも芯が強い主人公の妻が描かれています。ペンネームの藤沢周平(本名:小菅留治)が妻の実家の地名(藤沢)や親族の名前(周平の周)から由来していることを見ると、長女(展子さん)を産んだ後28歳で他界した同郷の亡き妻(悦子さん)への強い思慕を感じとることができます。

■日本の原風景を満喫
映画の中では心に沁みる、東北の山河の透き通るような自然をふんだんに感じ取ることができます。庄内地方の緑深い森や山そして澄み切った透けるような川といった、東北の豊かで美しい自然が描写されています。

特にこの映画の製作には、県知事や山形市長も映画に登場するなど、地元のフィルムコミッションやメディアも全面的にバックアップ。特に地方に設置されているフィルムコミッションには、地域の観光振興との連動を考え積極的に支援している様子が窺えます。

東北山形が舞台のこの作品は、東日本大震災で苦境にある被災者への思いも重なり私にとって印象深く、映画に出てくる主人公や彼を取り巻く人たち、美しい東北の自然など、ついつい被災地のイメージとダブらせながら見てしまいました。

映画の舞台となった山形は学生時代演奏旅行で山形市や鶴岡市などを訪問したり、数年前に山形市の山寺を訪ねるなど、私にとっては想い出深いところです。

新幹線が開通してからも自然を大切にした、昔からの日本の伝統的な風情を味合わせてくれるところです。

藤沢周平が愛した庄内地方を舞台にした『小川の辺』。日本人の絆を感じさせるこの映画は見る人の心を癒してくれます。武部聡志の音楽や効果音も抑制のきいた一級品に仕上がっています。

そんなこともあってか、103分の映画が終了しても清新な余韻が胸内に深く残り、すぐに座席を立つことをためらわせました。

主演の東山紀之が好演する『小川の辺』は8月はじめまで上映されています。皆さん是非このチャンスに足を運んでみてはいかがでしょうか?


*このブログを書いている最中、サッカーの女子ワールドカップ決勝戦で日本は延長戦2?2から、PK戦で世界ランク1位の米国を制した(3?1)瞬間をTVで見ました。壮絶な戦いを制した、奇跡のなでしこジャパンの粘り強い最後まであきらめない精神力は多くの日本人を勇気づけることでしょう。


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投稿者 Inoue: 10:54 | トラックバック

2011年05月16日

フェルメール、大航海時代に思いを馳せる
 ?時を超えた1枚の絵画が語りかけるもの




こんにちは井之上喬です。

東日本大震災発生から2カ月以上が経ちました。
震災の影響はさまざまな分野に及んでいますが、展覧会や美術館にも震災の影響が出ているようです。

直接、震災の影響を受けて休館している美術館も宮城県や福島県を中心に多いようですが、震災や原発事故の影響を懸念し海外からの美術作品が届かず日程の変更や中止を余儀なくされた展示会も少なくないとされています。

先日、東京・渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催中のシュテーデル美術館収蔵「フェルメール『地理学者』とオランダ・フランドル絵画展」に行ってきました。

■95点のうちほとんどが本邦初公開
ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:1632-1675)は、17世紀にオランダで活躍した、レンブラントと並び17世紀のオランダを代表する画家。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』(1658-1660頃) は彼の代表作です。

今回の絵画展は、文豪ゲーテの生地として名高いドイツのフランクフルトにあるシュテーデル美術館の改築のため実現したもの。

同美術館収蔵品の中から宗教画家として著名なレンブラント、ルーベンスなどの作品を含む、選りすぐりの95点が展示されていますが、そのうちの実に90点が日本初公開。

その中での注目は東京初上陸のフェルメールの『地理学者』。

オランダのデルフト生まれのフェルメールは、経歴が不明な点が多くその作品も30数点しかないようですが、そのなかの傑作が『地理学者』といわれています。フェルメールが生涯で男性単身を描いたのは2点だけとされていますが、この絵は1 年前に描かれた『天文学者』に続く残りの1点。

同じオランダの巨匠レンブラントの作品は、『サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ』、『マールトヘン・ファン・ビルダベークの肖像』の2作品。また、ルーベンスとブックホルストの合作『竪琴を弾くダヴィデ王』も出展されています。

そのほかにも今回の展示会では、「ネズミのダンス」(フェルディナント・ファン・ケッセルに帰属)、「洪水以前/寓意画(裏面)」(カーレル・ファン・マンデル)、「調理台の上の魚」(ヤーコブ・フォッペンス・ファン・エス)、「凍ったスヘルデ川とアントワープの景観」(ルーカス・ファン・ファルケンポルヒ)などなど、多くの作品が心に残りました。

■大航海時代に思いを馳せる
オランダは17世紀から18世紀にかけて、貿易で栄えたオランダは世界に雄飛していました。とりわけ17世紀はオランダ東インド会社が設立され、大航海時代を謳歌します。

『地理学者』が描かれた1669年は、鎖国下の長崎に人工島の「出島」と「商館」が築造・建設され、オランダは唯一交易が認められた(1641-1859)相手国。 

『地理学者』はそんな未知なる世界への知的探求に没頭する男性を表現した秀作で、サイズは縦53×横46.6 cm。

日本でいうとF10号ほどの小ぶりの絵ですが、その陰影を強調した絵の前に立つたとき、登場人物のほとばしるような思いが伝わり、思わず立ちすくんでしまいました。

作者のフェルメールは、それまで知られていなかった世界が次々に明らかにされた大航海時代を象徴するかのように、希望に満ちた地理学者を描きたかったのでしょうか。

窓からさす光と影の絶妙なコントラストの中に描かれた室内の情景は見事で、フェルメールが室内描写に細心の注意を払っていることが素人目にも感じられます。

大航海時代のオランダで航海には欠かせない地理学者をテーマに、地球儀、地図、コンパスと定規など地理学者の仕事道具や、地図などのモチーフ、そしてそれを取り巻く生活の品々が描かれています。

絵の中の地理学者が身に着けている上着は、「ヤボンス・ロック」(日本の着衣)と呼ばれているもの。フェルメールのモチーフには当時出島からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の着物とおもえる衣裳を用いた人物像が何点かあるとされています。

これら日本の着物は当時、裕福な市民階級の間で流行し、ステータス・シンボルになっていたようです。17世紀の大航海時代のヨーロッパと日本とのつながりにも思いをつなげる1枚の絵画でした。

世界には、まだまだ日本に紹介されていない素晴らしい芸術作品がどれほど存在するのでしょうか?人の営みと創造力に改めて驚かされた時間と空間でした。

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2010年12月24日

奇跡をもたらすクリスマス夜話
 ?あなたはどの物語に感動しましたか?

『聖夜の贈り物』(太田出版)


メリー・クリスマス! 井之上喬です。

きょうはクリスマス・イブです。あちこちの街に色鮮やかなイルミネーションが輝き、私たちの1年の働きを癒してくれるクリスマス。

きょうはそんなクリスマスに、ぴったりの本をご紹介したいと思います。

著者は百田尚樹(ひゃくた・なおき)さん。もともと関西を中心に活動する放送作家ですが、2006年に作家デビューし、本書はその第2作目として2007年に出版されたもの。本のタイトルは『聖夜の贈り物』(太田出版)で、クリスマスに起きた奇跡をオムニバス形式で5つの短編にまとめています。

■女性が主人公の5話
それぞれ40ページ前後でまとめあげられた作品はどれも感動的なものです。

5つの短編集の主人公はいずれも女性。それぞれの人生を背負った女性のハートフルな物語が読者をファンタジーの世界に導いてくれます。

第1話は「魔法の万年筆」。主人公の恵子は長年勤めた会社をリストラされた日にホームレスに出会います。恵子は彼になけなしの財布の中から食べ物とお金をあげます。お返しに貰った不思議な万年筆。「この万年筆で願いを書くと、3つまで願いがかなう」と渡された1本の鉛筆が彼女にもたらしたものは?

第2話「猫」は、ある雨の夜、衰弱していた片目の猫を拾い一緒に生活する雅子。猫の「みーちゃん」と一緒に過ごそうとするクリスマス・イブの夜、派遣先の会社の社長と二人で残業をする羽目になります。
第3話「ケーキ」は、赤ちゃんの時に病院の前に捨てられた真理子は、恋を知ることもなく一生懸命生きてきましたが、20才のときに病院で自分が末期癌であることを知らされます。癌に冒されながらも、死の瀬戸際ですべての人生を生きた真理子の物語です。最後が意外な結末です。

第4話「タクシー」は、沖縄で知り合った男女4人。依子は自分の正体を偽って知り合った男性にしだいに引かれていきます。自己嫌悪に陥り苦しみもがく依子。何年かたったあるクリスマス・イブの夜、依子は酒に酔ってタクシーに乗ります。

第5話「サンタクロース」は、8才で母を病気で亡くし、20才で父を失った和子。結婚を約束した最愛の恋人は事故死します。自分も後追いをしようと死の淵をさまよう和子は、クリスマス・イブの夜にある町でひとりの牧師に出会います。18年後のクリスマス・イブの夜、彼女はその後結婚した夫に、その時に起こったことを初めて告白します。

これら5つの物語はいずれも感動的で、ハッピーエンドで終わっています。男性の作家が主人公の女性をきめ細やかに描いているのも興味深いところですが、女性だけでなく男性が読んでも、読みごたえのある本です。

また、5つの作品どれをとってもテレビ化すると面白そうなものばかり。この中で、どの作品が最も感動させたかひとつだけ選ぶとすると、私にとって心に残ったっ作品は、第3話の「ケーキ」です。

この本を読まれた皆さんはどの作品に最も心を揺さぶられたでしょうか?

■今年もありがとうございました
2010年もいよいよ終わりに近づいています。世界ではいろいろなことがありましたが、皆さんにとって今年はどのような1年だったでしょうか? 

1年間、井之上ブログをご愛顧くださり誠にありがとうございました。来年もさまざまな視点で、パブリック・リレーションズ(PR)をとり上げ、より充実したブログにしていきたいと考えています。
(新春は1月5日発行となります)

それでは良い年をお迎えくださいますよう。

井之上 喬

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2010年11月11日

ひとつの書

こんにちは、井之上 喬です。

秋の気配も強まり、東京はようやく紅葉の季節を迎えています。今日はそんな秋にふさわしい一遍の詩を皆さんにご紹介したいと思います。

オリジナルは墨書き(写真)。ある母と娘の心温まる関係を独特の筆使いで書き表した作品です。

写真

[クリックすると写真を拡大]

■ある秋の朝

いそがしいのに
来てくれたの
ありがとう


元氣でしたよ
ありがとう


あゝ
おいしかった


ありがとう


お散歩
きもち
よかった


ありがと


楽しかった
うれしかった
ありがとう
ご苦労さま
ありがと


秋の朝たくさんの 
ありがとうの
ことばをのこし
母は逝った


りつ子




この詩から、秋の日の朝に亡くなった年老いた母を思慕する娘の姿が目に浮かんできます。
そして、すべてをわかりあっている親子の心の交流を感じとることができます。

■母と娘
この作品との出会いは、ある偶然がもたらしたものでした。

日頃お世話になっている、麹町にある、古川貞二郎(東京都社会福祉協議会会長:元内閣官房副長官)さんのオフィスにお邪魔した時のこと。

あるとき古川さんの部屋の壁際のサイドボードの上に、さりげなく置かれていたこの書に、暫くのあいだ目がくぎづけになりました。その独特な筆使いと、書かれた詩の内容に心を打たれたのです。

「作者は誰だろう?」と思い、文末に署名されている「りつ子」さんのことを古川さんに尋ねました。古川さんから、「私の家内です」と答えが返ってきました。この作品の作者は古川夫人の古川理津子さん。

理津子夫人の母親の名前は森下ナイ子さん。5人きょうだいの末っ子理津子さんは幼少のころ父を失います。フイリッピンで民間企業の工場の責任者であったお父様は、日本軍の敗走とともにルソン島の山の中に社員とその家族を連れて逃げるものの、重い足の風土病で動くことができず、終戦直前に自決したそうです。

お母様は、戦後郷里の千葉で5人の子供を女手ひとつで育て上げ、2005年11月に95才でその生涯を終えます。

夫人はそんな母親との交流を一遍の詩にし、自らの筆で書に残したのでした。2007年秋、銀座のある書展に出品されたこの作品はいま、夫の貞二郎さんのオフィスに飾られています。

この書から、苦労を重ねた年老いた母への想いと、最後まで娘を気遣う母の深い愛情を感じとることができます。

そして、子供たちのために生涯を生きた母への娘からの「ありがとう」のことばが込められているように感じます。人生の苦しみや喜び、強い「きずな」で結ばれた、母と娘だけがわかりあっているであろう美しいひと時を感じさせてくれます。

人生最後のしずかな出来事をさりげなく語りつくした素晴らしい詩(うた)です。

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2010年11月04日

短い秋を絵画で楽しみませんか?
 〜色あせないゴッホの作品、没後120年の鮮烈なメッセージ

こんにちは井之上 喬です。

台風と木枯らしが一緒に来るような異常気象の日本列島、一気に冬になってしまいそうですが、短い秋を満喫していますでしょうか。
秋といえば食欲の秋、スポーツの秋、そして芸術の秋、と何をするにも良い季節ですね。

今回は芸術の秋です。今年の1月25日号のブログでは「ルノワール展」について触れましたが、今回は10月末に「ゴッホ展」に足を運んでみました。

■展覧会好きな日本人
まずは展覧会を見に行った直後の日本経済新聞朝刊に、日本人の美術展に関するクイックサーベイ記事を見つけました。興味深い調査結果でしたので紹介します。

その記事には、いま美術展が活気づいているとし、特に2010年はモネ、ルノワールといった印象派、ゴッホ、セザンヌといったポスト印象派に関する企画展の当たり年だそうで、「印象派年」とささやかれるほどと分析しています。

20歳から60歳代の男女1000人を対象にしたインターネット調査によれば、「過去半年の間に美術展を見に行ったか?」との問いに対して31%の人が「見に行った」と答えており、この数字は予想より高い数字で日本人の展覧会好きがうかがえるとしています。確かに3人に1人の割合は、多いような気がします。

ITの進化でデジタル・コンテンツが氾濫するなか、アナログの象徴ともいえる絵画への探求が心の癒しを求める人たちのなかで強まっているのでしょうか。

また、「最も見たい作家は?」との問いに対しては、トップ5にゴッホ、モネ、ピカソ、ルノワール、ダリが並び、その後にレオナルド・ダ・ビンチ、シャガール、東山魁夷の名前が挙がっていました。こうしてみると海外の作家に人気が集まっていますが、皆さんが好きな作家は含まれていますか?

調査結果で興味深かったのは、「入場料と最も見たい美術品は?」の質問。入場料についての答えでは、1,000円未満が56%、1,000円から1,500円未満が37%とこの2つが圧倒的で、手ごろな料金で素晴らしい芸術作品に親しみたいという正直な気持ちが現れています。

また、「見たい美術品は?」に対する答えは、西洋絵画が39%でトップ、続いて写真14%、日本画10%、仏像8%、工芸品7%となっており予想通り西洋絵画の人気は高いのですが、写真、日本画そして仏像などとさまざまな芸術分野に興味が広まっている様子がうかがえます。

■ゴッホの凝縮された10年を展示
東京・六本木の国立新美術館で10月1日から12月20日まで「没後120年 ゴッホ展?こうして私はゴッホになった」が開催されています。

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年?1890年)は、前述の日本経済新聞のリサーチ結果でもわかるように日本での人気も高くこれまでも数多くの展示が行われています。

私がゴッホの絵と最初に出会ったのが、今から35年ほど前のアムステルダムの「ファン・ゴッホ美術館」。それまで美術本でしか見なかったゴッホの鮮やかな色彩と力強い絵を目の当たりにし衝撃を受けたものです。

ゴッホは本格的に画家を志望してから自ら命を絶つまでのわずか10年間で、約2000点の作品を残しているとされていますが、今回の国立新美術館での展示では、ゴッホがいかにゴッホ流のスタイルを追求し続けたかに焦点を当てています。

またゴッホの代表作だけではなくクロード・モネやポール・ゴーギャンなどゴッホに影響を与えた作家や、ゴッホの大胆な色彩表現に影響を与えた歌川広重などの浮世絵、関連資料など123点が展示。

今回の展示の中で私が印象に残った作品は「アイリス」です。ゴッホが37才で亡くなる約2か月前の5月に描いた静物画です。鮮やかなレモンイエローの背景の中から、紫のアイリスの花束が浮き上がって見える見事な作品。

それぞれの色が激しく競いながらお互いを鮮やかに強め合うアイリス。そのなかで、一部の花が、彼のその後を予兆させるかのように、腰が折れ瓶の下にしなり落ちているさまがとても印象的でした。120年の歳月により紫や黄色は多少色あせているかもしれませんが、作品自体の魅力は変わらないと思いました。

パブリック・リレーションズ(PR)でも、メッセージングは非常に重要な役割を果たします。それぞれのターゲットにいかにメッセージを的確に伝えるか、このあたりは芸術作品に似ているとも言えます。

他にもすばらしい作品が盛りだくさんです。ちょっと時間を調整して足を運んでみてはいかがでしょうか。ちなみに入場料は、当日1,500円、前売1,300円です。
この日は大いに納得して家路につきました。


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2010年08月23日

有給休暇消化率で最下位のニッポン
 ?求められる質の追求

こんにちは井之上 喬です。
先日愛媛県弓削島での休暇を終え、仕事に復帰しました。
8月23日は24節季のうちの処暑(しょしょ)。

「暑さがやむ」の意味で、朝夕は涼風が感じられる初秋のころをさすそうですが、まだまだ日中は残暑が厳しいですね。夏休みはどのように過ごされましたか。

日本では、まとめて休みをとる習慣がまだまだ一般的に普及していないことから、ゴールデンウィーク、夏休み(お盆休み)、そして年末年始と、全国的にある程度まとめて休みが取れる機会がつくられています。

しかし休みが集中することになり、観光ビジネスの側面で捉えると決して効率がいいとはいえません。

■有給休暇消化率最下位
休みと言えば、ロイターと調査会社イプソスが8月上旬に発表した「有給休暇を使い切る国別ランキング」には興味深い数字が載っていました。

この調査は、24カ国の約1万2500人を対象に実施、有給休暇を使い切る労働者の割合を国別にまとめたもの。

さてランキングですが、1位はフランスで何と89%、次いでアルゼンチンが80%で続きハンガリー78%、英国とスペインが77%でこれがベスト5、70%以上の国はサウジアラビア、ドイツ、ベルギー、トルコ、インドネシアと続いています。

ここで問題です、日本そしてお隣り韓国は? 韓国は53%で21位、そして日本は33%で最下位となっています。

調査会社は、「所得の高低に関わらず世界の労働者の約3分の2が有給休暇を使い切っている」「年齢別では50歳以下の若い人が使い切る人が多く、経営幹部クラスでは60%が使い切っていなかった」そうです。なんとなくわかる気がします。

また、「有給休暇を使い切らない理由はさまざまだろうが、仕事に対する義務感の強さが主な理由だろう」と分析していますが、皆さんはどう思いますか。

■読書で自分のバランスをとる
休暇はその休みの量(長さ)だけでなく、質の問題としても考えたいものです。いつも残業で忙しい人は家族サービスに徹することも大切かと思いますが、せっかくの休みですからたまには自分のためにも大切な時間を使うことも1つの考え方ではないでしょうか。
そんな時間を読書に費やすのもいいですね。

パブリック・リレーションズ(PR)に携わる人間として、日常的にさまざまな膨大な量の情報に接していますが、はたして自分のためにその情報がどれだけ生かされているのか考えてみるのもよい機会かもしれません。

先日、会社近くの新宿の大手書店を訪れました。各階のゆったりとした静かなスペースにはお目当ての本を探す多くの人が目につきました。この書店ではベストセラー本の紹介、話題の本の紹介に加え、特設企画コーナーも設けてあります。

活字離れが言われて久しいですが、こうした場所に行くと私も含め日本人は本当に本が好きなんだなあと実感できます。読書を通して、ともすれば見失いがちな自分自身を取り戻すことは大切なことだと思います。

ちなみに2010年は「国民読書年」だそうですが、皆さんご存知でしたか?

政府は2010年を「国民読書年」と定め、政官民が協力し、国をあげて様々なイベントも企画され、あらゆる努力を重ねていくことが宣言されています。

政府広報は、「近年は、学校での『朝の10分間読書運動』が浸透したり、学校だけでなく家庭、地域全体で読書を推進する『読書のまちづくり』が広がったりするなど、読書に対する国民意識が再び高まりを見せています」。とし、国が教育現場や社会での読書運動を強力に推進しようとしていることを感じることができます。

ちなみに8月20日までの1カ月は「雑誌愛読月間」。先日電車の中で、1つの中刷り広告が目に飛び込んできました。

キャッチコピーは「先生!雑誌を教科書にしてください。」。おもわず笑いがこみあげてきました。

時間が空いたら書店や図書館でお気に入りの1冊を探してみるのはいかがでしょうか。至福のときをみつけることができるかもしれません。

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2010年03月15日

聖書は生きる知恵の宝庫
 ?『聖書に隠された成功法則』その2

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

先日当ブログで、松島修さん著作の『聖書に隠された成功法則』(2010、サンマーク出版)をご紹介したばかりですが、同書は発売直後のアマゾン・ランキングで総合1位(2月23?24日)になったそうです。そして発売1週間で第3刷が決定されたようで、ハイスピードでその人気を高めています。サンマーク出版は、読売新聞(関東は3月11日、関西は12日実施)や日経本紙への広告出稿(いずれも半5段)を行うなど、販売にもかなり注力しているようです。

■いま聖書が注目されている
最近は隔週誌「Pen」の3月1日号でも「キリスト教とは何か」という特集が全体の紙面の2/3以上を割いて組まれています。また、新潮社の季刊誌「考える人」でも春号(4月3日発売)で特集として「はじめて読む聖書」が予定されています。

聖書というモチーフが一般のメディアで積極的に扱われ始めたのも、聖書が難しい時代を生きる私たちに語りかける力があるからなのでしょうか、時代の流れを感じます。

松島修氏

時代といえば著者の松島修さん(写真右)は、日本で最大規模の顧客数を持つ投資コンサルタントとして現在の世界金融恐慌を予測し、事前に自身のメルマガ等で「2007年6月7日で、すべての投資を止めるように」と投資家に警告を発した人としても知られています。

実際に2007年6月12日には、数年間上がり続けた長期米国債の金利がピークに達し、株から債券にお金の動きが逆流し始め、金融収縮が始まっています。株価のピークも6月のこの時期。

この動きは、後のリーマンショックによる株式相場の大暴落につながっていきます。松島さんの予測は的中。金融の現場からどのように時代を見分けて予測したのかは企業秘密なのでしょうが、松島さんは聖書から時代の分岐点がこの時期にあると考え、警告を発したといいます。興味深いところです。

■「4つの生き物」を使った性格診断
ところで、松島さんの著書の中で登場し、前回のこのブログでも紹介した「4つの生き物」を使った性格診断が、ウェブサイトでも登場しています。「聖書に隠された4つの性格診断」http://www.seikaku.com/ (「性格ドットコム」)です。

聖書に登場する、4つの顔を持つ天使の名前から「ケルビム・パターン」と名づけられていますが、このサイトを使うと、自分の性質を「獅子」「牛」「人」「鷲」の4つのタイプ別に簡単にチェックできます。松島さんの本職に合わせた投資・トレード向けの性格診断や、著書に合わせた成功のための性格診断などが用意され、診断に合わせた解説やアドバイスも掲載されています。

なかでも面白いのは、4つのタイプ別に「うつ病対処法」が掲載されていることです。「成功法則のパターンもそれぞれの気質によって異なる部分と、万人に共通する部分とがあります。うつ対策でも各タイプ別の対処法と、万人共通の対処法とは異なってきます。つまり、表面的には誰もが同じうつ症状のように見えても、その原因や必要な対応は異なってくるのです。このことを気付かないまま対処すると、前述のようにかえって症状を悪化させることすらありえるのです。」(同ウェブサイトより)

松島さんは、すべてのうつ病に共通する要因は、まず「未来への希望・将来への夢が持てないこと」だと述べています。次に4つのタイプ別の要因を解説し、獅子タイプ(外向型)は、「閉鎖的な環境と、周囲からの拒絶」に弱く、雄牛タイプ(目的志向型)は「期待していた成果や報いが得られなかったとき」にダメージを受ける、などそれぞれのうつ病の「傾向」や「うつ要因」、「対策」そして「周囲のサポート」などについて紹介しています。

人の性格によってカウンセリングを行うことは専門家にとっても難しいようですが、松島さんの独創的な分析方法は明快です。このほかにも「性格ドットコム」には、「ケルビム・パターン別恋愛対策」など、若い人たちの間で流行りそうな内容が盛り込まれた性格診断が近々登場する予定だそうです。

これらを見ていくと、1つのアイデアを広めていくときに、人々にアプローチできる角度がどれだけあるかを洞察する重要性が判ります。これは、パブリック・リレーションズ(PR)における個人の情報結節点の概念でもあります。ひとりの人が投資家であり、読者であり、うつ患者の介護人、そして恋人ということになるけです。

現代社会に生きるさまざまな人々を理解し、彼らとの多様な接点を築き上げていくノウハウは、これからより一層必要とされていくのではないでしょうか。

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2010年02月22日

私の心に残る本31 『聖書に隠された成功法則』
 ?究極の人生指南書が登場

『聖書に隠された成功法則』 松島 修著


こんにちは、井之上喬です。
みなさん、いかがお過ごしですか?

さて今回は、最近発売されたばかりの松島修さんが書いた、『聖書に隠された成功法則』(2010、サンマーク出版)をご紹介します。著者の松島さんは、日本で最大規模の契約顧客数を誇る投資コンサルタント。有料・無料を合わせて約3万人のメルマガ会員をもち、最近の投資業界で盛んになっているFXを日本にいち早く紹介し、業界では第一人者といわれるビジネスマン。

本書では、松島さんが「聖書」に基づいた「成功法則」を解説しています。人類の大ベストセラーである聖書。2000年の1年間だけを見ても、世界中で配布・販売された数は約6億3300万冊(国際聖書協会)。聖書の解説書は数多くありますが、これまで「神」という存在には深く触れず、何か抽象的な存在に置き換えることで、教養として読み解かれている書籍は少なくありません。

しかし本書の特徴は、聖書解説の王道である神の概念にストレートに言及しつつ、宗教を排除した実践的な成功法則を紹介しているところにあります。著者のビジネス体験や時事的な話題も随所に盛り込まれ、地に足が着いたビジネス書ともいえます。

■自分が「最高の存在」であることを知る
本書が昨今流行の自己啓発や成功哲学に対し、真正面から異議を唱えている点も新鮮で興味深いところです。

松島さんは、人間は神に似せて創造された傑作であり、「人間のステイタスは、神が創造したものの中で、最初から最高の地位にあるのです」と語っています。これは今の限界を突破し、これ以上ないほどの成功を遂げた姿こそが私たちの本来の姿である、という逆転的なセルフイメージですが、ここにこれまでの「成功哲学」書が唱えてきた「自己実現」との根本的な違いあると言います。

「自己実現とは、自分で定めた目標を目指すことです。神実現とは、すでに神があなたに与えている目的に向かって進むことなのです」(31頁)と、自己が設定した目標や理想を強調するあまり、「それに成り得ていない自分」という負のイメージが、成功を困難にさせると説いています。神により与えられた目的に向かって歩まず、自己判断で目標設定し、人が本来進むべき道を進むことなく目標を達成した場合、虚脱感に襲われることがあるとしています。根拠のない自己実現は「諸刃の刀」だと論じているのです。

自己が持ち合わせていないステイタスを獲得するのではなく、「(神から与えられた)本来のステイタスを回復するだけでよい」とするこの生き方を、松島さんは自己実現に対比して「神実現」と表現しています。

成功のコツは、本来の自分の姿を悟り、それと一致した自己実現へ歩みだすこと。松島さんは、これは自己実現ではなく、神実現であるとしています。また、世の中で考えられている1)金持ち→成功→幸福、という実現プロセスは間違いであり、1)幸福→2)成功→3)お金持ち、というプロセスこそが正しいと説きます。

また本書の中で松島さんは、「宗教」と「信仰」の違いに言及し、「聖書は宗教書ではない」と断言しています。そして、これまでの伝統的な聖書解釈から決して逸脱することなく、むしろそれらを大切に保持しながらも、「宗教と信仰は、一見似ていますがまったく異なるものです。宗教と信仰を簡単に分けるとすれば、宗教は人を束縛するものであり、信仰は人を自由にするものです」(199頁)と語っています。

そして信仰とは、神実現の土台となることを受けとめるべきだとしています。つまり、
・人は、それぞれ目的を持って神によって創造された
・人は、神に似せて創られた最高傑作
・人は、神から愛されている

ということを受け止めることだと述べています。
宗教性を排除して、聖書への純粋な信仰を描こうとしているのも興味深い試みといえます。

■タイプ別の成功法則を探る
本書のもう一つの特徴は、中盤で詳しく紹介されている、「4つの生き物」というタイプ別成功法則です。「人それぞれ性格・資質・能力・感性などが違い、成功の道のりも違います。普遍化できる部分もあれば、タイプ別に分けて考えなければいけない部分もあります。」

これまでの一元的な成功哲学では、その手法が当てはまる人も、はずれる人もいましたが、本書では聖書に秘められた4つのタイプを紹介することで、誰もが成功できるタイプ別対応策を伝授しています。

そして、天使(ケルビム・セラフィム)の顔に描かれた1)「獅子」2)「雄牛」3)「人」4)「鷲」の4つの生き物を解説し、チェック・リストによる気質診断などで、楽しみながら自分の資質と才能、成功のためのポイント、陥りやすい罠、対応策などを分析してくれます。

最初の1)の「獅子」タイプは、外交型(リーダーシップ、親分肌、人の中で生き、人の必要を満たそうとする、人の愛を必要とする)。次の2)「雄牛」タイプは、目的志向型(わき目も振らずに目標に向かって直行する、目的達成のために人生をささげ費やす、集中力があるから受験勉強などが得意、目標設定し、達成すると達成感・幸福感を強く感じる)。

また、3)「人」タイプは、内向型(常に自分の内面を深く見つめる、感受性豊か、繊細な神経で周囲に心地よい気遣いができる、心が動揺しやすく、言動が情緒的)。最後の4)「鷲」タイプは、鳥瞰型(高い視点から物事を見る、常に将来的なことを見ながら行動できる、まだ見ぬ未来を予測し期待をする、型にはめられるのが苦手・協調が苦手)。

上記4つの生き物の気質は、人によってさまざまなブレンドがありますが、ほとんどの場合は、どれか一つの気質が色濃く出るようです。本書ではこの4つのタイプの組み合わせやビジネス事例などが書かれています。松島さんは、この4つの気質が統合された姿こそ理想的な人間像であり、その手本がイエス・キリストだと教えています。気質診断は、このURL(http://www.the-status.com/shindan1/)から簡単にチェックできますので試してみてはいかがでしょうか。

斬新な切り口と平易な文体で読者の知的好奇心を刺激する本書は、奥深さと分かりやすさを備えています。たとえば、世間の偽りの成功法則が一見すると聖書と良く似ていますが、その理由として「偽札には独自デザインはありません。それでは誰も騙されないからです。騙すためには、本物のお札に極力似せて作ります」と説明。

正しく見分けるためには偽札を研究するより本物の紙幣をしっかり覚えることが一番有効と薦め、「同様に、私たちが偽の成功法則に騙されないために一番よい防衛策は、本物の聖書に深く触れることです」と本物に触れることの重要性を説いています。

いま国際社会は、環境問題や金融問題、貧富格差、地域紛争、企業倫理の欠如などさまざまな問題に対する回答を模索しています。リーマン・ショックは私たちに、お金儲けに奔走した結果がもたらす人間性喪失の怖さを教えてくれました。松島さんの語る神実現の視点は、それらすべてに対する答えへの共通基盤とも言えるでしょう。

何が正しいのかを見分けていくため、今ほど「本物に触れる」ことが必要な時代はありません。松島さんは「自分だけでなくまわりの人をも幸福にできる人こそが真の成功者です。」と語ります。周りにも成功を波及させていくライフ・スタイルとストラテジーです。これはパブリック・リレーションズ(PR)における、リレーションシップ・マネジメント(良好な関係性の維持)の概念にも共通しています。パブリック・リレーションズを発展させることは、松島さんが提唱する神実現をスムーズに実践していくための大切な手立てとなるでしょう。

個人と社会のあるべき姿を見出すために深い示唆を与えてくれる一冊です。ぜひ一度読んでみてはいかがでしょうか。

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2010年01月25日

ルノワール、「伝統と革新」
?日本のアイデンティティが問われている

六本木・国立新美術館


こんにちは、井之上 喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

忙中閑あり。新しい年が始まったばかりで何かと忙しい日々を過ごしていますが、すこし時間がとれたので、週末、六本木にある国立新美術館(写真)で開催したばかりのルノワール展(1月20日?4月5日)に出かけてきました。フランス印象派の巨匠で「幸福の画家」として世界中の多くの人々に親しまれている画家ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)。印象派の中でもっとも筆触の多様性を追求したルノワールの世界に、数時間たっぷり漬かってきました。

ルノワールと初めて出会ったのは1980年代後半、パリの「オルセー美術館」でした。その柔らかな筆使いや輝かしい色彩は見る人の心をなごませます。今回の展示テーマである「伝統と革新」はなぜか私の興味を引きました。

■創造性の原点は何か?
国立新美術館は、この1月で開館3年を迎えましたがコレクションを持たない代わりに、広い展示スペースを生かし多彩な展覧会の開催、「美術」に関するさまざまな情報や資料の収集、教育普及などアート・センターとしての役割を果たす、新しいタイプの美術館として注目されています。

今回のルノワール展には、ボストン美術館、ワシントン・ナショナル・ギャラリー、オルセー美術館、ポーラ美術館、大原美術館など国内外のコレクションから「アンリオ夫人」「ブージヴァルのダンス」「勝利のビーナス」「本を持つ少年」「イチゴのある静物」「水浴の後」「休息」など85点が持ち運ばれ紹介されていました。皆さんも思い浮かぶものがいくつかあるのではないでしょうか。

展示は第1章「ルノワールへの旅」、第2章「身体表現」、第3章「花と装飾画」そして第4章「ファッションとロココの伝統」と4つのテーマ展示がされていました。ルノワールの画家としての歴史を若き日の印象主義の時代、40代の模索と試作の時代、そして50代から晩年の集大成の時代まで、画家として、そして人間としてのルノワールの足跡をたどることができました。

解説によると、画家としていずれの時代でもモダニズム(近代主義)と伝統の間で常に模索を続けていることと、ルノワールを取り巻く人々が、モデルとなった若き女優や文学者、画商やその家族など多彩である―としており、そこに常に自分の理想を追求し続けた人間ルノワールの姿が見えてきました。あなたはどの時代のルノワールが好きですか?同窓にモネなどがいたグレールの画塾での修行時代から印象主義の時代ですか、あるいは豊かな量感と生命感あふれる裸婦像の時代でしょうか、それとも風景画や静物画でしょうか。

展示の中で非常に興味深かったのが『光学調査』のコーナー。このコーナーでは、箱根のポーラ美術館が2007年から2009年にかけてルノワールの作品をX線や赤外線そして蛍光エックス線などを使い科学的に光学調査した結果を展示していました。

その結果として40代の作品では輪郭を2重に描きふっくらとした量感を出していたこと、下書きでは長い髪であったものがまとめ髪になっていたりと、1枚の作品でもさまざまな模索がなされていたことが分かったそうです。また材料や技法についてのさまざまな模索の結果、晩年のルノワールの大らかで何とも言えない深みのある表現方法が完成されたことが、科学的調査でわかったことでした。

■日本そして日本人のアイデンティティはどこにあるのか
画家を目指す前のルノワールは、皿や壺に18世紀のロココ調の絵画を写す絵付け職人だったそうです。そうしたことも頭に入れながら展示会場を順に眺めてみると、人の身近にあって喜びを与えるものの創造をめざし、若き日々から晩年までの模索の連続が“伝統と革新”を融合させる今回の展示テーマになっているのもなんとなくわかるような気がしました。

私が印象に残ったのは今回のパンフレットにも使われている「団扇(うちわ)を持つ若い女」でした。1880年ごろの作品だそうですが、1878年に開催されたパリ万国博覧会への日本からの美術品出展などにより、ジャポニスムが頂点にあったころの作品で、日本の団扇や菊のような花がモデルとなったコメディ・フランセーズの人気女優を彩っています。

日本的なところにも心惹かれたのかもしれませんが、全体を支配する、わくわくするような色彩とともに背景右側の縦縞と左側の花のコントラストの中で女性が生き生きと描かれているのが印象的でした。

ジャポニスムは単なる一過性の流行ではなく、欧州を中心とし世界の先進国で30年以上も続いた運動。明治初期、文明開化とともに日本では浮世絵などの日本美術が急速に求心力を失う一方で、ヨーロッパで日本美術が絶大な評価を受けていたことは実に皮肉なことです。

日本美術から影響を受けたアーティストは他に、ボナール、マネ、ロートレック、ドガ、ホイッスラー、モネ、ゴッホ、ゴーギャン、クリムトなど枚挙にいとまがありません。それまで、近代的な表現技法に行き詰まりを見せていた西洋絵画が日本美術から多大な影響を受けていたのです。

日本という国、そしてそこに住む我々日本人はいま、アイデンティティを失いつつあります。政治・経済での迷走、技術分野でも一時期の輝きを失い、圧倒的なパワーを持つ中国やインドなどの勢いに委縮しているようにさえみえます。しかし、日本の伝統を生かしながら世界に打って出る方策は必ずあるはずです。今こそ模索の連続の中からひと筆で描ける自分を見つけ出す時なのかも知れません。

美術館からの帰り道、六本木の路地裏に流れるリヤカーを引いた豆腐売りのラッパの音が妙に心に響いた夕暮れでした。

投稿者 Inoue: 08:50 | トラックバック

2009年12月21日

クリスマス・ショートショート
 ?聖夜の贈り物

こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?


今年もクリスマスがやってきました。世界中がツリーを飾り、イルミネーションが家々や街路そしてお店に、美しく光輝いています。

クリスマスは2000年前、イスラエルの小さな町ベツレヘムの馬小屋で生まれた救い主キリストの誕生をお祝いする日です。つまり神様が人類の救いのために、愛するひとり子を私たちにプレゼントしたということです。世界中の人々は、クリスマスの日に離れ離れの家族は一緒に過ごし、戦争中の国は停戦をし、友達や恋人達は一緒に食事を共にし、プレゼントを交換します。

そして世界中の沢山のサンタクロースは子供たちへのプレゼントで大忙しです。クリスマスは世界中で愛と平和と喜びが飛び交うシーズンなのです。今回はクリスマスにちなんだ短いお話をプレゼントします。

あるところにとても貧しい夫婦がいました。二人はたいへん愛し合っていました。クリスマスが近づいてきたとき、お互いにプレゼントを何にしょうかと考えます。

夫は妻に素敵なプレゼントを考えていました。妻もまた愛する夫へ心こもるプレゼントを考えていました。夫は思いつきました。妻の長いそして大そう美しい髪を梳(と)かす飾り櫛を贈りたいと思いました。彼はお店に行きましたが、その櫛を買うにはお金が足りませんでした。そこで自分がとても大切にしていた、たった一つの腕時計を売って飾り櫛を買うことにしました。

妻も思いつきました。夫の腕時計のバンドがとても古くなっていたのでバンドを贈りたいと思いました。彼女は時計のバンドを買いにお店に行きましたが、そのバンドを買うにはお金が足りませんでした。そこで彼女は、自分の美しい長い大切な髪を売ってバンドを買うことにしました。

クリスマスの夜、ろうそくの光が部屋を照らすなかで二人はプレゼントを交換しました。そして互いがプレゼントを開けて見ました。一時の静かな沈黙のあと、二人は喜びと幸せに満たされました。一番大切なものを人に与え、与えられるという本当の愛のプレゼントをもらったからです。

メリー・クリスマス!

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2009年09月28日

私の心に残る本 30
堺屋太一の『凄い時代:勝負は2011年』

『凄い時代:勝負は2011年』 堺屋太一著


こんにちは、井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?


「凄い時代である。一年前は大昔、二年先はまったく新しい世の中になるだろう」

新しい民主党政権下で日本はどのような道を進めばいいのか?と考えている人も多いのではないかと思います。 冒頭の文は、今回ご紹介する堺屋太一著の『凄い時代』(2009年、講談社)からの抜粋です。本書で堺屋さんは、2008年から2009年にかけて世界を未曾有の混乱に陥らせた金融、政治、経済の状況や将来への展望などを、官僚、閣僚経験者ならではの多様な視点で解かりやすく書いています。

■ どうして日本が「最悪」なのか
堺屋さんは、通商産業省(現・経済産業省)に在籍中、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)を企画、開催し、 1978年通産省退官後、1998?2000年には小渕・森内閣の経済企画庁長官に就任。一方で、『油断!』(1975年)で小説家としてデビュー、NHKの大河ドラマ「秀吉」の原作者になるなど、幅広い視点で人生を生きている人です。

本書で堺屋さんは日本が最悪な状態にあるとし、サブプライム・ローン破綻に始まる金融危機では最も被害が少なかった国(世界損出の4%未満)であったにもかかわらず、2009年の実体経済の下落率予測(IMF)はマイナス6.2%で震源地米国のマイナス2.8%に比べ落ち込み幅が大きいことを指摘。

そして、「今日の経済不況は、自由化・規制緩和のせいではない」と断言し、「製造業を中心とした、物財の面だけを自由化・規制緩和しながら、21世紀の成長分野である 医療・介護・育児・教育・都市運営・農業などを完全な統制体制のままにしてきた『偽りの改革』にある」とその問題点を摘出しています。

堺屋さんはその主な原因について、日本が官僚主導の体制を保持しながら、終身雇用の雇用慣行を続け、 20世紀の最適工業社会に甘んじ必要な改革に手をつけなかったことにあると述べています。

小渕内閣の経済企画庁長官を務めた堺屋さんは、小渕政権は、バブル崩壊後に苦しむ経済不況脱却のために、金融構造の改革、社会関係放棄の改革、労働法規の改革など日本の経済社会をクローバル化に適応させる「壮大な改革」を実行していたと書いています。しかし、当時の首相、小渕恵三は、志半ばで病に倒れ、改革の実現には至らなかったと述懐しています。

■ みんなの「満足」を目指して
堺屋さんといえば、知価革命。本書でも堺屋さんは「物財の豊かさが人間の幸せ」を掲げた社会から、みんなの「満足の大きさ」を追及する社会にシフトさせる知価革命を提唱しています。

その方向性で国づくりを行なう決定的な期間は3年であるとして、堺屋さんは、世界的な混乱の中、日本が自由と繁栄の道を進むために必要なのは、「明治維新」的な大改革であると説いています。

そのためには価値観と行為基準、そして社会構造の変化が必要だとして、3つの改革を提案しています。1つ目は、公務員制度の改革と地方分権の徹底による、官僚依存、官僚主導からの脱却。2つ目は、終身雇用制度を緩和し、公共が国民の生産力を高めるために責任を持つ体制づくり。3つ目は、若年出産の推進と子育て産業の市場化であるとしています。

現在さまざまな分野で、20世紀に多くの格差と対立を生んだ物質主義の社会から、心の豊かさを重んじる共生型の社会へと移行させるにはどうすべきかが模索されています。堺屋さんの提案もその1つ。これらの改革は、どんなハードルをも越えて実現していかなければならないものだと思います。

このような抜本的な改革には目標達成への強靭な意志と確かな手法が必要となります。パブリック・リレーションズ(PR)は、パブリックやステークホルダーとのリレーションシップ・マネジメント(良好な関係性の維持)を通して、目的を最短距離で達成する手法です。従って、パブリック・リレーションズをしっかり実践することは、堺屋さんが提唱する事柄の実現の早道となるはずです。

本書は、地球規模での変化が進む中、日本がどのような長期的繁栄を目指していくのかといった疑問に対して、大きな指針を与えています。一度読んでみてはいかがでしょうか。

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2009年08月24日

私の心に残る本 29
  『天才は10歳までにつくられる』

『天才は10歳までにつくられる』 横峯 吉文著 


こんにちは、井之上喬です。
みなさん、いかがお過ごしですか。

皆さん、最近テレビで、園児全員が逆立ちで歩いたり、7段8段の跳び箱を軽々跳び越えたり、5歳児で漢字が読み書きできたりする特別な教育法について、観たことはありませんか?この教育法は「ヨコミネ式」教育法といい、その主宰者は、女子プロゴルファー横峯さくらの伯父である、横峯吉文さんです。

今回は、その横峯吉文さんが書いた『天才は10歳までにつくられる』(2009年、ゴルフダイジェスト社)をご紹介します。「すべての子供は天才である」。本の冒頭に出てくるこの言葉にはインパクトがあります。本書は、「ヨコミネ式」教育法を具体的に解説した本で、強い個の原点とは何かを提示しています。

■ 自学自習のスイッチとは
横峯さんは1980年、鹿児島県志布志市に社会福祉法人純真福祉会「通山保育園」を設立。現在は、3つの保育園と「太陽の子山学校演習場」、「太陽の子児童館」の理事長を務めています。「ヨコミネ式」教育は全国的に話題となり、カリキュラムとして採用する保育園、幼稚園が急増。その「ヨコミネ」式の原点は、自分で学ぶ「学育」にあるようです。

横峯さんは、「反復して身につけた基本は、いくらでも応用が効く」として、反復学習法を提唱しています。従ってカリキュラムのベースも、読み書き計算・体操を20分ずつ、毎日反復する構成になっています。それをベースに英語や音楽、水泳など、さまざまな必要項目をプラスしていき、心身をバランスよく発育させる教育環境を実現しています。

そして、カリキュラムには、子供が自分で考え、行動し、気づくこと、つまり自然に逆らわず自発性を促す、「自ら学ぶ力」となる「自学学習」のスイッチを入れるしくみがいくつも隠されています。

そのスイッチは、子供の脳の発達に合わせた教育をすること。たとえば、乳幼児はとても耳がいいので、「ヨコミネ」式では、英語や音楽など、音に関する教育は0歳から2歳のうちに始めています。また、書き取りも、漢字やカタカナ、ひらがなを組み合わせた95文字の基本文字を用意し、漢字の「一」から教え、ひらがなの「む」で完了するシステムになっています。

また「勝負させること」で子供の意欲を掻き立てています。毎朝の10分のランニングでも、リレー方式できちんと競わせています。毎日競わせることで、勝つことの喜びをカラダに覚えさせているとしています。このランニングは、足腰を強くする効果もあって、子供のカラダのベースをつくるようです。

そして、「ヨコミネ」式は、こどもの好きなことを追求させることで、学ぶ喜びを身体で実感させています。本書には、ピアニカを学ぶにも、子供の好きな曲をどんどんやらせて、子供が喜んで次々に新しい曲目に挑戦する姿が、生き生きと描かれています。

■ 能力を信じる
私が、この本を読んで本当に素晴らしいと感じたのは、そのカリキュラムの独創性もさることながら、「ヨコミネ」式の根底にある、教育者の「信じる力」です。「ヨコミネ」式では、生徒である子供たちの能力を信じて、彼らができるものを与えて、後は、子供の好きにさせてあげています。

信じることが重要だと解かっていても、それができる大人はほとんどいません。親が、「子供が傷つくのがかわいそう」「どうせできない」など、不必要な心配やネガティブな考えを抱いて、子供をマイナス志向に導いてしまうケースはいくらでもあります。しかし、「ヨコミネ」式には無縁です。写真の子供の目が明るく生き生きと輝いているのは、周りにいる大人が子供を芯から信じているからかもしれません。

冒頭の言葉にあるように、子供は天才でその可能性は限りなくあります。自学自習のできる子供を育てる教育方針は、これから必要な方向性です。私は、常々、今の日本で強い個をもった人材を排出する必要性を強く訴えていますが、「ヨコミネ」式には、強い個を作るベースがあると感じました。

以前、パブリック・リレーションズ(PR)は古くから日本に醸成されている「絆(きずな)」に通じるところがあることをお話しました。絆は「しがらみ」とは異なり、悪い意味合いが介入しない言葉です。島国で農耕を営んできた日本は、あうんの呼吸やテレパシーで相手とコミュニケートできる、ハイコンテキスト・カルチャーの国といわれ、これまで欧米の多民族・多言語社会のローコンテキスト・カルチャーとは異なった絆づくりが行なわれていました。

しかしいまや、グローバル社会の一員として、ローコンテキスト社会の中での絆づくりが求められています。私はローコンテキスト社会の中における絆づくりこそ、パブリック・リレーションズではないかと考えています。なぜなら多民族社会米国のパブリック・リレーションズはローコンテキスト・カルチャーの中で発展を遂げてきたからです。

そして、パブリック・リレーションズを初等教育に導入するためには、「きずな教育」を推進することが最も効果的であると私は考えています。本書を読み終わり、このような理想的にも見える「ヨコミネ式」教育法のシステムに、きずな教育の導入が可能になれば、日本の教育を一変させることになるのではないかという直感を得ました。

30年の試行錯誤の末にたどり着いた、落ちこぼれゼロといわれる教育法。横峯さんには、機会があれば、是非一度お会いし、「ヨコミネ式」教育について、また卒園後の子供たちがどのように成長しているのかなど、意見交換を行なってみたいと思います。「人間力」が求められている日本。皆さんはどのように考えますか?


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『「説明責任」とは何か』 井之上喬著 <お知らせ>

『「説明責任」とは何か』(PHP研究所、税込735円)
好評発売中!

いまや日本中で連日連夜、謝罪が繰り広げられている。「説明責任を果たしていない」と詰め寄られる企業不祥事の記者会見。「説明責任は果たせたと思う」と大臣をかばう総理のコメント。

だが国民はけっして納得していない。いまなぜ、どのように《説明責任》を果たすことが求められているのか? パブリック・リレーションズ(PR)の第一人者が、「倫理」「双方向」「自己修正」の三つの原則から、日本における《説明責任》の実態を解説し、問題点を指摘する。情報開示に不可欠なリスク管理にポイントをおいた待望の書き下ろし。


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2009年07月20日

私の心に残る本 28 斉藤孝の『人間関係力』

『人間関係力』 齋藤 孝著 


こんにちは、井之上喬です。
みなさん、いかがお過ごしですか。

ビジネスの現場において、ストレスの素となるような問題はひっきりなしに発生します。その多くは人間関係に関わるもの。今日は、斉藤孝著の『人間関係力』(2008年、小学館)を紹介します。斉藤孝さんはパブリック・リレーションズに関わっている方ではありませんが、私はこの題名を目にした時、とっさにパブリック・リレーションズ(PR)を連想しました。

著者の斉藤孝さんは、教育論、身体論、ビジネス論を展開し、現在は明治大学文学部で教鞭をとっています。本書で斉藤さんは、人間関係から生まれる疑問に対し、エジソンや黒澤明、マキアヴェリなど33人の歴史上の偉人の言葉を通して、具体的な対応策を提示しています。

■ 武蔵のモットーは「観見(かんけん)」
「(中略)観見二つのこと、観の目つよく、見の目よわく、遠きところを近く見、ちかき所を遠く見ること、兵法の専也」

宮本武蔵が『五輪書』に残したこの「観」とは全体を俯瞰すること、「見」とは焦点を絞ってみることです。文章全体の意味は、相手の全体と詳細をバランスよく把握するために、相手の動きに捕らわれずに、その背景も同様に良く観察しなさいということです。

武蔵は、相手に先手を打つことで剣豪として生涯無敗の人生を終えました。その極意は、「観見」。武蔵は、勝負には相手をあらゆる角度から客観的に観察することが大切であるとし、相手を正しく捉えることができれば、自ずとその対応は決まると説いています。

斉藤さんは、「勝負に敗れる人の多くは、どうしても『見』が強い」と述べています。そして、「もし『敵』の姿を正確に把握していたら、こちらが窮することも、途中で言い争うことも、そうはあるまい」と断言しています。

■ 新渡戸のチアフルな世渡り
「世に処するに善意を持ってし、『チアフル』に世渡りしたい」

新渡戸稲造の「チアフル」な世渡りとは、人生をできるだけ上機嫌に過ごしたいというものです。新渡戸はそのために、いやな事を笑顔で包み込んだり、自分をさらけ出すことで周囲を上機嫌にしたりと、さまざまな工夫をしていたようです。

新渡戸は、若いころから随分と短気だったらしく、念仏を唱えたり、寝る前に怒りの告白をノートに記したりと、自らの怒りを静めるための修養を実践していました。斉藤さんは、「新渡戸が後世、品格ある人物といわれたのは、生まれ落ちたときから人格者であったからではなく、自分が『短気』であるという欠陥を認識していたからだ」と述べています。

新渡戸稲造のように、自らの欠点を認めて修練により、良い方向に変えていく努力は必ず人生を明るくします。明るい人には人が集まってきます。人は誰でも変われる力を内に秘めいているものです。

斉藤さんはまえがきの冒頭で、人間関係を水に例え、人生の大きな推進力にもなるが抵抗力にもなると指摘しています。人間関係を人生においてプラスに働かせるには、現状を受け入れる、自分も他人も楽しくさせる、心と心を結ぶという、個としての基本が大切であるようです。

パブリック・リレーションズ(PR)は目的達成のための関係構築活動です。そのためには人間関係をいかにマネージするかがポイントとなります。今回は2人を紹介しましたが、ほかの31人の人生教訓を学ぶだけでなく、それぞれの偉人の意外な素顔も知ることのできる本です。一度読んでみてはいかがでしょうか。

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『「説明責任」とは何か』 井之上喬著 <お知らせ>

『「説明責任」とは何か』(PHP研究所、税込735円)
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いまや日本中で連日連夜、謝罪が繰り広げられている。「説明責任を果たしていない」と詰め寄られる企業不祥事の記者会見。「説明責任は果たせたと思う」と大臣をかばう総理のコメント。

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2009年06月15日

私の心に残る本27
 松下幸之助著 『道は無限にある』

『道は無限にある』 松下幸之助著 


こんにちは、井之上喬です。
先週、本州に梅雨入り宣言がありましたが、みなさん、いかがお過ごしですか。

かつてない混迷の時代にあって、さまざまな難題が身にふりかかる今日、私たちは困難な状況にどう立ち向かい将来へつなげていくべきなのでしょうか。今回は、松下幸之助が著した『道は無限にある』(2007年、PHP研究所)をご紹介します。

本書は、1975年出版されて以来ロングセラーとなった本が新装発刊されたものです。70年代前半は、第一次オイルショックのあおりを受けて、日本経済が苦境にたたされた時代でもありました。 本書では、松下さんが数々の経験を通して、読者に激しく変化する状況に翻弄されることなく生きるためには何が必要かを力強く語っています。

■ どんなに世の中が乱れても
「人生においては迷うこともある。迷わなければならない。迷うからこそ、道をはずさずに進んでゆける」

ゼロから出発し、松下電器(現・パナソニック)をグローバル企業に築きあげた松下さんも、初めから全てが順風満帆であったわけではありません。 むしろ、その道筋は困難の連続でした。創業初期には、明日支払うお金がないということも度々で、大晦日に、夜中まで集金に奔走することもあったといいます。

しかし松下さんは、「困難に直面すれば新たな道が生まれる」という信念を崩しませんでした。松下さんは、難しい局面においても諦めず、新しい道が開けるまでやり尽くすという姿勢で取り組み、松下電器を世界企業にまで育て上げたのです。

松下さんは、その極意を次のように述べています。
「志を失わないことが大切なのです。どんなに困難になっても志を失わずして、そうして敢然と受けるべきものは受け、くじけずして進んでいくということが、やがて自力再建という姿をもたらすのではないかと思うのです」

松下さんは本書で、このように長い経営者人生において何度も困難を越えるうちに、苦難を乗り越えることが楽しくなってきたとも語っています。

■ つねに喜びをもって
「人間というものは、気分が大事な問題です。気分がくさってくると、立派な知恵や才覚を持っている人でも、それを十分に生かすことができません」

松下さんは生涯にわたり、スピード感を持って、あらゆる方向に向かって進化発展のために努力していく姿勢を貫きました。その根底には、つねに「限りなく進歩していくという過程を楽しみ、喜び、それを感謝するという姿」がありました。

松下さんは苦しいとき、普通の人なら不平不満に陥るところを、むしろ困難がやってきたことに感謝し、それをどうしたら楽しめるか、どうしたら喜べるかということに集中しました。そうすることで、松下さんは喜びに満ちた人生を自ら実践していたように思えます。

松下さんは、苦しみを喜びに変える狭間にこそ、成長のチャンスやビジネスのチャンスが隠されていることを本能的に知っていたのでしょう。そして、松下さんは、そこに花を咲かせるための努力を一切惜しみませんでした。

また松下さんの言葉の中に、横綱の話を例にしながら、日ごろの訓練を怠らないように語っているところがあります。横綱のように、1分間の土俵での勝負のために毎日2時間も3時間も稽古をつんでこそ勝負にも勝つことができるとしています。また毎日の訓練があるからこそ、チャンス当来のときにも力が発揮できると説いています。パブリック・リレーションズ(PR)実務家の心にしみこむ言葉です。

困難な時代をいくたびも乗り切った松下さんの言葉には、時代を超えた説得力があります。一度手にとってみては、いかがでしょうか。

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2009年05月18日

私の心に残る本26 渋沢栄一『人の上に立つ人の「見識」力』
 ?日本資本主義の父

『人の上に立つ人の見識力』 渋沢 栄一著 


こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。
                           
史上最悪の不景気と深刻な政治の混迷。真のリーダーが求められる日本にあって、今回は明治時代から大正初期にかけて活躍した「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が著わした『人の上に立つ人の「見識」力』(坂東眞理子解説:2008年、三笠書房)をご紹介します。本書では日本の基幹産業500社を創った渋沢栄一が、彼の人生哲学を通して人間としての生き方、国を豊かにするリーダーの要件を8章にわたり明快に示しています。

■ 大常識人の人間的奥行き
「政治が理想的に行なわれるためにも国民の常識が必要で、産業の発達進歩も実業家の常識の負うところが多いとすれば、いやでも常識の修養に熱中しなければならない」

渋沢栄一は、1840年現在の埼玉県深谷市の豪農に生まれました。幕末の動乱期には尊王攘夷論に傾倒し、一橋家の幕臣となりました。20代前半という若さで徳川慶喜の弟、徳川昭武の随員として、パリ万博に出席。昭武と共にヨーロッパ各地を視察し、帰国後は交友のあった大隈重信に勧められ大蔵省(現:財務省)に勤務します。

その後大蔵省を辞職し、実業に専念。彼は、第一国立銀行(現みずほ銀行)や王子製紙、東京海上火災保険、日本郵船、東京ガス、帝国ホテル、キリンビール、東京証券取引所など、実業界の第一線から退くまで近代日本の資本主義的経営の確立に貢献しました。

しかし、岩崎弥太郎、三井高福、安田善次郎、住友友純など他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにあります。「私利を追わず公益を図る」
渋沢さんは実業界の中でも最も社会活動に熱心で、晩年は、東京高等商業(現:一橋大学)や日本赤十字社、聖路加国際病院などの設立に関わるなど、教育機関、社会公共事業の支援にも力を注ぎました。まさに、現代のCSRを当時すでに実行した経営者であったといえます。

渋沢さんは、大きな常識を持っている人が、真の傑物になると述べています。渋沢さんのいう常識とは、『「知・情・意」の程よいバランスのこと』。渋沢さんは、知恵ばかり勝って、情愛が薄ければ、自己利益ばかりを追求する傾向を生んで長いスパンでの成功ができないと説く一方で、大きな意志で変化しやすい心をコントロールしなければ、自分の道を貫くことができないとしています。

また、渋沢さんは「知恵の働き、学問の積み重ねが十分あって、それで天真爛漫を維持し、知恵や学問を活用していくなら、その人格は実に立派である」と説き、人間的な奥行きには素直な心も大切であると記しています。

以前このブログでPRパーソンの心得として「偉大なる常識人であれ」を記しましたが、100年以上も前に活躍していた渋沢さんのメッセージは、色あせることのない深い洞察力と迫力で私たちに強く訴えかけます。

■ 伸ばすも殺すも“心の物差し”しだい
「心の善からぬ発動を押さえ、過ちに克ち、礼儀に基づいて行動を完全にすれば、天下は期せずして仁に帰することになる。(中略)これを行なうには、常に何かの心の基準となるものがなくてはならない」。

渋沢さんは、終生変わらず幼少期に学んだ『論語』を生きかたの基本におきました。渋沢さんは、孔子の教えを忠実に守り、「倫理と利益の両立」を掲げて、利益を社会に還元して国全体を豊かにするという志を生涯にわたり貫き通しました。

また渋沢さんは人生の目的について、「人は何のために生きるのか」と問いかけ、「私はこの世に生まれた人はいずれも天の使命を帯びていると信じているから、自分もまた社会のこと、公共のことにはできるだけの貢献をし、その使命を果たしたいと考えている」と語っています。

渋沢さんは、生きる目的として天命に沿った大志を掲げることで、過ちを犯しそうになる時にも踏みとどまることができるとして、私たち読者に、熟慮して生涯貫くことができる大志を定めなさいと説いています。

世の中に変革をもたらす人には、人生における確固たる指針を持つ人が多いようです。以前このブログでご紹介した本の著者、稲盛和夫さんは釈迦を手本とし、故マザー・テレサはイエス・キリストに人生の基準を定めました。確固たる指針は人に信念を与え、個人を強くします。いまの混迷の時代に生きるリーダーに求められているのは、大きなうねりの中でも揺るがない「心の物差し」なのかもしれません。

「人事を尽くして天命を待つ」とは、本書の最後に語られている名言です。これは、倫理にかなった事、やるべき事を全てやったら後は天に任せなさいという意味の言葉です。天に委ねる心とそこから生まれる余裕が、渋沢さんの人生に壮大なスケール感を創り出していたといえます。

渋沢栄一が現在を生きていたら、私が心底お会いしてみたい一人です。もし彼が生きていたら、今の日本社会をみて何というでしょうか。「なに、立ち止まっているんだ」という声が聞こえてきそうです。

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2009年04月27日

私の心に残る本25  稲盛和夫の『働き方』

『働き方―「なぜ働くのか」「いかに働くのか」』 稲盛和夫著 


世界の根幹が揺らぐ混迷の時代にあって、「働くこと」を厭う人や働くことを怖がる人など、働くことに幸せを見出せない人が増えてきています。

今日は、京セラの名誉会長を務める稲盛和夫さん著『働き方』(2009年、三笠書房)をご紹介します。稲盛さんの本は以前このブログで『人生の王道?西郷南洲の教えに学ぶ』(2007年、日経BP社)を紹介しています。亡くなった私の父が鹿児島生まれということもあり、鹿児島出身の稲盛さんには他の人とは違った特別な思いがあります。本書『働き方』では、稲盛さんは「なぜ働くのか」「いかに働くのか」という問いに明るい可能性を示しています。

■ 幸福になる働き方
「『よく生きる』ためには、『よく働くこと』がもっとも大切です」。

稲盛さんは1932年生まれ、中学の受験に失敗したり、結核で死線をさ迷ったり、戦災で自宅を焼かれるなど、若い時に多くの挫折を経験。地元の鹿児島大学工学部を卒業したあと、59年、京都セラミック株式会社(現京セラ)を設立。社長、会長を経て、97年より名誉会長を務めています。84年には第二電電(現KDDI)を設立すると共に稲盛財団を設立し、「京都賞」を創設。毎年、人類社会の進歩発展に貢献した人を顕彰しています。また、若手経営者のための経営塾「盛和塾」の塾長として、後進の育成にも力を注いでいます。

稲盛さんは、働くことは生活の糧を得る手段にとどまらず、心を磨き、人間性を高める手段でもあると断言しています。ここでは稲盛さんが新卒で京都のオンボロ会社に勤めていたときのエピソードが挙げられています。はじめは愚痴ばかりこぼしていた稲盛さんですが、それでは人生が始まらないと一念発起。まずは、目の前にある仕事を徹底的にやってみようと決意し、「ど」がつくほど真剣に働いたそうです。

当時稲盛さんはファインセラミックスの開発担当をしていました。実験に打ち込み、次第に素晴らしい実験結果を出せるようになると、それまでの会社に対する愚痴や人生に対する不安はすっかり消えてしまっていたそうです。ここで初めて、艱難続きだった稲盛さんの人生に、一生懸命働いて成果を得る好循環という幸運が舞い込んだといいます。

この経験をもとに稲盛さんは、「働くことは『万病に効く薬』」だとして、「愚直に、まじめに、地道に、誠実に」働けば、神様は絶対に幸福への切符を差し出してくれると述べています。

■「平凡な人」を「非凡な人」に変えるもの
「たとえ身のほど知らずの大きな夢であっても(中略)まずは目標を眼前に掲げることが大切なのです。なぜなら、人間には、夢を本当のものにしてしまう、素晴らしい力があるからです」。

稲盛さんが、「経営の神様」と謳われた松下幸之助さんの講演会に参加した面白い話しが紹介されています。松下さんが唱える「余裕のある経営」の実現について、松下さんは聴衆からその方策について問われたとき、「それは(まず自分自身がそう)思わんとあきまへんなぁ」と応えそのままだまっていたそうです。答にもなっていないようなこの言葉が聴衆の失笑をかったとき、稲盛さんはこの一言に込められた松下さんの万感の思いに、身体中に電撃が走ったといいます。

本気で思えば、やるべき事が見えてくる。それを継続的に地道に行なえば、必ず思いは実現する。稲盛さんは、これは人生における鉄則であると説いています。

「人生つまるところ、『一瞬一瞬の積み重ね』に他なりません。(中略)また、『偉大なこと』も『地味なこと』の積み重ねに他なりません」。

稲盛さんは、継続する力こそが、凡人を非凡人にする力であるとしています。「鈍な人」が愚直に頑張り非凡な人になることも、天才や名人が大きな成果を残すのも、その裏には継続する力があるからだと説いています。

「今の自分の仕事に、もっと前向きに、できれば無我夢中になるまで打ち込んでみてください。そうすれば必ず、苦難や挫折を克服することができるばかりか、想像もしなかったような新しい未来が開けてくるはずです」。

目標を掲げることや、継続する力を持つことは、PRパーソンにとっても極めて大切なことだと思います。パブリック・リレーションズ(PR)の手法を会社や組織に導入しようとするとき、今までにない目標を掲げ、成果を得られるまで忍耐強く継続的に活動することが求められるからです。

平易に記された本書には、稲盛さんの知恵や次世代を担う若い人たちへの温かいメッセージが沢山詰まっています。200ページほどの読みやすい本。ゴールデンウィークに読んでみてはいかがでしょうか?

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2009年03月28日

私の心に残る本24 『資本主義はなぜ自壊したのか』
 ?中谷巌の懺悔

『資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言』 中谷 巌著 


こんにちは、井之上喬です。
みなさん、いかがお過ごしですか?

サブプライム・ローン問題に端を発した世界的な経済不況を受けて、その失敗に対する検証があちらこちらで行われ始めています。前回紹介した書籍、『アメリカモデルの終焉』につづいて、今回は中谷巌(三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長)さんが書いた『<資本主義はなせ自壊したのか』(2009、集英社インターナショナル)をご紹介します。

中谷さんは、ハーバード大学留学後、大阪大学、一橋大学の教授を歴任。そして細川内閣や小渕内閣で規制緩和や市場開放を積極的に主張し、小渕内閣では「経済戦略会議」における議長代理として構造改革路線の旗振り役を務めた人。本書では「構造改革」の急先鋒として知られた中谷さんが、アメリカ初の世界同時不況を契機に明らかにされつつあるグローバル資本主義の問題点を指摘し、日本再生への手がかりを見つめ直しています。

■グローバル資本主義、3つの欠陥
中谷さんは第1章冒頭で、自分はなぜ転向したのかを語っています。1969年、日産自動車を休職し、ハーバード大学博士課程留学中にアメリカの大学の教育環境や綿密なカリキュラム、教授陣の顔ぶれ、それらのすべてに圧倒され「アメリカかぶれ」になったとしています。

しかし、その豊かな中流層が中核の米国社会は、80年代初頭レーガン政権によって決定的な変質を起こします。レーガノミックス推進で沈滞化していた経済をある程度成功させるもその後たった30年足らずで所得格差の拡大、医療福祉の後退により、中流階級は消滅したと語っています。

「(グローバル)資本主義は本質的に暴力性を持ったものである。そして、このモンスターを上手にてなずけないかぎり、資本主義は社会を破壊し、人間という社会的動物の住む場所を奪っていく」

1991年のソ連崩壊を機に急速に進んだ市場のグローバル化とインターネットの発達により、 グローバル資本主義が世界中に広がっていきました。安い労働力を提供した中国やベトナムなどの新興国は経済的な発展を遂げ、先進国は投資の収益で潤い、世界はグローバル資本主義に酔いしれました。

しかしそこには本質的な欠陥があったと中谷さんはいいます。中谷さんはそれらの欠陥に、1)世界金融経済の不安定化 2)格差の拡大 3)地球環境の破壊の3つを挙げています。

その中で中谷さんは、世界経済の不安定化の要因は、バブルの生成と崩壊にあると述べています。グローバル資本主義に内在するこの機能によって、巨大なバブルの崩壊は引き起こされ、いま世界経済は未曾有の大不況に苦しんでいるとしています。

2つ目の本質的欠陥は、強者がすべてを獲得するグローバル資本主義が、格差拡大を生み出し、健全な中流階級を喪失させ社会の二極化を生み出したと分析しています。ここで中谷さんは、平等社会と謳われた日本も、米国の後を追いかけた結果、いつの間にかアメリカに次ぐ世界第2位の「貧困大国」に転落した事実を指摘。 そして彼は、そのような状況下で日本の「安心・安全」が急速に失われていると訴えています。

最後の地球環境破壊に関しては、地球環境を顧みずに開発を進めた結果、環境汚染を加速させていると述べています。そして中谷さんはこれら3つの傷は、世界が、責任と義務を無視して自由と富を追求した結果、資本主義が暴走しモンスター化したことでつくられた負の遺産であるとしています。

さらに中谷さんは4章と5章で米国の成り立ちを歴史的に俯瞰し、個人主義や知恵のあるものが社会を支配するシステムなど、グローバル資本主義の基底となっている国の成り立ちを分析しています。

■安心、安全を世界に
「今後日本がとるべき方向性は圧倒的に『環境分野』での貢献だと考える。『環境のことなら日本に聞かなければいけない』というところまで、国を挙げて打ち込むのである。(中略)10年もすれば世界は日本こそ救世主になると評価してくれるはずである」。中谷さんのこの考えには私も全く同感。

中谷さんは、新自由主義的改革においては市場至上主義がさまざまな副作用を生んだとして、日本のよき文化的伝統や社会の温かさをとり戻す独自の再生の道を説いています。日本の地域や文化、気質に根ざした改革として、「安心・安全」をキーワードにあげ、世界に向けては日本の自然観である「共生の思想」をもとに環境立国の実現を説いています。

国内の安心・安全の実現には、人と人との連帯感が感じられる、地域に根ざした再生発展が必要と説き、地方分権することで行政単位を小さくすれば、国民の幸福感を実現できるシステムの構築が可能となるのではないかとしています。

中谷さんは税制は高くても、徹底した福祉で国民の安心感と安定感を実現している国としてスウェーデン、ノルウェーなどの事例を取り上げ、富の再分配の実現へ向けて税制改革の必要性を述べています。また中谷さんは、国の経済的な豊かさは低くても国民の幸福感を実現している国としてキューバやブータンを紹介し、市場至上主義に改めて警笛を発しています。

中谷さんは「自由には規律が必要である。規律なき自由は無秩序をもたらす」と論じています。規律を失った自由は制御を失いやがてどこかで崩壊します。パブリック・リレーションズ(PR)で言えば、規律とは倫理観のこと。倫理観不在で人が欲望のままに走り続けたら、多様性を抱合する共生は困難を極めるはずです。

ここでいう倫理観は、最大多数のための最大幸福を実現させようとする「功利主義」と、困っている人がいたら、たとえ嫌であっても救いの手を差し伸べなければならないと説く「義務論」が補完関係にある倫理観。

本書は、格差や貧困を生み出し、環境を破壊する近年のグローバル資本主義を批判するだけでなく、人を幸せにする改革とは何かを模索しています。本書で語られる中谷さんの告白は、ほぼ同時期にパブリック・リレーションズ(PR)の専門家として多くの海外企業の日本参入を支援してきた私の心に深く染み込んできます。大変に読みやすく、内容的にも興味深いものです。是非手にとってみてはいかがでしょうか。

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2009年02月14日

私の心に残る本23 『アメリカモデルの終焉』
 ?こんな世界に誰がした?

『アメリカモデルの終焉』 冷泉 彰彦英著 


こんにちは、井之上喬です。
みなさん、いかがお過ごしですか。

日本のビジネス界は、グローバル競争に勝つためには、アメリカ・モデルを取り入れなければダメだという幻想に取りつかれた結果、私たちは、未曾有の大不況に直面しています。そこで今回は、この問題に鋭い切り口で分析している『アメリカモデルの終焉』(冷泉彰彦著、2009、東洋経済新報社)をご紹介します。

本書は、長らくアメリカに在住し、村上龍氏が編集長を務める経済メールマガジンJMMに寄稿してきた著者が、アメリカ・モデルに盲目的に追従した結果、日本にもたらせられた弊害や問題を指摘し、今後への指針を示した本です。私たちビジネス・パーソンが過去を反省しながら、その原因究明をおこなえる本ともいえます。

■ 社会を構成する「人」を無視したツケ
全5章で構成される本書では、第1章から第4章にかけて米国と日本両国の人事制度、組織構造、労働環境を比較し、文化や習慣の違いからくる問題点を検証しています。90年代に多くの日本企業で導入が進められた「成果主義」にも言及し、従業員に四半期ごとに成績表を突き付け、マイナス成長を認めない「短期業績評価システム」やタテ組織偏重におけるMBAエリートの暴走が世界中へのリスク拡散を許したとしています。

冷泉さんは、日本に持ち込まれた成果主義については、組織における3つの座標軸である「ヨコ」「タテ」「時間」に対する欧米と日本の捉え方の違いが失敗を生んだと主張。欧米型は、この3要素を分離して考え、短期的な評価システムを構築しているが、日本では、組織の「タテ」の関係と「ヨコ」の関係が交錯しながら長期的に行なわれる(「時間」)プロジェクトが多いことから、3要素を複雑に組み合わせた柔軟性のある評価方法が必要だと述べています。

また著者は、グローバリズムの脅威による過度なコスト削減について、スティール・パートナーズによるブルドック買収劇(結果はスティール・パートナーズが最高裁判決で敗訴)を例にとり解説しています。彼は、スティール社が主張するような過度な株主重視と短期的な利益追求の優先は、人が本当に喜ぶサービスやホスピタリティの破壊をもたらす危険性があると語っています。

冷泉さんは、米国教育で最重要視されているプレゼンテーション文化についても触れ、「変わりやすく単純化して雄弁に」プレゼンできた者だけが横行する社会の脆弱性を指摘。危機的状況の異常事態には、苦悩がにじみ出る本音のコミュニケーションや今までの前提を全て疑い現場に足を運んで解決策をつかむ地道なスタイルも必要なのではないかと論じています。

他にも、ホワイトカラー・エクゼンプションや 自由裁量労働など、長く米国に住む彼ならではの独自な視点で日米双方を細部にわたって比較し、わかりやすく解説しています。


■ 人材力が日本を救う?
終章では、モデルを失った日本が手にしているのは、困惑ではなく変革の好機であるとして、再生への提言をまとめています。

著者の冷泉さんは、日本らしい人材観と雇用観を生かした人材育成と人材活用が再生の鍵になるとしています。その上で彼は、優秀な人材として個人が力を発揮するためには「自分自身の生き方については、自分の自由に」なる社会が必要と考え、国民皆専門職化を提案。

具体的には、大学を高度な職業訓練の場にすることや卒業後のキャリアパス構築、成果主義の見直しなどについて斬新な切り口でさまざまな提言をしています。その上で著者は「生産技術の頂点を維持し、環境やバイオに新技術を加えていけば、日本の将来は決して暗くない」と語っています。

サブプライム問題に端を発した金融恐慌の責任の多くは米国に帰するとしても、ゼロ金利で海外の金融機関へ無尽蔵に資金を貸し付けた日本や世界最大の米国債保有国として米国債を買い続けた中国などに責任がなかったとはいえません。最近日米双方をフラットに見て露呈した問題の背景を検証する本が出版され始めたことは喜ばしいことです。本書は日米両国の考え方や働き方についての違いが詳説されている良書。著者の視点も鋭く、是非一読をオススメしたい本です。

大きな転換と変革が求められる世界にあって、私は、倫理観と対称性の双方向性コミュニケーションと自己修正を抱合した「自己修正モデル」を21世紀型、WIN-WIN型のパブリック・リレーションズ(PR)のモデルとして提唱しました。強い個を育てるこのモデルは、新しい世界秩序構築のプロセスで機能し、社会を繁栄に導くために必要とされる新システムに適用できうるものと考えています。

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2009年01月10日

私の心に残る本22 松下幸之助の『道をひらく』

『道をひらく』 松下 幸之助著 


こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

20世紀を代表する経営者、松下幸之助(1894?1989)。松下さんは一代で松下電器産業(去年2008年には創業90周年を迎え、パナソニックへと改名)を世界的企業に仕立て上げた経営の神様的存在。松下さんは、経営者としてだけでなく、人としての使命、社会人としての使命まで深く考察し、一人ひとりがそれらを自覚することで社会の明るい未来を築くことができると説きました。

その信念は、逆境にあっても未来を信じて一歩一歩進んでいけば、必ず道は開けるというものでした。今回は、そんな彼の哲学がぎっしりと詰った彼の著書『道をひらく』(1987年166刷、PHP研究所)をご紹介します。同書は、PHP研究所の機関紙「PHP」の裏表紙に連載した短文121篇を、「運命を切りひらくために」「日々を新鮮な心で迎えるために」「困難にぶつかったときに」「国の道をひらくために」などの11のテーマに別け一冊の本にまとめたものです。


■ 松下幸之助の道
「自分には 自分に与えられた道がある
天与の尊い道がある
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。.....
たとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは
必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも 生まれてくる。」

これは本書の最初のテーマ「運命を切りひらくために」の中にある「道」という文章の一節です。松下幸之助は1894年和歌山県の裕福な農家に生まれました。しかし父親の米相場の失敗により家運が暗転。その後結核により兄弟3人を失い、末っ子である松下さんは跡取りとして教育を受けるため、わずか9歳で丁稚奉公に出されます。

しかし状況は好転せず、数年後には姉二人が病没。さらに父親までも他界。母親は生活のために再婚してしまいます。帰る家を失った松下さんは、商人として身を立て、その道を極めることを決意したのです。

数年の船場奉公でビジネスの基本を学んだ松下さんは、電機に目をつけ、1910年 大阪電燈会社に入社します。その8年後ソケットの改良をきっかけに松下電器器具製作所を創立。後に松下電器の経営理念となる「お客様第一」「日に新た」「企業は社会の公器」というビジネスの理を徹底的に考え続け、知恵を使って理を形にすることで松下電器を世界的大企業に育て上げました。

■ 素直な心で日に新た
「人間もまたこの(刻一刻と変化する宇宙の)大原理の中に生かされている。 きょうの姿はきょうはない。刻々に移り変わって、刻々に新たな姿が生み出されてくる。....一転二転は進歩の姿、さらに日に三転よし、四転よし、そこにこそ生成発展があると観ずるのも1つの見方ではなかろうか」(「日々是新」より)

先に紹介した経営理念以外は常に刷新するのが松下流。松下さんは今でいうイノベーションに果敢に取り組み続けました。1932年に松下さんは「水道の水のように社会に安価な電気製品を供給することで社会を豊かにする」という水道哲学を提唱し、企業の社会貢献を明らかにしました。また1933年大阪府門真市に本店を移転する時に、事業を3分割し、日本で初の事業部制を誕生させました。

一方、家電メーカーとして成功しても重電には参入することはありませんでした。また松下通信工業によるコンピュータ事業撤退にみられるように、松下さんは事業の将来性が描けない分野に関しては潔く撤退。彼は企業の選択と集中を実践していました。

このように松下さんは、イノベーション、CSR(企業の社会的責任)、コーポレート・ガバナンスなど、現在の企業が直面している課題に90年前から真摯に取り組んでいたのです。パブリック・リレーションズ(PR)の視点でみると、松下さん自身から発せられる強力なメッセージは、経営トップとしての見事なストーリー・テリングになっています。松下電器の90年に渡る繁栄はまさに、松下さんが自らの哲学を実践した日々の努力の賜物であるといえます。

100年に一度の大不況、環境破壊など、さまざまな不安や恐れが暗雲のように私たちの世界を覆っています。しかし、このような時だからこそ本質をつく松下幸之助さんの言葉が私たちの心に深く響くのではないでしょうか。

「志を立てよう。本気になって、真剣に志を立てよう。命をかけるほどの思いで志を立てよう。志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。
志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。」(「志を立てよう」より)

松下さんが混沌とした今の時代を生きていたら、どのような行動をとったでしょうか?

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2008年12月20日

私の心に残った本 21 『だいじょうぶだよ』

『だいじょうぶだよ』 晴佐久昌英著 

こんにちは、井之上喬です。
みなさん、いかがお過ごしですか?              
今年もまたクリスマス・シーズンがやってきました。

クリスマスは約2000年前、ユダヤの村の「馬小屋」で生まれた、イエス・キリストの誕生記念日。世界の多くの人々が、世界平和や安寧に心を留めながら静かにイエス・キリストの降誕を祝います。

今回は、クリスマスの贈り物にもなる、『だいじょうぶだよ』(2001年、女子パウロ会)という小さな本をご紹介します。同書は、カトリック高円寺教会の主任司祭である晴佐久昌英さんが書いた詩集です。

■ 天がくれた贈りもの
晴佐久昌英さんの著書については、以前このブログ2007年6月22日号で『恵みのとき 病気になったら』(2005年、サンマーク出版)を紹介しました。晴佐久さんは他にも数多くの本を出版していますが、彼の優しさと人の痛みに対する共感から生まれる言葉は多くの人の心を打ち、癒し続けています。この『だいじょうぶだよ』という本も、初版から7年経ったいまでも第14版を重ねるロングセラー。その中の「贈りもの」という詩のなかにこんな一節があります。

「何もかも失った人に
みんなから見捨てられた人に
あなたの痛みにつながりたいと
そっと差し出す一本の手を贈ろう
その手を握ってくれた
あなたそのものが
わたしへの最高の贈り物だから
その瞳の奥で
目には見えないはずの贈りものさえ
一瞬ゆらめくから」

クリスマスに人々は、家族や友人の幸せを願ってさまざまな贈りものを交換します。苦しい時に何よりも嬉しいプレゼントは、思いやりあるメッセージ。この本には32の心温まる詩が集められていて、つまずきそうな私たちの心をそっと支えてくれます。

■ いつでも希望に思いを馳せる
「苦しい時は 昔を思い出すといいよ
自分が生まれた日
はじめて母のふところに抱かれてやすらいだ朝を
わが子に人生を与えた親の思いを
思い出すといいよ
悩みなく遊びまわった幼いころ
ころんでもころんでも世界を信じて
傷が治らないうちにまた走りだした夏休みを
思い出すといいよ
夢破れて死のうとさえ思ったあの夜を
もう二度と朝はこないと思っていたのに
やがて魂に忍び込んできたあの夜明けの美しさを」

現代社会は、貧しさにあえぐ人や精神的に困窮する人など、苦しい人であふれています。しかし、晴佐久さんは、人は苦しい時こそ希望を見つめて闇の中に光を見出すべきだと、読者に語りかけています。

混沌とした世の中に身を置いている私たちは、日本の未来に光を見出すことは難しいと感じているかもしれません。しかし、日本を担うべき国民がその問題の中に埋もれてしまっていては、繁栄の石杖を築くことはできません。私たちには、日本人のもつ本来の良さや独自性などに光を当て自ら希望をつくり出していくことが必要とされています。そのような一人ひとりの強い意志と行動こそ明るい未来を切り開く原動力となるのではないでしょうか。

私たちの生活はせわしなく、時として豊かさの本質を見失いがちです。この本は、そうした心の豊かさと安らぎを私たちに与えてくれているように思います。是非、クリスマスの夜に手にしてみてはいかがでしょうか。

「聞こえる 聞こえる
世界を変える 赤ちゃんの産声が聞こえる
星空に響く 天使のほめうたが聞こえる
いま 新しい時代を告げる
よろこびのしらせが聞こえる」

メリークリスマス!

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2008年11月15日

私の心に残る本20 『アホは神の望み』
 ?遺伝子工学第一人者からのメッセージ

アホは神の望み


こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

今日ご紹介する本『アホは神の望み』(2008、サンマーク出版)の著者、村上和雄(1936-)さんはDNA解明の世界的権威で現在、筑波大学名誉教授です。村上さんの主張は、「(中略)『苦しいときこそ笑っていられる』ようなアホや馬鹿がいまこそ必要だ・・・」ということ。

村上さんは本書の冒頭で、最近の街や電車の中で無表情な顔や不機嫌そうな顔は見ても、ニコニコと明るい笑顔を見ることがめっきり少なくなったことを憂いています。そして、心の状態が良い遺伝子をONにする話や科学者の逸話、そして悲劇を経験しても希望の光を忘れず取り組む人々の話を例に挙げ、 ほんとうに豊かで幸せな「神の望むアホな生き方」とは何かを語ります。

■ 器の大きいアホになれ
村上さんの意味するアホとは、「損得には疎いが、自分の信じる道を地道に歩み(中略)頭のよさより心の豊かさを重んじる。人間本来の、神の望みにも沿った生き方や考え方」のことです。

村上さんはアメリカ留学時、英語の読み書きはできても会話ができないことに落ち込んだといいます。けれども彼は夢実現のために諦めず研究を続けました。しかし暫くすると英語にも慣れ、留学を終えるころには英語で講義するまでに上達したそうです。村上さんはその経験を振り返り、「能力は環境によって刺激を受け、経験によって培われるものだ」といっています。

村上さんが帰国した60年代、大学には改革の嵐が吹き荒れました。村上さんは古い体質のアカデミズムを批判するうち、ある自己矛盾に突き当たります。このまま行けば自分も今まで批判の対象にしてきた人と同じようにこの世界で「出世」していくのではないかという疑問です。

村上さんは心機一転をはかり2度目の渡米を決めました。その結果、彼は米国滞在中に「レニン」を牛の脳下垂体から純粋な形で取り出すことに成功。そして世界に先駆け、83年には高血圧の黒幕である「ヒト・レニン」という酵素の遺伝子解読を果たしたのです。

アカデミズムの王道からすれば回り道に見えた村上さんの行動。しかし、それがもたらしたのは、バイオテクノロジーの世界的権威という研究者としての開花でした。村上さんは、マイナスに思える出来事がプラスに転じる体験を重ねていくと、「神様は見てくれている」と思い、安心して自分の道を進むことができる「器の大きいアホ」になれるといいます。

■ 心のあり方と強さが結果をつくる
私たちの生命は絶え間ない遺伝子の働きで営まれていて、健康に暮らすにはいい働きの遺伝子が活発であることが必要です。村上さんは、いい遺伝子の働きを活発にするのが心の方向であると説いています。

彼は、大いに笑った後の癌患者の免疫力は上昇する、プラシーボ(偽薬)で病状が好転するなどの例を挙げて、心のポジティブな状態が遺伝子に作用して効果を発揮しているのではないかと説明しています。

「人は、いい結果を得ようとしたら、いいプロセスを経るしかない。逆に言えば、いいプロセスさえ経ていれば、おのずと結果はついてくる。」

このように村上さんは述べ、目標の達成にも心定めか必要で、一度心定めをしたら天に委ねる気持ちで楽天的に取り組み、よいプロセスを積み上げていることに力を注ぐべきだといいます。

科学の世界に身をおく村上さんは、「神を研究する神学をルーツとして真理を探求する科学は生まれた」として、真理を信奉する点で、宗教を信仰する人と科学者には共通点があるといいます。そして、真理は人知や論理を越えていて、真理を呈するモノは人間の直感に訴えると述べています。

村上さんはアンシュタインの「解決策がシンプルなものだったら、それは神の答えである」のことばを紹介し、平易なものの中にこそ本当に深いものが存在し、深いことはやさしく伝えられるべきとし、やさしくかみ砕いていえない心理は本物ではないと説いています。

村上さんは初めてDNAの2重螺旋を目にしたとき、その精緻な美しさに息を呑み、人の論理を超える何かが存在しているはずだと思いたくなったそうです。現在、地球上の生命体は4色の遺伝子の組み合わせで構成されているといわれていますが、村上さんはその重要性を、直感的に感じたというわけです。

「人間の頭で『こうしたい』『ああいうことができればいいな』と想像できる範囲のことなら、私たちはそれをすべてできる可能性を持っている。」

これが、科学者として40年のあいだ世界の第一線で活躍してきた村上さんがたどり着いた真理です。そしてこの真理は「節度」と「調和」の上に成り立っているといいます。インターメディエータとして常にバランスが求められるパブリック・リレーションズ(PR)。ちょっと時間の空いたときにパラパラとページをめくるだけでも元気が出てくる本です。一度手にとって見てはいかがでしょう。

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2008年10月04日

私の心に残る本 19 『トゥイーの日記』
 ベトナム帰還兵の手から祖国に戻った、
  北ベトナム従軍女性医師の日記

トゥイーの日記

こんにちは、井之上喬です。
10月に入り、紅葉の便りが各地から聞かれるようになりました。皆さんいかがお過ごしですか?
                     

『トゥイーの日記』(訳者:高橋和泉、経済界刊)は、ベトナム戦争の戦場に散った北ベトナムの若い従軍女性医師の日記。著者はダン・トゥイー・チャム。原作となるこの日記は、ベトナム戦争に赴いたアメリカ兵フレッド・ホワイトハーストが、戦場で殺された北ベトナムの従軍女性医師が書き綴ったものを米国に持ち帰り、彼女の死から35年を経てトゥイーの母の手に戻されたものです。

ハノイの病院で医者をやっていた父と薬学者で大学講師の母を両親に持トゥイーは、ハノイ医科大学を卒業後、あえて南ベトナムの激戦地で勤務する道を選びます。1960年代から75年までの約15年にわたって繰り広げられたベトナム戦争の真っただ中、1966年12月、トゥイーはホーチミン・ルートを3ヵ月間歩き続け、目的地の南北非武装地帯であるクアンガイ省に到着。軍医として野戦病院で働いたのでした。

■米国に日記を持ち帰った米兵ホワイトハースト
本の序文で、1973年ピューリッアー賞を受賞したジャーナリスト、フランシス・フィッツジェラルドが語っているように、1970年、ベトナム戦争当時、軍の情報部に所属する若き日のホワイトハーストの任務は、収集した資料を調査し、軍事的価値のないものに関しては処分することでした。ある日、彼は、通訳のグェン・チュン・ヒュー軍曹とともに燃えさかるドラム缶の中に必要のない資料を投げ入れていると、突然「フレッドそれは焼くな。それ自体が炎を出している。」というヒューの言葉に、ホワイトハーストはおどろきながらも、厚紙の表紙で綴じられたノートと、さらに、もう一冊のノートを保管しておくことにしたのでした。

その夜、ヒューはそのノートに書かれた日記の一節をホワイトハーストに読み聞かせます。海軍将校の息子で、ベトナム志願兵でもあったホワイトハーストは、「人間対人間として、わたしは彼女と恋に落ちた」と後に述べたように、その日記に心を奪われました。そして、軍の任務を終え、1972年ベトナムを去るとき、彼は軍規に反して日記を家に持ち帰ったのです。そして、その日記は彼の書類整理棚に置かれることになりました。彼は、しばしば日記をトゥイーの家族へ送りたいと考えていましたが、家族を探し出す当てはありませんでした。

やがて彼は「日記が出版できれば、家族が見つかるかもしれない」と考え、ベトナム人を妻に持ち、ベトナム退役軍人でもある彼の弟ロブに日記を渡したのでした。ベトナム語を理解していたロブにより、翻訳作業も進み日記を家族のもとに返す目的を兄弟は共有することになります。

2005年6月、母の手に届けられた日記はすぐに出版され、ベトナムでは空前のヒット作になりました。5000部以上売れる本がほとんどないベトナムで、43万部を売り上げる大ヒットとなりました。ベトナム戦争を知らない若い世代(全人口の3分の2)の心に強く訴えたのです。2005年8月、2人の兄弟が家族に会いにハノイを訪問しました。空港では、ジャーナリストを含む多くの人々が彼らを迎えました。ファン・ヴァン・カイ首相(当時)もその一人。彼らは一躍有名人になっていたといいます。

■トゥイー・チャムの生きた時代
ダン・トゥイー・チャムの日記は、テト攻勢から2ヵ月後の1968年4月8日に始まっています。ベトナム中部クアンガイ省の山岳地帯にある野戦病院への派遣には難色を示されるほど小柄なトゥイーが南ベトナムに行ったのは、愛国心とともに、彼女が16歳のときから愛していた「M」と呼ばれる男性のためでもありました。Mはベトナム中部でゲリラ戦に加わり、その後南ベトナム解放戦線で土木工兵隊の隊長兼行政主任で英雄的な評判を得ていたようです。

1965年の春、アメリカの最初の戦闘部隊がベトナムにやってきた2ヵ月後、第3海兵隊上陸部隊がクアンガイに派遣され、米軍による北ベトナム正規軍とゲリラ部隊に対する猛攻撃が開始されました。

米軍は「アメリカ海兵隊は、ベトコンをかくまっているあらゆる村や部落を躊躇せず即刻破壊する」と書かれたビラを村に撒いていました。やがて世界を震撼させる事件が起きます。1968年3月16日、第11軽歩兵旅団からの小隊がクアンガイ省北部のソンミ村に入り、老人と女性と子どもたち504名を溝の中の一箇所に集め、銃で撃ち殺したのです。この出来事は1年以上も隠され、ソンミの虐殺として知られるようになりました。

1969年4月2日、診療所の近くが襲撃され、患者と診療所の職員たちは、そこから立ち去ることを余儀なくさせられました。1970年6月2日、仮設診療所が爆撃されたときには、5名が命を落とします。12日再度爆撃されたときは、密告者が居場所を明かしたにちがいないと考えます。その翌日、トゥイーを含めた女性医師3名と重症を負った男性5名を除き、全員がそこを立ち去ります。診療所に勤める党の政治委員は、彼女たちと一緒に残ろうとせず逃げてしまったのです。

6月20日はトゥイーの日記が終わった最後の日。夕食用に、たった1杯の米しか残っていないという状況下で、トゥイーは自分たちが見捨てられたのではないかと案じながら、助けを求めるために同僚の若い女性2名を送り出します。

死が迫りくる最後に、トゥイーは日記の中でこう書いています。「今まで誰もかえって来ない。2回目の爆撃をうけてから10日近くたっている。(中略)この危険な地域から私たちを避難させるためきっとすぐ迎えに戻ると約束して出て行った。それ以来、私たちは1分1秒を数えるように待っている。朝になれば昼を待ち、昼になれば夕刻を待つ。2日、3日・・・9日が過ぎたのに誰も戻ってこないなんて!残っている者たちの頭の中でグルグルまわっている。どうして?なぜ誰も戻ってこないのだろう?何か問題が起こったのだろうか?」

「みんなが私たちをこんなところに見捨てて行くはずないじゃないか?この問いかけに答えてくれる人は誰もいない。(中略)私は、小さな声で詩の一節を口ずさんでいた。『今、目の前に広がる果てしない海と空 ホーおじさん、私たちの不安をわかってくれますか・・・・・・』そう、私はいつまでも幼い子どもではないのだ。この試練の中、経験を積み、大人になったのだ。それなのになぜ、こんなにも母さんの手をこれほどいとおしく求めるのか?自分自身を見つめなさい。孤独な時は自分の手を握り、愛を注ぎ、力を与え、そして目の前の険しい道を乗り越えていきなさい。」

彼女の日記はそこで終わっています。その後、アメリカ軍が再度攻めてきます。そして数日後、地元のフレ族という少数民族が、額に弾丸を撃ち込まれて死亡している彼女の遺体を発見するのです。

序文にもあるように、「これは、戦争の記録ではない、過酷な状況でも、希望を捨てずに、人生を生き切ったひとりの女性の話である」。トゥイー・チャムの遺志を継ぐために、彼女の名を冠した奨学金設立や病院設立などの人道活動が広がっているといいます。

トゥイーとは面識もなく、偶然に日記を見つけたアメリカ兵フレッド・ホワイトハース。同書の終わりにフレッド・ホワイトハーストは年老いたトゥイーの母親に2通の感動的な手紙を書き送っています。是非手にして読まれることをお勧めします。

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2008年08月16日

夏、癒しの空間「弓削島」






こんにちは井之上喬です。
お盆も終わり、朝晩ほんのすこし涼しさが感じられるようになりました。
皆さんいかがお過ごしですか?

今年もお盆休みを利用して母のふる里、弓削島(愛媛県上島町)を訪問しました。瀬戸内海に浮かぶこの島は、面積にして8,95?、島を一周しても18?という、人口4,000人足らずの小さくてかわいらしい島(写真上:弓削ロッジから松原海岸と石山を望む)。この10数年間、毎年訪れる私にとっては帰郷とおなじ。

今年は尾道から高速船を利用せず、1時間に1本の割合で「のぞみ」が停車する福山駅からバスで1時間ほどすると終点の因島の土生港。そこから小型フェリー「青丸」で15分。太陽に光り輝く弓削島に到着します。「瀬戸内しまなみ海道」(広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ)からはずれた弓削島には昔ながらの自然が沢山あります。

以前にも述べましたが、パブリック・リレーションズ(PR)の仕事は、インター・メディエイターとしての役割を果たし、WIN-WINを実現させる仕事。弓削島の自然の中で培われた開放的でポジティブ気質は現在の仕事に大いに生かされていると思います。

■都会で忘れられた「ぬくもり」
今年も94歳の母の妹やいとこたちが温かく迎えてくれました。昨年96歳で亡くなった叔父の姿が見られないのは残念でしたが、その子供たちにも何十年ぶりかで会うことができました。叔父のお墓は、道鏡禅師(弓削道鏡)を祀っている島の中央にある「海江山自性寺」にあり、海を見渡せる白い砂と松の木のすぐ下にある明るい場所。

戦後、満州の大連から引き揚げてきた私たち家族は、役人をしていた父の赴任先が決まるまでの間、何ヵ月かを弓削の母の実家に身を寄せていたことがあります。以来、高校の途中まで毎年夏には弓削島に戻っていました。今年もいとこ達やその家族、子供たちと松原海水浴場で泳いだり、隣島の佐島(さしま)(写真右:プライベート・ビーチ風の砂浜)で釣りをしたりして4日間をのんびり満喫。
              
弓削には小さい頃からの想い出がたくさん詰まっています。毎年夏に尾道祭りで行われた海上花火大会もその中の一つ。小学校5-6年生の頃、当時因島にあった日立造船に勤めていた叔父(叔母の夫)が、親戚のために貸し切った小型遊覧船の中で用意された氷で冷やした空の酒樽に入っているビールを5,6本ひとりで飲み、大人が花火を楽しむのをよそに、兄弟やいとこ達と存分に騒ぎ楽しんだこと。また、弓削島の反対側にあった小さな入り江の段々畑で、スイカを好きなだけ採りリヤカーに乗せて運び、叔母の家の井戸で冷やした後、みんなで舌鼓をうったことなどです。

いまは、大型タンカーを建造していた因島の日立造船も立ち退き、弓削小学校も1学年で200名近くいた児童が20名に満たない数に減少し、過疎化が進んでいます。

そんな弓削島にも最近新しい動きを感じます。それは幼い子供をつれた家族が弓削に帰ってきていることです。休みを利用して新しい配偶者とともにこの島に連れ戻っていることです。弓削に生まれ育った祖父母が都会に出て子供をもうけ、さらにかれらの孫が弓削に戻ってきているといった感じです。

■注目を浴びる弓削商船
弓削には多くの外洋航路の船長や一等機関士を輩出した弓削商船(国立弓削商船高等専門学校)があります。最近、海運業界の環境の変化に伴い船乗り志願者は激減。電子機械工学や情報工学などのIT系の学生が主流になりつつあるようです。

そんな弓削商船に関する記事が偶然、日経ビジネス8月18日発売号に掲載されています。日本のこれまでの「6・3・3・4制」の枠組みから離れた高等専門学校に焦点を当てた特集。「鉄は熱いうちに打て‐12歳からの英才教育」(36?37頁)の中で全国高専(61校)対象に毎年開催されている「プログラミングコンテスト(プロコン)」で昨年も優勝した同校が開発したプログラムに「マイクロソフトが熱視線」と弓削商船のソフトウエア技術開発力について紹介されています。弓削の持つ豊かな自然環境に創造性が育まれ、こうした成果が生まれているのかも知れません。

行政改革の流れの中で将来、全国5か所にある高等商船専門学校の統廃合で、広島商船、大島商船、弓削商船の3校が1校に統合される話を聞き、弓削商船の将来が心配されています。日経ビジネスの記事は、こうした心配を吹き飛ばしてくれる明るいニュースでした。

今回島で初めて、2人のフランス人観光客に会いました。瀬戸内海に浮かぶ小さな島、弓削島。弓削島やその周辺の島々には史跡も多くみられます。人は瀬戸内海が抱合する、多彩な歴史と文化に魅せられて弓削島に惹きつけられるのでしょうか。

94歳の叔母は最近、歩くときに杖を使うようになりました。あまりに暑いので桟橋での見送りをひかえてもらい彼女の自宅で別れを惜しみました。「来年まで元気にしていてください。また戻ってきます」。桟橋から遠ざかる船から、遠方に見える叔母の自宅へ向かって最後の別れを惜しみました。

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2008年08月09日

私の心に残る本 18
白銀竜吉法師の『1000人になった人類』

1000人になった人類

こんにちは井之上喬です。
北京オリンピックがいよいよ開幕。
皆さんいかがお過ごしですか?

8月は毎年、広島(8月6日)、長崎(8月9日)の原爆の日に続き、15日の終戦記念日とお盆休み。「戦争と平和」そして「生と死」がテーマの月です。戦争で犠牲になった死者に思いをはせながらひと夏を過ごすことも、私たちにとって「命」や「人生」を考える上で大切なことのように思えます。

今回は、白銀竜吉法師著『1000人になった人類』(さんが出版:2005年)をご紹介します。愛・地球博「アースデイ」第1回環境大賞受賞作品で、人類の愚かさで引き起こした核戦争によって、わずかに生き残った人々のお話です。

「人類はたった1000人になっていました。あんなにたくさんいた人類が、わずか1000人になってしまいました...」で始まる同書は、大きめの活字でレイアウトされ、半分が著者自身の挿絵で構成された絵本のようなショートストーリー。3年前の出版当時とくらべ地球環境がさらに悪化し、核戦争の脅威が増すいまこそ読むのにふさわしい本といえます。皆さんにより深く味わっていただくために、今回は解説を加えず、本文を抜粋したものをそのままご紹介します。



人類はたった1000人になってしまいました。
あんなにたくさんいた人類が、わずか1000人になってしまいました。
100万年かけて70億人にまで増えた人類が、たった1年で
1000人になってしまいました。

人類は核戦争でほとんど死んでしまいました。
お金持ちも貧しい人も、ほとんど死んでしまいました。

人間は核爆弾が良くないことを知っていたのに行きがかりじょう仕方なく使ってしまいました。

人類は最初2000人だけ生き残りました。

地球のほとんどの地域は放射能で住めません。
2000人のうち1000人が放射能による白血病で死にました。

人類はたった1000人になっていました。
残った1000人は放射能の少ない小さな島に移住しました。

生き残った1000人のうち、本当に健康な人はいませんでした。
顔をやけどした人がいました。
顔だけでなく全身にちかいくらい、やけどをした人がいました。
全身の痛みで、体の震えが止まらない人がたくさんいました。
ほとんどの人の心が病んでいました。
ほとんどの人の心の中は絶望と憎しみでいっぱいでした。

みんな空気も水もほとんど汚染されている気がしました。
水を飲むこと空気を吸うことも怖い、生き残った人類でした。

全員が死に向かっている人類は、本当の幸せとは何かを真剣に考えました。

一年の月日がたつと島では毎月子供が生まれました。
地球が汚染されているのに子供は生まれます。
身体に障害を持った子供たちをケアする医療設備はありません。
身体に障害を持った子供たちは死んでゆきます。
みんな思いました。
なぜ地球が破壊される前に、医療設備がなくて困っていた人々を
助けなかったのだろう!
みんな後悔で苦しみました。

みんなで話し合って安全な場所を探しました。
残された人々は苦難に立ち向かうために、
みんなが一つになろうとしていました。

みんな森の中で安心して暮らすことができるようになると
毎晩、議論するようになりました。
みんな、なぜ世界が核戦争になってしまったのか話し合いました。

人類は石油を奪い合うために戦争をしました。
何度もしました。
石油が出る国はいろいろな理由をつけられて、
順番に戦争に巻き込まれてゆきました。

お金持ちは、お金持ちでいるために石油を奪い続ける必要がありました。
石油が欲しいために戦争を起こし
石油を支配するために石油が出る国を占領し
反発する人々を殺し続けました。

何も悪いことをしていないのに、巻き添えでたくさんの人々が死にました。
家族を殺された人々は殺した人を憎み続けます。
人は人を憎み続けると不健康になります。
憎まれる人のほうは恐怖を感じます。
こうした憎しみと恐怖が、世界大戦争を起こしました。
そうして地球のいたるところで核爆弾が使われました。

絶望している老人が最後に言いました。「戦争の最大の原因は、人間が生きてゆくうえでの
恐怖なんじゃよ!恐怖が争いをつくるんじゃよ!」
経験豊かな老人たちは口をそろえていいました。
「今というときを助け合うことじゃよ!困っている人がいたらみんなで力を合わせて助け
てあげることがみんなから恐怖をなくすことになるんじゃ!」

子供たちは経験豊かな老人たちの話を聞いて、一つのことに気がつきました。
そして、子供たちは素晴らしい行動を始めました。
子供たちみんなが始めました。
ちいさな子供たちも始めました。

子供たちに感動して、大人も始めるようになりました。
大人たちもみんな始めました。
何かが変わり始めました。

人類が島に来てから5年の月日がたちました。
男たちは一生懸命畑仕事をしていました。
突然、若い青年が叫びました。
「みんなこれを見てくれ!」
彼らが見つけたものはたくさんのミミズでした。
「おお?っ!これはすごいぞ!ミミズがこんなにいれば土をもっと豊かにしてくれるぞ!」

それから5年の月日がたちました。
その島の岩場がいつの間にか草原になっていました。
草原にはいろいろな動物がいました。

大人たちはそれぞれ自分の得意なことを一生懸命みんなのためにやりました。
大人たちは他人の話をよく聞くようになっていました。
みんながひとの悩みをわがことのようにおもうようになりました。
大人たちはみんな一つの素晴らしい考え方に気がついていたのでした。

それは常に「与えることを優先する」という考えでした。
みんな、人が喜ぶことをいつも考えるようになっていました。

島の中で何かが確かに変わり始めたのです。

人間がこの「新しい考え方」に気づいたときから
何かとてつもない大きな変化が始まり出したのでした。
与えることを優先する考え方が、生き残った全人類の考え方になりました。
与えることを優先すれば、すべての人類が豊かに暮らせる!
すべての人類がそう思えた瞬間!
人類の意識が進化したのでした。

それは自分を優先するのではなく
自分だけを守ることを考えるのではなく
他の人に対して、まず与えることを考える生き方でした。
そして、それがみんなに「思えば叶う!」ということを
強く信じさせてくれるようになりました。

みんな思えば叶うと本当に思い始めていました。
思えば叶うとみんなが本当に信じるようになりました。
すべての人類が祈りました。

「すべての人類が幸せになりますように!」

それが朝になった瞬間!
ほとんど波のない穏やかな、放射能で汚染されたはずの海に
奇跡がおこっている瞬間でした。
そこには信じられない光景が神によって描かれているようでした。
それはイルカでした。

「海が回復しだしているぞ?!」
若い男が大声で叫びました。

大人たちの声に振り返った子供たちが言いました。
子供たちのみんなが静かにしみじみ言いました。
「わぁ?!なんて奇麗なんだろう!」
子供たちはみんなその美しさに見惚れて立ちすくんでいました。

森が光っていました。
島の森が大きくなっていました。
森の木々の一本一本が輝いていました。

朝日を吸収している森の姿は、まるで一つの生命のようでした。
それはまるで森全体が虹のかたまりのように七色に輝いていました。
それは新しく生まれ変わった人類の希望の虹のようでした。

それは地球が自らの偉大な浄化と蘇生の力を、人類に教えてくれた瞬間でした。

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2008年07月26日

私の心に残る本 17
『世界を不幸にするアメリカの戦争経済 イラク戦費3兆ドルの衝撃』 ?アメリカは北朝鮮よりも危険な国

世界を不幸にするアメリカの戦争経済 イラク戦費3兆ドルの衝撃


こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

戦争は絶対に起こすべきではない。これはこれまでの人生の中で私が学んで得た結論であり願いです。

2003年3月、米国と有志連合によるイラク侵攻が開始。わずか6週間後、空母甲板上でのブッシュ大統領による勝利(任務完了)宣言がなされました。あれから5年、終わることのない戦争は当時よりも激しさを増し、多くの民間人や兵士の命を奪っています。

本書『世界を不幸にするアメリカの戦争経済?イラク戦費3兆ドルの衝撃(原題:The Three Trillion Dollar War- The True Cost of the Iraq Conflict)』(楡井 浩一訳、2008:徳間書店)は、戦争がいかに無駄で、空しく、すべてを破壊するものであるかを平易な表現で、具体的な数字を提示し読者に強く訴えています。


■日本の国家予算の4倍弱、ベトナム戦費をも上回る驚愕な数字
著者は2001年、ノーベル賞経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツとリンダ・ビルムズ元商務次官補。スティグリッツは、1943年米国生まれ。エール、オックスフォード、プリンストン、スタンフォードなどで教鞭をとり、93年クリントン政権に参画。97年から2000年まで、世界銀行の上級副総裁兼チーフエコノミストをつとめ、現在はコロンビア大学教授。

8章で構成されている本書は、「ブッシュが3兆ドルをどぶに捨てた」(1章)、「兵士たちの犠牲と医療にかかる真のコスト」(3章)、「社会にのしかかる戦争のコスト」(4章)、「原油高によって痛めつけられるアメリカ」(5章)、「グローバル経済への衝撃」「泥沼からの脱出作戦」(6章、7章)、そして「アメリカの過ちから学ぶ」(8章)と、その章立ては読者のこころをはやします。

著者は、「ブッシュ政権は戦争による利益を見誤った。ブッシュ大統領とその顧問らは、迅速で費用のかからない戦いを予測していた。ところが、それはだれにも想像できなかったほど高くつく戦争になった。」と開戦直前のラムズフェルド長官たちが見積もった戦争コストを提示。そのコストは、日本など他の国々の負担も含めわずか500-600億ドルであったことや国際開発庁のナツィオス長官のイラク再建に要する費用がわずか17億ドルと見積もられていたことなど、ブッシュ政権の予測の甘さを厳しく指弾しています。

そして実際のコストは3兆ドルになると莫大な数字を示したのです。そして米国の直接的な軍事活動のコスト(負傷した退役軍人の医療費などの長期的コストは含まない)は12年続いたベトナム戦争のコストをすでに超え(1.5倍)、朝鮮戦争の2倍以上に達していると指摘。また湾岸戦争のほぼ10倍、第1次世界大戦の2倍としています。一方、現在、イラク、アフガニスタンに費やす1か月の“回転資金”は160億ドル。この数字は国連の年間予算、あるいは米国13州分の年間予算に等しいと分析しています。

3兆ドルといえば300兆円超もの巨額。実に日本の1年の国家予算(2008年度一般会計)83兆円の4倍弱。つまり毎年、日本の国家予算の約80%をイラク戦争に投じていることになります。

なぜ米国政府のコスト見積もりに大きな乖離が生じているのかについて、著者は、イラク戦争のコストで国防総省の予算で補えない分は、社会保障局や労働省など他の公共部門へ移すことで操作され、巧妙な経費隠しが行なわれていると指摘しています。

またアメリカ政府の会計報告のやりかたについては、戦争のコストをさらにあいまいなものにしているとし、「政府の帳簿つけに用いる標準的な方法は“現金主義“会計を基本とする。」と米国政府が現金主義をとっていることを明らかにしています。その結果、実際の支出は記録されても、戦争の場合に生じる要素である、将来の医療や障害補償コストなどを含む将来的債務は無視。その時点での支出を低く見せることができると語っています。このため「アメリカでは食料雑貨店より大きい会社はすべて、“発生主義”会計を用いるよう法律で定められている。」としています。「このシステムでは、将来実際につかったときにではなく、将来かかるはずのコストが現時点でしめされる。現金主義会計と発生主義会計の不一致は、常に問題の種」と国防総省の不正な会計実務を使っての経常予算からのイラク戦争への支出の隠蔽を指摘しています。

■1兆ドルで何ができるのか?
本書は、世界における米国の評判が、史上最低のレベルまで落ち込み、米国が市民権と民主主義の砦と見なされなくなったという最も憂慮すべき事態にあると指摘。「“民主主義のため”に仕掛けられたイラク戦争は、民主主義の名に泥を塗った。この結果、ドイツ人の65 パーセント、スペイン人の66パーセント、ブラジル人の67パーセントが、アメリカ的な民主主義の解釈に嫌悪感を示した。」そして世界中の大多数の人びとにとってイラク占領中の米国は世界平和に対する脅威度でイランを凌駕していると、ピュー研究所の調査結果を紹介しています。この調査では対象となったすべての国で、世界平和に対するアメリカの脅威度は、北朝鮮の脅威度よりも高いと認識されていることを明らかにしたのです。

著者は、戦争につぎ込んだ3兆ドルは、他の目的で使えばとてつもない効果を生み出したはずと主張。3分の1の、1兆ドルで「...800万戸の住宅を建設でき、1,500万人の公立学校教師を採用でき、1億2,000万人の子どもを1年間健康保険に入れるか、4,300万人の学生を奨学金で4年間公立大学に通わせることができたかもしれない。」と試算。

著者はまた、このお金を教育、科学技術、学術研究などに投資していれば、もっと大きな経済成長や将来の課題に対処でき、代替エネルギー技術の開発などで環境問題の解決や石油依存度の低減も可能になっていたとも論じています。

イラク戦争で戦闘に参加している米軍人の被害も甚大。VA(退役軍人省)の病院や診療所で医療を求めるイラクおよびアフガニスタンからの帰還兵も2003年の13,822人から2008年の263,000人と急増して社会問題化しているとしています。

最後の8章では、「そしてアメリカの過ちから学ぶ」は、「イラクにおける今回の失敗は、ベトナムの敗戦とよく似た懲罰効果をもたらすだろう。」とし、将来おなじような紛争が発生したときの米国の関与に対する躊躇の姿勢を予測。泥沼化の可能性のある紛争に巻き込まれるさいには、より慎重な手続きを踏むことの必要性を説いています。そして著者は、「未来のための18の改革案」をあげています。その半数が、情報プロセスと意思決定プロセス(予算編成プロセスを含む)の改善に関するもので、残り半数は、帰還兵の処遇に関するもの。
著者は、「最良のシナリオどおりに事が進んでも、これからの10年間のイラク戦費は莫大な額にのぼる」と予測。「アメリカはイラクにたいして国土の安全を長期保障しており(中略)約束履行にアメリカ軍は半永久的にイラクに駐留しつづける必要がある」としています。そして、「2003年にくだした拙速な決断は、アメリカを長きにわたって縛りつけており、このつけは来るべき未来の世代が払うことになる。」と将来にわたって問題を引きずって行くと明言しています。

本書は米国の横暴を告発するものの、米国の世界での役割の重要性を説いています。「なぜなら、現代の世界が直面する全地球規模の諸問題を解決するとき、アメリカのリーダーシップは重要な役割を果たしうるからだ。」

先日、ミネソタにいるアメリカ人の友人からメールが回覧されてきました。その内容は、米国がこれまでイラクでいかに貢献(雇用、教育、治安、医療など)してきたかをそれぞれ数字で示したものでした。米国のメディアがとりあげていないとして、知り合いから知り合いへと回覧されたものでした。

戦争はいつも末端の人たちが犠牲になります。本書と友人からのメールに目を通しながら、覚醒されたリーダーの不在がいかに米国、そして世界を混乱に陥れているか痛感しました。パブリック・リレーションズ(PR)の実務家は、混乱した世界にあって、よりよい社会の実現のために、所属する組織体の職務を通して、強い意思で取り組んでいかなければなりません。

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2008年05月17日

私の心に残る本 16 『いつまでもデブと思うなよ』
 ?レコーディング・ダイエットとは?

いつまでもデブと思うなよ


こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

一年で50キロ減量した。117キロから67キロへ体重を落とした。作者の体験的ダイエット本がいま注目を浴びつつあります。レコーディング・ダイエットというダイエット法で、食事のたびに何を食べたのかひたすらメモ帳に記録すればOKというものです。

著者は大阪生まれで作家・評論家の岡田斗司夫さん(48才)。『いつまでもデブと思うなよ』(2007:新潮新書)は、岡田さんのダイエットの技術と思考法によって実践され、成功したことをこの本にまとめています。このダイエット法にいま関心が高まっています。

■「見た目主義社会」の到来
岡田さんは、人間は見た目が大事といっています。現代が見た目・印象主義社会であるから、人はまず見た目で判断される。だから「キャラ付け」もまず見た目が優先されるとしています。 私たちが知らないうちに日本社会は大きく変革しており、その最大の変化は「見た目・印象」を重視する「見た目主義社会」への移行。これらは表層的な変化ではなく、ビジネスや経済の最大要因にもなりうる変化と持論を展開しています。「つい30年前までは学歴主義社会」だったものが最近は見た目主義が勢力を増し、これに取って代わろうとしているといっています。

著者は、自身がダイエットを始めるとき、やせる必要性を考えて実行を開始したといいます。初対面の時などは見た印象で決定される。読者に「太っていると損をする」という現実認識が重要となると訴えています。

この考えは、私がよく大学の授業「パブリック・リレーションズ論」で学生に教える時に引き合いに出す、「メラビアンの法則」と共通しているものがあるように思います。メラビアンの法則は、米国のアルバート・メラビアンが提唱したもので、プレゼンテーションの評価は内容よりも見た目と耳からの印象で決まるとし、55%が表情、服装、髪型などの見た目(ビジュアル)で、38%が声の質、話し方など、最後のプレゼンの内容は僅かに7%に過ぎません。

もちろん著者がやせようと考えたのは、見た目を重視するだけでなく肥満によっていろいろなものが窮屈になりお金もかかるなどの理由から。彼は、見た目の印象を形作るものは3層に分類されるといっています。第一層は肉体そのもの。第二層はファッション。第三層は言動。このうち最初の肉体は、体格と体型の二つに別れ、最初の体格は改造不可能なもの(身長、肩幅、手足の長さなど骨格に由来するもので改造不可能なもの)。二つ目の体型は、改造が可能なもの(ウエスト、腹回り、太ももの太さなど筋肉や贅肉に由来するもの)としています。彼はこの中で体型の改良のためには、ダイエットが有効であるといって、自らの体験を読者に薦めています。

一年で50キロの減量に究極の技術と思考法で成功した岡田さんのモットーは、「楽しいダイエットでないと続かない」。ダイエットの最中には食事や飲み物にいつも気を使い、神経をすり減らしストレスを抱え込むことが多くみられます。「好きなことを我慢するのに、精神力や意思力は必要ない。ダイエット製品を買い揃える経済力も必要ない。仕事で疲れきった体をジムに運んだり、毎日トレーニングしなければならない時間も作らなくていい」つまり、「レコーディング・ダイエットはメモとペンだけ」とこのダイエット法が極めて簡単なことを強調しています。

■ダイエットのための6つのフェーズ
「レコーディング・ダイエットとは、記録することによるダイエットであり、記録するという行為の積み重ねによって自分の行動管理を目的とする」もの。そしてレコーディング・ダイエットを飛行機の一連の運動にたとえて、1)が助走、2)が離陸、3)が上昇、続いて4)巡航、5)再加速、6)軌道到達、と6つのフェーズを経てダイエットが完了。後は月面着陸の気分としています。

著者は、このダイエット法について、助走では、1)体重を毎日量る、2)口に入れたものをすべてメモする、3)我慢しない、今まで食べたいものは食べて、ひたすらメモすることにより自分の行動を客観化することが「やせる」結果をもたらすといっています。この期間は、対策を練るための期間で、楽しい旅行プランを練る期間。

次の離陸期間では、1)体重体脂肪率を毎日計ることで、2)口に入れたものすべてメモしカロリーの計算をする。3)は、どうやれば総カロリー数を減らせるか想像してみる。でも我慢しない。早い人で2週間、最長でも2ヶ月あれば「自分の食事生活パターン」が判ってくるようになる。自分で生活パターンが判ってきたら、助走期間が終わり次の離陸に入ります。助走から離陸へのタイミングは自分できめます。2)のカロリー計算では最近はコンビニやファーストフード、インターネットのサイトから簡単に入手できるはず。この期間は1?2週間、気の短い人は三日ほどで次の上昇段階に入ることが可能。

カロリー計算がなんとなくこなせるようになったら、第3段階の上昇に入ります。このあたりから体重変化が起こり、体が軽くなり、ダイエットが楽しくなるそうです。具体的には、「一日あたりのカロリー摂取量を一定範囲内に抑える」ことを目指す。摂取カロリーは「自分の基礎代謝量ぎりぎり」あたりが最も効率よくやせられる。基礎代謝量とは、呼吸や体温調整など生命を維持するために消費されるエネルギー。眠っている間でも消費されるエネルギーで、人間が生きていくうえで必ず消費されるエネルギーをさしています。もちろん男性、女性、年齢などによって違うようで、ちなみに、50?69歳男性は1,350Kcal。作者は1,500Kcalでこの数字が目安。基礎代謝量より下に設定することはいけないようです。上昇のポイントは4つあり、1)体重、体脂肪率を毎日計り口に入れたものをすべてメモしカロリー計算する。2)摂取カロリーは個人の基礎代謝量にあわせて決定しそれを守ります。3)は食べ過ぎても後悔や反省はせず、翌日のフォローで切り抜ける。4)毎日水を2リットル飲む。レコーディング・ダイエットの場合は食べすぎより記録していないことの方が問題のようです。とにもかくにも記録することが重要。

次は巡航です。毎日記録をつけて規定のカロリー数に抑えそれを無理せず継続できるようになったらあなたはもう巡航段階に突入したことになります。カロリー制限を開始して(上昇)75日あたりから体質は大きく変化します。体重は減るが皮下脂肪を燃やし始めた体は、恒常性維持(ホメオスタシス)のために、やせようとする意思に反して体が妨害してきます。精神的にも不安定になり気力が衰え、気分も落ち込みがちになります。この飢餓感と落ち込みは1?2週間続くが、この段階を通り越せば、この「飢餓感と不安」はうそみたいになくなるようです。体がついに抵抗をやめ、やせることを認めるようになります。これが75日目の体質変化です。ポイントは、脈動的に変化する。体重、体脂肪重量、サイズの3つが2週間以上にわたって変化がない場合(停滞期)は豆乳や野菜ジュースなど他のダイエット法(ウオーキングなど)と併用します。

この時期も克服し、周囲の人にどうやってやせたのか聞かれるようになり、カロリー計算が反射的にできるようになったら、再加速段階に入っているということ。一番わかりやすい転機は自分の好物に明らかな変化が見られる時です。もう少し食べたいと思って箸を置きあとで「ちょうど満腹」になるのが理想的。胃袋が発する「あと少し」という細かいサインに注意してそこで食事をやめることがすすめられています。つまり自分の体の声を聞くということ。食欲には「頭だけが食べたがるもの(欲望)」と、「体が食べたがるもの(欲求)」の2つがあり、自身が発する何々が食べたいという欲求のサインを聞くようにすることが肝要。

体の欲求がどんどん自覚できるようになると最終段階の軌道到達の準備ができたことになるとしています。計器飛行をやめて有視界飛行に移る。すなわち「レコーディングをやめてカロリー制限もしないで食事をする」という段階。そのためには、再加速段階で意識した空腹満腹感を更に強く意識する。「軌道到達」に達するということは「必要な分だけ食べたら努力なしに食べるのをやめられる」という状態になっているということのようです。

その結果は月面着陸の体験。重力6分の1で、夢のような気持ちが味わえるというわけです。

岡田さんのこのダイエット法は、日ごろ多忙なPRパーソンにとってはあり得ないような話です。早速、数日前から始めることにしました。皆さんもいかがですか?

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2008年04月11日

心に残る本 15  大川従道の『非まじめ牧師のジョーク集』

非まじめ牧師のジョーク集


こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。
                       
                     
笑いは動物のなかで人間にしかできない行為です。 先日、笑いに焦点を当てて書かれた本を戴きました。それは『非まじめ牧師のジョーク集』(2007年、朝日新聞社)。手にとってみると、これがなかなか面白い。ページをめくる度に「クスッ」と笑いがこぼれてくるのです。

しかも各ストーリーの中で物事の核心がみごとに突かれています。中にはドイツやアメリカ、イギリスなど様々な民族性を取り上げたジョークもあります。 本書は、読み進むうちに世界の常識も勉強できるコンパクトで役に立つ本です。

■「恵みのツケと罪のツケ」
本書の著者は、会員1000名以上を擁する大和カルバリーチャペルの大川従道牧師。大川牧師は、説教の冒頭で、必ずといっていい程ジョークを連発。この本には彼の素直な気持ちで表現されたジョークが63の話にまとめられています。

大川牧師は、どうしてここまで笑いを大切にするのでしょう。初めて集った人でも人間の壁を越えてひとつになることができる。大川牧師は、笑いにはそんな力があるからだといいます。どんな状況にある人でも笑いで救われる。これは本当のこと。全てのこだわりから解き放たれた瞬間、人は笑います。人間的な枠組みを超えた印しが笑いそのものなのです。

面白かったのは、「孫もマゴマゴ」という箇所。「恵みのツケと罪のツケ」のたとえ話です。中近東のある場所に「お代は、あなたのお孫さんにツケられます」と張り紙をしたバーがありました。そこに一人の男が訪れ、心行くまでお酒を楽しみます。

バーを出るときその男は、「代金は孫にツケといてくれ」といいます。するとバーの店主は「100ドル戴きます」と来ました。そのわけを尋ねると、「ええ、今夜の代金はお孫さんに付けさせていただきましたが、これはあなたの祖父様の分です」とやりかえされたというジョークです。

旧約聖書では、「私を愛し、私の戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至る。しかし、罪は父の罪の子に報いて、3、4代に及ぼす(出エジプト記 20:5-6)」と記されています。
このように大川牧師は、軽やかな笑いを挟みながら、私たちに人生の正しい道とは何かを教えてくれています。

■「互いの違いを楽しみなさい」
「理想的なヨーロッパ人」も思わず笑いがこぼれました。これは欧州のそれぞれの国民性をジョークにしたもの。「ドイツ人のようにユーモアがあり、イギリス人のように料理が上手で、フランス人のように運転が静かで、イタリア人のように規律正しく、….」と永遠に続くジョークです。

これはお互いのイメージを全て裏返しに表現したジョーク。このジョークは互いを笑い合うためのもの。 大川牧師は、「他人を茶化すときには自分も笑いの対象にすべき」として、お互いを笑う時にはまずは自らを笑う事から始めようといっています。

私たちがパブリック・リレーションズの活動を通して様々な人とコミュニケーションをする場合でも、ジョークが弛緩剤になることはよくあること。大笑いで互いを笑い合えたら、双方の相違点からくる違和感など吹き飛んでしまうのは確かです。大川牧師の「互いの違いを楽しみなさい」とする言葉を心に留めておき、どんな時でもジョークが言える余裕を持ちたいものです。

このように大川牧師は、時にはおやじ風のジョークも交えながら、本当に大切なものは何かを私たちに語りかけています。150ページ足らずの薄い本ですが、春の温かい日差しを浴びながら、この本をゆっくりと味わってみてはいかがでしょうか。あなたの顔もいつの間にか笑顔になっていることでしょう。

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2008年03月07日

私の心に残る本 14 『頭にちょっと風穴を』

頭にちょっと風穴を―洗練された日本人になるために


こんにちは、井之上喬です。3月、端午の節句も終り一段と春らしい陽気となりました。
皆さん、いかがお過ごしですか。

「大きなときの流れの中で自分はどのあたりを歩いているのか」。混沌を極めたこの世界で、自分の立ち位置が見えている人は数少ないのではないかと思います。

そのヒントをくれるのが国際ジャーナリストである廣淵升彦さんの『頭にちょっと風穴を―洗練された日本人になるために』(2008年、新潮社)という本です。

■「カダフィが拭った汗」
廣淵升彦さんは、テレビ朝日ニューヨーク、ロンドン両支局の初代支局長、ニュースキャスター、報道制作部長、国際局国際セミナー専任局長等を歴任した後、現在は私大の教授などを務める傍ら、精力的に執筆活動を行なっています。

「日常と世界を結び、世界を日常の中に運び込んでくる」ことを心がけて仕事をしてきたという廣淵さん。その彼が本書の中で「世界のタテ・ヨコ」を多くの実例を交えながらユーモアいっぱいに語っています。

印象に残ったのは「カダフィが拭った汗」。1981年4月廣淵さんはリビアの宰相、カダフィ大佐とのインタビューを実現。廣淵さんは実際に会う前のカダフィのイメージを、「弱冠27歳で腐敗した国王を放逐して政権を握って以来、冷酷非情に数々の粛清を行い、暗殺を逃れてきたカリスマ」と表現しています。

しかし廣淵さんが彼に実際にインタビューしたとき、カダフィの思いがけない立ち振る舞いを見たといいます。それは、彼の通訳を務めていた現地の老教授が、遠慮のない廣淵さんの質問に対して狼狽し額に大汗をかいていた有様をみて、老教授の汗を、さりげなく自然に拭ったのを目撃。廣淵さんはこの瞬間、カダフィを単なる「狂犬」ではなく「非常に慎重で繊細な人」だと思ったといいます。

2003年、実際にカダフィは西欧諸国との和平の道を選び、核兵器、生物化学兵器の開発を全面的に中止。国際査察を無条件に受け入れました。カダフィの平和路線への転換を暗示するような廣淵さんの深い洞察力。この本にはこのような彼の深い洞察が随所に見られます。

■ 世界の「ツボ」を心得よ
深く共感したのは、「エリートと中産階級についての思い違い」というくだり。ここで廣淵さんは、日本にエリートはいないと断言。日本でエリートといわれるのは一流と呼ばれる学歴やキャリアをもつ秀才のことであって、真のエリートではないというのです。

そして廣淵さんは、真のエリートとは、何が正義かを知り自分の人生を犠牲にして国のために奉仕することを喜びとする、気高い勇者のことをさすと語っています。廣淵さんは、その支柱がノブレス・オブリージュの精神であるとして、日本にはこの精神を持つ人材があまりにも不足していることを嘆いています。

日本にもかつて高い志を持ったエリートはいたはずです。私も、混沌とする日本の変革のためにも、今の若者のなかに次世代のリーダーとして必要な正しいエリート意識を育てることが重要だと考えています。

また廣淵さんは、今の日本人に欠けているのは洗練された知識。 つまり人々の間に世界情勢を把握する「知的装備・精神的部品」が欠落しているといいます。

世界の成り立ちを知るヒントとなるのは国際情勢の「ツボ」。廣淵さんはこの「ツボ」を押さえておけば、その詳細を知らなくとも、世界を大きく見誤ることないといいます。 ただ、現代の日本人は国際情勢のツボを押さえるどころか、ほとんど無関心であるのが現状。

それでも廣淵さんは 「日本がいまや直面している困難の多くは、『教養があれば解決できる類いのもの..... 』、それも『国際的な教養』があればなおいい』と読者にはっぱをかけます。この本は読者の好奇心をくすぐるように、メディアではほとんど語られない情報を網羅し、世界の大きな流れを日常に引き寄せて語っています。

国際情勢のツボを押さえながら国際舞台で確固たる判断基準を持って立ち振る舞う。そういう日本人が増えてくれば、日本の将来に希望の光が差し込むことは間違いないでしょう。世界を舞台に活躍するPRパーソンには必読の書かもしれません。是非、ご一読することをお勧めします。

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2008年01月19日

心に残る本 淵田美津雄自叙伝
 ?戦争と平和、人生を2度生き切った男

真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝



こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか?

「トラトラトラ(我奇襲ニ成功セリ)」。1941年12月8日、日本軍による真珠湾奇襲攻撃の成功を機上から打電したのは淵田美津雄。真珠湾攻撃で斬新な戦略を構想し、空母艦隊による第1次攻撃隊を指揮した男です。

本書は第2次世界大戦における名指揮官と名を馳せた淵田が晩年に書き残した自叙伝「夏は近い」を中田整一氏の編纂で初めて活字化されたもの。そこに描き出されているのは、凛とした冴え渡る知性と卓越した行動力、そして人間として温かみを持ち合わせた男の生きた戦争と平和です。真珠湾攻撃から66年、その壮絶な一生が精緻に自らの言葉で明らかにされます。

■ 全てを目撃した、ただ一人の男。
本書は6部からなり、淵田の生い立ち、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦の戦略の失敗と大敗、占領下での日本、キリスト教への回心という構成で展開します。

奈良県の山に囲まれた小さな村で幼少を過ごした淵田少年が、大海原を駆け巡る海軍兵に憧れ、大志を胸に軍人へと成長。1920年代から空軍の重要性に気づき飛行将校を志願。1941年には空戦隊参謀から2度目の空母赤城飛行隊長へと就任。真珠湾攻撃の戦略構想に関わることになります。 

そして真珠湾攻撃における第1次攻撃隊を360機を率いて指揮します。その後マレー沖海戦勝利のあと、日本が大敗したミッドウェー海戦では、病に倒れ作戦に参加できなかったことを悔やみつつ、沈没する空母から九死に一生を得ました。史上名高いレイテ湾突入作戦を、連合艦隊参謀として構想。広島、長崎では原爆投下された翌日には爆心地入りし被害調査を実施。そして戦艦「ミズーリ」号での降伏調印式に出席し、戦争の終焉を見届けました。淵田は、戦争の始まりと終わりを目撃したただひとりの男となったのです。

淵田に一貫していたのは柔軟性のある合理的な戦略。具体的には母艦航空兵力の集団攻撃とその統一指揮や相手の意表をつく心理戦でした。

1930年ロンドン海軍軍縮条約で日本に許された大型巡洋艦や潜水艦の軍備制限は、対米69.7%。そこで日本は航空兵力増強と航空母艦数の拡充へ方針転換。開戦当初の空母保有は、日本が10隻、米国、英国共に8隻と、日本は米英を凌ぐ空母艦隊を保有していたのでした。

真珠湾攻撃の折、赤城を旗艦とした独立した6隻による空母艦隊(南雲艦隊)を編成したのは日本だけ。これまでの索敵偵察や戦艦部隊の補助的な攻撃力としてではなく世界に先んじて空母主力の発想を実現した淵田の構想による勝利でした。にも拘らず日露戦争以来の日本海軍の戦艦への執着や司令官の縄張り意識が原因で、南雲艦隊は2分割され、その後の戦いの中で、合理的かつ立体的に戦局全体を統一指揮する戦略構想ができぬまま時が経過していきます。一方で米軍は、マレー沖海戦で淵田の率いる航空攻撃隊(南雲艦隊)により戦艦が壊滅。空母の重要性を認識した米国は即座にその増強に注力し、正確な情報収集と空母を中心とする陸海空からの統合的な反撃でその後勝利を収めていきます。

戦略構想の場面や戦闘シーン、ミズーリ号上での調印式での憤りなど、淵田の心情と見た者にしか語れない情景が迫力を持って静かに、みずみずしく、そして率直に描き出されています。

■ 信じて仕えるひたむきな姿勢
天皇の象徴化と公職失職。戦後淵田が体験したのは、精神的支柱を失った深い喪失感でした。裸一貫で戻った郷里で、山で木を切り出し独力で住み家を建設、孤独感と自己との対峙を強いられながら農業を始めるのでした。

そんな時、米国での日本人捕虜収容所の実態調査で耳にしたある米国人少女の話が彼の心を揺さぶります。それは、フィリピンで日本兵に殺された宣教師であった彼女の両親が、「父よ、彼らを許したまえ」と祈り殉教したことを知り、敵をも愛する心を実践する看護師として日本人に献身的に奉仕した事実でした。

後に淵田は聖書の中の1節に「父よ、彼らを許したまえ、その為す処を知らざればなり(ルカ23・34)」を見出し愕然とします。その場でキリスト教への回心を決意。その日1950年2月26日を自ら第2の誕生日とし、平和の伝道者として憎しみの連鎖を断ち切るための新しい道を突き進みます。

受洗後の52年から引退する67年まで、淵田は日米を中心に世界各地で伝道活動を精力的に展開します。日本への復讐を誓ったドゥーリトル爆撃隊(真珠湾攻撃の反撃のため1942年4月東京初空襲を敢行)捕虜兵や米太平洋艦隊司令長官であったニミッツ元帥とも友好の再開を果たします。

引退後は、自叙伝の執筆活動に取り組みますが、完成前の1976年5月30日、糖尿病の合併症により74歳でこの世を去りました。その膨大な資料には中田整一も圧倒されたといいます。

淵田はまた名文家と呼ばれていたようです。日本軍の敗戦色濃いレイテ作戦で、神風特攻隊編成に反対した連合艦隊淵田航空参謀が、上官から請われて書かれ特攻隊員に下達された感状(特攻隊員を送る言葉)があります。「・・・悠久の大儀に殉ず。忠烈萬性に燦たり」。漢学の素養が遺憾なく発揮されている彼のこの言葉は、参謀長の草加龍之介中将をうならせるほどでした。

その人生で、いつも何かを信じひたむきに仕える姿勢を貫いた淵田。戦後「地球上の人類は1つ」と信じ生きた淵田からの平和へのメッセージは、紛争の絶えない21世紀の私たちの住む地球へ警鐘を鳴らしています。

400ページの厚い本ですが、現代と違った漢字使いも面白く一気に読み進められます。20世紀を生きた偉大な戦略家の一生に触れてみてはいかがでしょうか。

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2007年12月22日

心に残る本 12 『新約聖書』
 ?不安な現代人の心を癒す永遠のベストセラー

こんにちは。井之上喬です。
今年もクリスマスの時期が到来しました。皆さん、いかがお過ごしですか。

クリスマスはイエス・キリストの誕生日。その前夜をお祝いする日(24日)がクリスマス・イヴです。キリスト者にとっては、新しい一年の始まりを意味するお祝いの日。今日は、その誕生以来多くの人の心を癒し続ける、『新約聖書』をご紹介します。

■ 聖書の教えはPRの原点
聖書に示されているのは、「どう生きるべきか」という人間の在り方に関する本質的な問題に対するソリューション。この世界で最も多くの人に読まれている聖書は、旧約聖書と新約聖書からなり、旧約つまり「旧い契約」とは、イスラエルの民がヤーウェ(神)と結ぶ契約を意味し、新約つまり「新しい契約」はイエスの誕生によるイエスを通して神と結ばれる契約を意味します。

新約聖書は1世紀に27巻がそれぞれ別に記述され、後に編纂されて誕生。その構成は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書、イエスの昇天後、イエスの使徒による福音宣教を書き記した使徒言行録。これらの歴史的な記述に加え、使徒たちの書簡集とヨハネの黙示録から成ります。

その根底を貫くのは、神による深く果てしない愛とその神への完全な愛。そして「隣人を自分のように愛しなさい(ルカ10章11節)」という隣人愛。

意外なことに、聖書の世界とパブリック・リレーションズはとても深いところでつながっています。というのも、米国で登場・発展したパブリック・リレーションズの思想的な原点は、新約聖書の聖パウロの書簡集にあるともいわれているからです。

またPRの倫理をいち早く記述した米国のPR専任研究者レックス・ハーロウ(Rex Harlow)は、 倫理の重要性と有効性について、黄金律とも呼ばれる「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ7章12節)」を引用して記述しています。

そして現在は大衆扇動という悪い意味で使われるプロパガンダという言葉も、神様が与えてくださる奇跡を伝え歩く福音宣教を意味するプロパーゲートという言葉が語源にあります。

■ 御言葉はあなたの近くに
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある(ローマ 10章5-10節)」

私達は自分の力ではうまくいかないとか、自信をもてないなどと思うことがたくさんあります。しかし、ヨハネが書簡の中で「神は愛です(ヨハネの手紙4章6節)」と宣言しているように、私たちの中に愛の種が一粒でもあれば、自分の力を超えた愛の力が自分に働いていることがわかります。

普段私たちは、大きな存在からどれほど多くの恵みを戴いているのか気づいていません。聖書を紐くとき私たちは、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる(マタイ28章20節)」といわれたイエスに触れ、その豊かな恵みを目の当たりにします。またその愛の深さを知った人の心の中には命の尊さや感謝の気持ちが芽生えてきます。

日々の暮らしの中のつらい思いやネガティブな思いを全て捨て去り、澄み切った青空のような気持ちを運んでくれる聖書。オリジナル版であるギリシア語からラテン語を経て今日では日本語の口語訳を初め、実に世界で370を超える言語で出版されています。ちなみにドイツのグーテンベルグが1456年、世界初の活版印刷機械で最初に印刷したのは聖書。
興味のある方は、『新約聖書』(新共同訳)を是非一度手にとってみてください。

現在難民と呼ばれる人たちの数は世界で3800万人(国連難民高等弁務官事務所/UNHCR「世界の難民状況 2006 年」より)を超えています。北半球の冬を耐え忍ぶ貧しい人々に思いを馳せ、私たちがいつも多くの恵みを戴いていることに感謝し、静かに聖なる夜、クリスマスを過ごすのもいいかもしれません。

皆さんのクリスマスが、恵み深いものとなりますように。
メリー・クリスマス!

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好評発売中の『パブリック・リレーションズ』
(井之上喬著:日本評論社)第3刷が発刊されました!


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2007年10月19日

心に残る本 11 『人生の王道  西郷南洲の教えに学ぶ』

人生の王道?西郷南洲の教えに学ぶ


こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。
                    
「かって、とびきり美しく温かい心を持った、ひとりの上質な日本人がいたことを思い起こすのです。それは、西郷隆盛です。日本人が本来持っていた『美しさ』『上質さ』を想起させるのです。」
本の扉を開くと、最初にこのことばが目に飛び込んできました。著者稲盛和夫さんの熱いメッセージです。

今年は西郷隆盛(1827?77年)生誕180年、没後130年にあたる年。先日、鹿児島に生まれ、少年時代より西郷の思想を人生のバックボーンとしてきた京セラ名誉会長、稲盛和夫さんが『人生の王道?西郷南洲の教えに学ぶ』(2007日経BP社)を出版されました。

この本は、西郷が西南戦争(1877年)に立つまでに遺した『南洲翁遺訓』全41条を稲盛さん自らの経営者としての人生に照らし合わせて読み解いた作品。日経ビジネスで大反響を呼んだ連載「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」を大幅に加筆修正して書籍化したもの。今回はこの本をご紹介します。

■ 「敬天愛人」
遺訓24条「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」

西郷隆盛は、江戸城無血開城や廃藩置県断行などの政治的難題を見事に解決した明治維新の立役者。新政府で要職に就いた西郷ですが、政府内での意見対立から下野。郷里鹿児島で私学校を創設しその思想や哲学を生徒らに教えました。

1877年その生徒たちが新政府を相手に決起。西郷は不利な状況を承知で生徒らと共に7カ月に渡る西南戦争を戦い、最期の地、鹿児島市城山にたどり着きます。約4週間の戦闘の末、同年9月24日政府軍により被弾し自刃。享年50歳でその生涯を閉じました。

「南洲翁遺訓」(南洲は雅号)にはあるエピソードがありました。幕末に西郷は、官軍と戦い敗れた旧庄内藩(現山形県)に対し、その処罰を藩主と一部藩士のみの謹慎に留め、最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士として敬意を持って処遇しました。これに感銘を受けた旧庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、明治に入り即座に薩摩遊学を計画。旧藩士70数名を引き連れ鹿児島を訪問、直接西郷の教えを請うたのでした。「南洲翁遺訓」は、旧庄内藩の有志が西郷から直接聞いた教訓を明治時代に一冊の本にまとめたものでした。

著者の稲盛さんはこの41条におよぶ遺訓を「無私」「試練」「利他」「大儀」「立志」「希望」など、12の章に分けて語っています。その要素は、どれ1つとっても今のリーダーに欠かせない能力や資質。 著者は西郷の思想を通して、相次ぐ不祥事や不気味な事件がメディアを埋め尽くす混迷の時代に、日本が一番必要としているバックボーンとは何かを提示しています。

一番始めに目に飛び込んできた言葉は「敬天愛人」。これは私の執務室にもある書で、聖書の一節「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」に示されている黄金律にも通ずる言葉です。

稲盛さんは「天を敬うとは、自然の道理、人間としての正しい道、すなわち天道をもって善しとせよ、つまり、『人間として正しいことを貫く』ことであり、人を愛するとは、己の欲や私欲をなくし、人を思いやる『利他』の心をもって生きるべしという教えです」と解説しています。

稲盛さんは西郷の思想を象徴するこの言葉「敬天愛人」を京セラの社是としてきたといっています。京セラの創業期、稲盛氏は経営経験のない若干27歳のベンチャー企業経営者として悩みぬいた結果、「人間として正しい道を貫くこと」を全ての物事の判断基準に据えることを決心。その時目に入ったのが、当時オフィスとして間借りしていた宮木電気の社長から贈られた「敬天愛人」の書。そしてこのとき稲盛さんは、「敬天愛人」を社是に掲げることを心に決めたといいます。

この言葉はインターメディエータとして様々な難題に立ち向かい、相互の利益を実現させる役割を持つパブリック・リレーションズの実務家にも心に刻んでもらいたいものです。明確な行動基準を持つことで、どのような状況でも柔軟な対応と速やかな判断を促し、必要とあらば自らを修正することを容易にすると思われるからです。

■ 美しく温かい心をもった、上質な日本人
西郷は、旧庄内藩に対する降伏時の処置や負け戦を承知で生徒の気持ちを重んじ共に戦ったその行動に見られるように「徳」だけでなく「仁」も重んじた人でした。

遺訓39条で西郷は、才識(才能と識見)と仁徳の大切さに触れています。その言葉を要約すれば、真心があれば世の中を動かし素早く行動でき、才識があれば広く治めることができるから、才識と真心が一体となったとき、全てはうまくいくということです。

稲盛さんは、現在の人は才識ばかりを求めがちであるが、至誠の心がなければ目先の利益に気を取られ、継続的な成功を収めることは不可能だと付け加えています。

このバランスは次世代を担うリーダーに不可欠な要素です。私は頻発する一連の不祥事の根本的な問題解決も、至誠の心つまり倫理観を個人や組織の内部に育てること無しには有り得ないと考えています。

私の父も鹿児島出身。数年前に私は父の故郷鹿児島の市内にある、城山から程遠くない西郷隆盛が祀られている南洲神社を訪れました。境内には隆盛を始め桐野利秋、村田新八ら西南戦争を戦い志半ばで逝った2000を超える志士たちの墓地があります(写真)。その中で聳え立つ西郷隆盛の巨大な墓石とその背後の墓石群を目の前にしたとき、その強烈なエネルギーに圧倒されたのを今でも鮮明に覚えています。


京セラ、KDDIを創業し継続的な成功を収めてきた稲盛さんが、世情の乱れを危惧し、西郷の精神を再び世に広めたいと記された本書。そこで強調されているのは、「南洲翁遺訓」に示される精神的な豊かさや美徳、そして品格を取り戻すことの重要性です。

とびきり美しく温かい心もった上質な日本人、西郷隆盛が百数十年の時を超えて語りかける言葉は、私たちの心の奥に響くものばかりです。一度手にとってみてはいかがでしょうか。

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2007年09月15日

私の心に残る本10 『息子よ、ありがとう』

息子よ、ありがとう


こんにちわ井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

先日ある本を手にとってふと、『千の風になって』を思いだしました。その素晴らしい言葉は『息子よ、ありがとう』という鄭 根謨さんが書いた本にありました。その本は次のような言葉で始まっています。

「私が死んでも涙を流さないでください。ただ祈ってください。私にとって、死は天国の学校に入学するのですから。」

著者の鄭 根謨(チョン・クンモ)さんと出会ったのは2年前。私の所属するある会が毎年8月、東京で開く国際親善会でのことです。鄭さんはそのなかの日韓友好懇談会に明知大学(ソウル)の総長として出席していました。今年も鄭さんはこの会合参加のために来日しました。初日の歓迎夕食会で、鄭さんはご自身が書かれた本の日本語訳が出版されたことを紹介しました。直筆で書かれたその本の題名は、『息子よ、ありがとう』(2007 イーグレープ)。

■ 天才の名をほしいままに
いつも穏やかな笑みをたたえる鄭さん。それまで大学で総長をしている鄭さんとしか理解していなかった私は、本を読むまで殆んど彼がどのような人なのか知りませんでした。
彼は母国韓国ではもちろん、世界的に著名な物理学者だったのです。本の前半は、彼の少年・青年時代が生き生きと描かれています。

1939年ソウル市に生まれた鄭さんは幼少の頃から神童とよばれ、中学、高校ともに首席で入学。高校を飛び級でわずか4カ月で終え、首席でパスした検定試験のあと、ソウル大学物理学科に次席で合格。同大学院の修士課程を修了後、60年には当時の李承晩大統領の肝いりで国家代表留学生として国費でミシガン州立大学に留学。入学資格試験で最高点をとり修士課程を経ずに直ちに博士課程。半年で終了し、62年に同大学で理学工学博士号を取得。博論のテーマは『分子構造を量子力学で解くことに関する研究』で、この論文は10年後の70年代の宇宙探索時代の「地球以外の惑星に水は存在したか」という問いに対する理論的ベースを提供するもとになったといいます。

その後24才の若さでフロリダ大学の助教授に就任。あまりの若さに地元メディアが「少年教授がフロリダで誕生」と一斉に報道。しかし研究への情熱が強かった鄭博士はその後、プリンストン大学やMITで核融合の研究に没頭します。67年ニューヨーク工科大学で准教授に迎えられ、核融合研究所を創設し責任者になります(後に教授となる)。

やがて鄭さんは、韓国の科学技術強化のための韓国科学院(理工系大学院)設立構想を実現させるために10年振りに帰国。71年、同科学院開設に伴い若干31才で副院長に就任。その後同国で当時最年少の大臣、科学技術庁長官に就任します。93年には高等技術研究員を創設するなど、韓国の科学技術の発展の基盤を築きました。

また国際舞台では、89年にIAEA(国際原子力機関)の総会議長に選出され、世界の科学技術担当の責任者を一同に集めた世界科学技術長官懇談会を開催。現在も大学総長の傍ら、韓国科学技術アカデミー委員長や世界原子力アカデミー会員などの要職につき、物理学の第一人者として国際的に活躍しています。

■ 自分の腎臓を愛する息子へ
「ある日、神は生きることに疲れはてた私の肩を軽く叩きながら言われた。『愛する子よ。小さな十字架を背負って行くお前の息子に感謝しなさい』」

数々の輝かしい経歴を持つ鄭根謨さん。順風満帆に見える彼の人生にも、様々な試練や困難が降りかかりました。小学6年生の時に母が他界。大学生のときには父を失うという悲劇に見舞われました。

しかし一番の苦難は、74年に慢性腎臓炎が判明した息子鎮厚くんとのことでした。難病のために80年にはご自身の左腎臓を息子に分け与えます。鎮厚くんは、父から移植された腎臓で一時的に健康を回復するものの、長い闘病生活を経て01年に36才でこの世を去ります。この本の後半はその四半世紀にわたる息子の闘病を通して、家族一人ひとりが苦難を乗り越え、成長していく姿が綴られています。

鄭さん一家は、クリスチャン家族です。家族一人ひとりが困難を神様からの恵みとして感謝し、試練を乗り越えるたびに神様への信仰を強めていきました。そのような経験を持つ鄭根謨さんは息子さんの死に向き合い、「鎮厚の死は『悲しみ』ではなく『恵み』何度と感じる瞬間だった。」と語っています。

この本のクライマックスは、父親である鄭さんが息子鎮厚くんの危篤の知らせを受け、ワシントンの病院に向かう飛行機の中で書かれた手紙です。息子の幼いときの話、不治の病にかかった息子とのやりとり、息子の結婚、信仰について…。家族のなかで起こったさまざまなことに思いを馳せながら書かれた鄭さんのことばと思いは私達を圧倒します。

「私が死んでも涙を流さないでください。ただ祈ってください。私にとって、死は天国の学校に入学するのですから。」息子の鎮厚くんは深い眠りにつきます。

息子鎮厚くんの葬儀にこんなシーンがあります。ワシントンでの葬儀に駆けつけてくれた彼の二人の親しい友人のことです。鄭さんは、この二人のアメリカ人の鄭さんへのお悔やみのことばの中で、二人とも同じように息子を不治の病で亡くしていたことを知ります。

この本を読み終わって、その題名「息子よ、ありがとう」は、息子の病と死をとおして、神をより深く知るようになった鄭さんの、ご子息への深い感謝のメッセージなのだと気づかされました。

いつも穏やかで謙遜に振る舞う鄭さんからは不思議なほど、このような体験をした悲壮感は感じられません。鄭根謨さんは何度も襲い来る試練を信仰というバックボーンを持つことで乗り越えてきました。彼の生き様は私達に、自分を委ねることができるバックボーンを持つことの意味を教えています。

254ページの本ですが、とても読みやすく編集され一気に読むことができます。皆さん是非一度手にしてみてはいかがでしょうか。

投稿者 Inoue: 11:52 | トラックバック

2007年08月17日

私の心に残る本9 『ビジョナリー・ピープル』
 ?200人の成功者が示す成功への道とは?

ビジョナリー・ピープル


こんにちは井之上喬です。
皆さんは夏休みをどのようにお過ごしですか?

今年の夏休みを私は瀬戸内海に浮かぶ愛媛県弓削島で過ごしました。島のトレードマークである石山、そして松原海岸とその入り江が見渡せる弓削ロッジでのんびり読書。手にした本は、『ビジョナリー・ピープル(原題:Success Built to Last?Creating a Life that Matters)』(2007、英治出版)。

時代を超えて成功する「企業」の条件を示した『ビジョナリー・カンパニー』(1995、日経BP出版センター)を知る人は多いはず。その共著者の一人、ジェリー・ポラスがスチュワート・エメリーとマーク・トンプソンと共に10年にわたり世界各国の200人以上の成功者にインタビュー。成功の原則を明らかにした本です。

■自分の愛することに集中する
本書に登場する人物はガンジーやグーグルの会長兼CEOエリック・シュミット、ヨーヨー・マなど幅広い分野で継続的に成功している人たち。著者はこのような人を「ビジョナリーな人」と呼んでいます。

そこに浮かび上がる共通点は、自分の愛することを生きがいとして全神経を集中し、どんな逆境にも挫けず自分の信じる道を突き進んでいること。成功という世間的な評価を手にした後も、自分の生きがいに情熱とエネルギーを注ぎ続け、継続的な目標達成をしていることです。

ネルソン・マンデラもその一人。彼は、南アフリカ共和国の反アパルトヘイト運動に参加し、1964年反逆罪で逮捕され有罪となり、終身刑の判決を受けました。収容所で彼を待っていたのは重労働や思想改造などの壮絶な圧力。マンデラはそのような逆境にも、人種差別のない祖国再建の夢を捨てませんでした。

27年の投獄生活を経て釈放されたのは1990年。なんとマンデラが71歳のときでした。彼は耐え難い苦痛を与えた政府に対し報復活動は一切せず、非暴力革命の指導者として、和解の道を選択しました。憎しみをも乗り越え、自分の夢の実現に邁進したのです。

当時の大統領デクラークと協力し、全人種代表が参加した民主南アフリカ会議を2度開催。そして暫定政府、暫定憲法を作成しました。93年にはその功績を称えられノーベル平和賞を受賞。翌年には黒人として初めて、南アフリカ共和国大統領に就任する快挙を成し遂げました。

■ 弱点と向き合い受け入れる
「永続的な成功をおさめている人は、自分の人生の目的に対する答えが、情熱的な愛情、あるいは苦痛のどちらか一方ではなく、 奇妙な調和を保って両方と向き合おうとする苦労の中に埋もれている、と気付いている」

成功者はその栄光が語られがちですが、その裏には多くの苦難を乗り越えたストーリーがあるものです。どうして苦痛に耐えられるのか。それは、彼らが自らの選択や決断によって人生を築いていると自覚し、自分の人生に責任を持って生きているから。

読書障害を乗り越え成功者となったシスコ・システムズCEOのジョン・チェンバースやヴァージン航空CEOのリチャード・ブランソンなどを例に挙げて、弱点と向き合い受け入れる苦痛の中から成功への道が開かれることを示しています。

日本人はとかく自分の弱点に蓋をし、見ないふりをしてしまうことが多く、弱点を受け入れることがうまいとは言えません。しかし、それを乗り越えたところに成功があるのなら、弱点を受け入れる価値はあるはずです。

「自分にとっての生きがいとは何か」

あなただったら何と答えるでしょうか。本書は「今それがある人は実にラッキー。それがない人も、生きがいを見つけられるまで果敢に挑戦を繰り返すことが幸運への早道なのだ」と読者に訴えかけているようです。生きがいを見つけるには、自分を見つめ、全てを受け入れること。この本は、自分の追求したい仕事や人生がどのようなものなのかを見つめ直す良い機会を与えてくれると思います。

私は、パブリック・リレーションズを通して少しでも「より良い社会を築く」という目標を掲げてこれまで生きてきました。35年のキャリアの中で他の職業選択のチャンスも多くありました。しかしどうしてもこの道に戻ってしまいます。

多様なクライアントと企業トップの意識を共有して問題解決を試みる過程は、まるで様々な役柄を演じる役者のようです。実務家として様々な角度から世の中をより良い方向に変えていけることへの可能性に、大きなと刺激と喜びを感じているからかもしれません。

今年の4月、弓削島に住む私の叔父が96歳の誕生日を迎える前に他界しました。入院する直前まで、一人で自炊し、自転車で島中を駆け巡り、日経新聞に目を通し、毎日日記を書くほど元気快活に生きていた叔父。

叔父は私が島に帰るといつも励ましの言葉をかけてくれました。そんな叔父の姿が見られないのはとても寂しいことでした。

どこまでも澄み渡る青い空の下、92歳の叔母と別れを惜しみ、今年も私の弓削島での夏が終わりました。

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2007年08月03日

映画『ヒロシマナガサキ』が私たちに語りかけるもの

毎年8月、この時期になると必ず、日本が経験した歴史的な日が訪れます。それは、広島・長崎原爆投下の日、そして終戦記念日。広島と長崎では、あのピカッという一瞬の光から発された放射線で約60万人が被爆しました。その85%は一般市民でした。

普通の人々が犠牲になった原爆。人の命を通して「原爆とは何か」を語りたい。日系3世の映画監督、スティーヴン・オカザキは25年間の構想を経てこの惨劇をドキュメンタリー映画として制作しました。『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki)は、14人の被爆者と原爆投下に関与した4人のアメリカ人の生の声を通して、そこで何が起こったか、今でも何が起きているのかを浮き彫りにしています。

■10人の若者全員が45年8月6日を知らなかった
監督のスティーヴン・オカザキは1952年生まれ。カリフォルニア州で育った彼が原爆に関心を抱いたのは81年、サンフランシスコで被爆者に直接会ったのがきっかけ。 その後、英訳『はだしのゲン』(中沢啓治著)を読み衝撃を受け、広島、長崎の原爆投下についての関心を深めていきます。

91年には『待ちわびる日々』でアカデミー賞ドキュメンタリー短編賞を受賞。95年には全米国内での猛反発により中止されたスミソニアン博物館での原爆展に伴う映画製作が中止に。その後も彼は精力的にドキュメンタリーを制作。2005年には今回の『ヒロシマナガサキ』の序章ともいえる中編『マッシュルームクラブ』でアカデミー賞にノミネートされました。

「被爆者の話す言葉にこそ、真実がある」と考えたオカザキ監督。戦後60年、被爆した生存者たちが高齢となりその数が減っていく中、日本で500人以上の人に会い、取材を重ねました。原爆投下の政治的、学術的解釈をあえてそぎ落とし、彼らが体験した事実を通して語られる言葉には静かで強烈なメッセージが込められています。

私自身、小学校1年の夏から2年の夏までの1年間を広島市の爆心地近くに住んだ経験を持っています。原爆投下から6?7年経っていましたが、クラスメートにケロイドの傷跡を残した人が何人もいたのを覚えています。映画の中で、生存者の残した絵や当時の記録フィルムを見ていると、いつも笑顔だったクラスメートの苦悩が浮かび上がってくるようで、とても他人事とは思えませんでした。

愕然としたのは最初のシーン。監督が渋谷の街を歩く若者に1945年8月6日に何が起きたかを質問する場面です。 10人のインタビューの中で、一人もその質問に答えられる若者はいませんでした。歴史の風化をいきなり突きつけられました。

■体の傷と心の傷、両方の傷を背負いながら生きている
この映画には私が見たこともない衝撃的な映像もありました。

これまで日本政府は、太平洋戦争についての検証と総括を、国際社会の理解を得るかたちで十分に行なってきたとはいえません。また無差別爆撃となった原爆投下による被害実態を外国の指導者やその国民に伝える努力も怠ってきたといえます。

諸外国との対話(双方向性コミュニケーション)を通して、「原爆がいかに人間の生命や人生をも破壊してしまう凄しいもの」なのかに対する、アピール努力が不足していたことは否定できるのもではありません。このようなパブリック・リレーションズ不在により、国際社会から日本の被爆の実態が理解されずに今日に至っているともいえます。

映画の中で「その気になったら、知識と金さえあれば誰でも造るだろう」と原爆開発に携わった一人の米科学者の口から発せられた言葉は、世界の行く末を暗示しているようでした。

現在、世界では広島に投下された原子爆弾の40万個に相当する核兵器が存在していると言われています。原爆の真実を世界に伝えていくことは、唯一の被爆国である日本が人類の未来に対して負っている重大な責任だと思うのです。

『ヒロシマナガサキ』は被爆60周年の05年、アメリカHBOドキュメンタリーフィルムの依頼で製作が開始されました。HBOは、4000万人以上の加入者を持つ米国大手の有料ケーブルテレビ。この映画はヒロシマの原爆投下日にあたる今年の8月6日、全米でテレビ放映され、その後約1カ月間リピート放送される予定です。HBOによりDVDの販売もされています。

日本でも7月下旬から東京・岩波ホールや大阪・テアトル梅田など、全国で順次公開されています。

抑制の効いた作品に仕上げた、スティーヴン・オカザキはサンフランシスコで被爆者に会うまで、いまなおその後遺症に苦しむ人々が存在することへの認識はなかったといいます。

1945年8月のあの日、人生が一変してしまった被爆者たちにとって戦後はまだ終わっていません。

「体の傷と、心の傷、両方の傷を背負いながら生きている。苦しみはもう私たちで十分です、と言いたいですね」と、一人の被爆者の最後の言葉は全てを語っていました。

戦争で命を落とした犠牲者の魂が永遠に安らかでありますように。

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2007年07月20日

魂に触れるハワイアン

海の日は毎年恒例のナレオパーティ。新高輪プリンスホテル「飛天」の間の螺旋スロープを下りればそこは別世界。今年、第11回目を迎えるこのハワイアン・パーティに約700人のお客さまをお迎えし、華やかにその幕が開けられました。


■ 癒しの空間、ナレオパーティ
私のバンド「ナレオウェイブ」の出演は序盤の2番手。今回は“Twilight in Hawaii”、“Wave”、“My Little Glass Shack in Kealakekuai, Hawaii”、“Sweet Someone”を演奏しました。

3曲目では、私の教え子である政経学部4年生の森田江美さんも所属する早稲田大学ハワイ民族舞踊研究会によるフラダンスとのコラボが実現。27人のフラガールが、しなやかで躍動感あふれる踊りを披露しました。1年ほど前からプロの先生による指導を得た成果もあり、その急成長ぶりに感嘆。

昨年上映された映画『フラガール』の影響で、ハワイアン・ミュージックやフラダンスが再びブームを呼んでいます。今回のパーティに参加してくれた私の教え子や新社会人の方々も癒しの音楽ハワイアンをとても気に入ってくれた様子。

癒しのハワイアンといって私の頭に浮かぶのはケアリイ・レイシェル(Keali’i Reichel)。沖縄のグループBEGINの「涙そうそう」のカバー曲で、日本でも最近注目されるようになった世界的なアーティストです。

■ 魂の歌 ケアリイ・レイシェル
マウイ島出身のケアリイは、17歳からチャント(詠唱)を独学で学び、19才で自身のフラ団体(halau)を結成。ハワイの伝統と文化をしっかり押さえた彼の歌声は、ハワイの自然のように美しく澄みわたり、様々なメッセージを私たちの心に刻みます。

1995年リリースの彼のデビューアルバム、“Kawaipunahele”は当時全米ヒットチャートのトップにいたマドンナを抜いて第1位を獲得し、ハワイアンとして空前の大ヒットを記録。2006年には来日し東京国際フォーラムで東京フィルハーモニー交響楽団とのコラボレーションを実現しています。

ケアリイとの出会いはいまから4?5年前。 ナレオの先輩から頂いたオムニバスCDに収録されていました。あいにく参加アーティストのカードを紛失してしまい、彼が誰であるのか、また曲名すら判りませんでした。ただその伸びのある声と穏やかで美しい旋律が気に入り、車のBGMとして楽しんでいました。


こうして数年が経過。昨年ホノルルに立ち寄った際、地元のタクシードライバーにこのアーティストのイメージを伝えると、「それはケアリイ・レイシェルに違いない」とのこと。私は即座に地元のレコードショップで彼のCDを10枚ほど購入したのです。

帰国後、購入したCDを5?6枚探したところでギブアップ。10枚ものCDが私の車のトランクで半年眠ることとなりました。今春、自宅のCDを整理していると、オムニバスCDのカードがひょっこり出てきました。そのカードから、その曲がケアリイの“Meke A Ka Pu'uuwai”であると判明。早速CDを探索すると2005年リリースの“Keali'i Reichel Collection One KAMAHIWA”に同曲が納められていました。まるで顔を知らないペンフレンドと初めて会ったような感動的な出会いでした。

全体をグリーンのトーンで精緻に仕上げられたこのアルバムは、過去の彼のアルバムから選曲したCD2枚組のベスト・コンピレーション。彼の母に捧げられた歌で始まるこのアルバムでは、トラディショナル・ハワイアンからポップスのカバー曲までケアリイの幅広いサウンドを堪能できます。

私の一番のお気に入りは、あの何年もかかって捜した“Mele A Ka Pu'uwai”。敬愛する師への贈り物として書かれたこの歌には、師への深い愛情と師の導きに対する感謝の気持ちが込められています。

1枚目の4曲目にあるノリのいい“Ipo Lei Momi”には、話題のウクレレ・アーティスト、ジェイク・シマブクロが参加。次の5曲目には沖縄ソング「涙そうそう」のカバー曲“Ka Nohona Pili Kai”が収められています。どの曲も魂に語りかけるように奏でられ、乾いたアコースティック・ギターの音とケアリイの声に、心がスーッと洗われていくようです。


癒しの空間、ナレオパーティの会場には、拙著『パブリック・リレーションズ』の出版責任者であった日本評論社の守屋さんも駆けつけてくれました。今回、同社より小林正巳著『ウクレレ快読本』(2007年、日本評論社)が出版されました。同書は、ウクレレの奏法だけでなくウクレレの歴史や奏者の横顔などを詳細に紹介。練習用CD付きのこの本は、ジェイク・シマブクロも推薦。


今年は早稲田大学創立125周年の年。大きな節目の年に行われたナレオパーティも無事に幕を閉じました。去年はバンドのメンバーの八木潔さんが急逝しました。今年は彼の娘さん、春日さんが私たちと彼との思い出の曲“Wave”(ボサノバ)をステージでシェアしてくれました。この曲では生前の彼の電気ウクレレ・ソロはスチールギター担当の北原忠一さんが弾きました。娘さんの唄は私たちの想いとともに天国の八木さんの魂に届いたでしょうか….。

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2007年07月06日

私の心に残る本 8 加藤仁の『社長の椅子が泣いている』

ホンダとヤマハ。戦後の高度成長期に世界的に成長した2つの企業において、1970年代に兄弟揃って実力で経営トップに就任した河島喜好さん(ホンダ2代目社長)とその弟、博さん。弟の河島博さんが亡くなって3ヶ月がたちました。

今から1年ほど前、彼の半生を描いた長編、『社長の椅子が泣いている』(2006 講談社)が出版されました。河島博さんは強烈な個性をもつ2人の経営者の下でその類まれな経営手腕を発揮したビジネスマン。戦後の高度成長からバブル崩壊へと激しく変化する時代を駆け抜けた偉大なテクノクラートでした。

その波乱万丈たる人生を描いたのは、サラリーマンの定年後の生きざまを描く作家として知られるノンフィクション作家の加藤仁。

■その誠実を貫いた人生
この本は彼が初めて書き下ろした長編。彼の緻密な取材と巧みな人間描写により、作品からは、時代に翻弄されながらも誠実に生き抜いた一人の経営者の悲哀が伝わってきます。

河島さんは戦後まもなくヤマハ(日本楽器製造)に入社し、ビジネスマンとして頭角を現しました。米国の現地法人に派遣された際は、6年半で売り上げを9倍に拡張。帰国後、46歳の若さで本社社長に抜擢。就任後3年で過去最高の経常利益を達成しながらも当時会長であった川上源一によるワンマン体制の下、世襲問題という日本の古い経営体質の闇が彼を直撃。河島さんは、社長解任の役員会決議による突然の社長更迭という悲劇に見舞われました。

しかし相手の度重なる理不尽な対応にも、河島さんは一切マスメディアに口を開くことはありませんでした。それには兄である喜好氏の「沈黙は金」とのアドバイスもあったといいます。激しい動揺と落胆を自らの胸の内に秘めて、沈黙の姿勢を貫き続けたその姿からは河島さんの苦悩がにじみ出ています。

1960年代から80年代にかけて、彼の鋭敏なビジネスセンスによって経営トップへの階段を上る場面では、その時代背景が細かく描かれ、日本企業が高度成長期と共に世界で躍進する姿が生き生きと描かれています。
 
河島さんはその後、ダイエーの中内功氏に請われ同社の副社長に就任。財務状況が悪化していたダイエーを奇跡のV字改革に導き、倒産したリッカーの再建も成し遂げました。しかし、中内社長のワンマン体制の下で世襲問題が浮上。任期満了の退社といえども、河島さんは悲劇の再来を避けるように自らダイエーを後にして彼のビジネス人生に幕を下ろします。

■ドラマよりもドラマチック
河島さんは、企業を取り巻くパブリック全体を視野に入れながら経営状況を把握し戦略構築することに長けた人でした。パブリック・リレーションズにも理解を示し、当時からアメリカ的な合理性と戦略性のあるグローバルな企業経営を展開した数少ない経営者でした。

著者の加藤氏がこだわったのは「河島氏の仕事をきっちり描くこと」。加藤氏は3年近くかけて100人以上の関係者に会い、事実確認をベースに丁寧な取材を行っています。

その上で加藤氏は本書のあとがきに「(河島氏は)会社のあるべき姿について、横並びの発想をするのではなく、もがき、のたうちまわり、手探りながら、河島氏の独自性ある構想を打ち出そうとしていた」「戦後の企業社会から生まれた最良のサラリーマン経営者の一人であることは疑いない」と記しています。

本書では河島さんが経験した悲劇だけでなく、河島さんのビジネスマンとしての才覚や真摯な仕事ぶりなどが精緻に描き出されています。戦後日本が奇跡的な復興と経済成長を遂げていくなか、時代を生きた一人の経営者の記録として、また企業を取り巻く人間模様を描いたドラマとしても十分に楽しめる良書です。

全身全霊で理想の経営を考え、やるべき仕事に情熱をもって取り組んだ河島博さん。河島さんを語るとき、その悲劇的なビジネス人生に焦点が当てられがちです。しかしヤマハ社長を辞任してからの河島さんと身近に接することができた私にとって、スピードと躍動感溢れる彼の卓越した経営感覚と時代を超越した経営手法は実に輝きを放っていました。

500ページに及ぶ本書は、経営書よりも経営を物語り、ドラマよりもドラマチックに読者を魅了します。

この7月から新たに社長の椅子に座った人も多くいます。こうした人たちにも一読をお薦めします。

この本を通して、河島さんが私たちに残してくれたその真摯な生きざまに触れていただければ嬉しく思います。

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2007年06月22日

私の心に残る本 7
 晴佐久昌英の「恵みのとき 病気になったら」

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

私は、先週から今週にかけての1週間を病院のベッドの上で過ごしました。
検査入院のつもりが、過労のため体調不良を起こしているとわかり、安静を確保するための30年ぶりの入院となりました。

6月17日の日曜日は父の日。息子が私を見舞いに訪れ、一冊の本をプレゼントしてくれました。

本のタイトルは『恵みのとき 病気になったら』(2005年、サンマーク出版)。
この本には、大腿骨腫瘍切除という大きな病を経験した著者の晴佐久昌英さんが一晩で書き上げた一編の詩「病気になったら」とその詩作の背景を語った「泣いてもいいよ」が収められています。今回は「私の心に残る本 7」に、この晴佐久昌英さんの本をご紹介します。

プレゼントの包みをほどくと、その表紙には、白い雲が浮かび小鳥が舞う緑の丘の上を歩く少年の姿が描かれていました。80ページほどの小さな本ですが、カラフルでふんわりとした絵が印象的で、さっそく本を開いてみました。


■ありのままの自分を受け入れる

最初に目に飛び込んできた言葉は、
「病気になったらどんどん泣こう.......
またとないチャンスをもらったのだ
じぶんの弱さをそのまま受け入れるチャンスを」

そこには、ありのままの自分を受け入れれば、自分の中から愛や喜びが自然に溢れ始めるという作者からの強いメッセージがありました。

作者の晴佐久昌英さんは1957年、東京に生まれました。その後上智大学を卒業し、87年、司祭に叙階。 現在、カトリック高円寺教会の司祭を務めています。

彼がこの詩を書くきっかけとなったのは、大腿骨の腫瘍切除という自ら患った病でした。入院していた時に感じた様々な想いを一篇の詩に託したのです。この詩が、ある機関誌に掲載されたのを契機に「病を肯定的に捉えることで心が癒され、安らぎを取り戻した」と各方面から大きな反響を呼びました。やがて、病と闘う人、患者を看病する人、医師や看護士といった病院関係者など、人から人へと伝えられ、全国に広がっていきました。

2003年、彼はこの詩も収録された自身の詩集『だいじょうぶだよ』(女子パウロ会)を出版。それが編集者の目に留まり、この詩だけを載せた本の出版企画が持ち上がり、この本が誕生したのです。

挿絵を描いたのは、森雅之さん。1957年、北海道に生まれ、76年、雑誌「漫波」のなかの『写真物語』でデビュー。96年には『ペッパーミント物語』で第25回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞しています。

その特徴は、柔らかなタッチと豊かな色づかい。少年と少女のキャラクターを使った彼の絵は、まるで晴佐久さんのシンプルな言葉を軽やかなメロディーで包み込むようにぴったりとマッチし、読者の心に深く染み込んできます。


■「病のときは恵みのとき」

「病気になったら 心ゆくまで感動しよう………
忘れていた感謝のこころを取り戻し
この瞬間自分が存在している神秘
見過ごしていた当たり前のことに感動しよう」

これは、この星に生まれた喜びをできるだけ多くの人と分かち合いたいと強く願う著者が、喜びの源は感謝や感動にあると語りかける言葉です。

人はひとりで生きてはいけません。この世に存在する万物との関わりの中で生きています。個人、そして組織体はそれを取り巻く環境(パブリック)との絶え間ないリレーションズ(関係構築)の上に成り立っているのです。全てを受け入れ、自分を取り巻くあらゆる関わりに思いを馳せ、素直に感謝し感動する。この気持ちを大切にして人とつながれば、その人たちとの関係性は必ずや良好なものになるはずです。

作者は最後にこんな言葉を読者に送っています。
「病気は闇の体験ではなく、光の体験だと。涙は敗北ではなく勝利なのだと。どんなにつらい病気になったとしても、人は生まれてきてよかったのだと。『病のときは恵みのとき』」

先日、無事退院しました。ひとりの空間で過ごした時間はとても貴重でした。

ステキな父の日のプレゼント、ありがとう。

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2007年05月26日

私の心に残る本 その6
橋本明の『美智子さまの恋文』

天皇陛下にあてて皇后さまがお書きになったとされる2通の手紙。この手紙を通して皇城の時の移ろいが記された著書『美智子さまの恋文』。昭和の世紀から平成にかけた皇室の変貌を、民間初の皇妃となった女性の心中を軸に描かれ、天皇のご学友が見た宮中裏面史ともいうべき内容です。

著者は、共同通信社記者として活躍し、学習院初等科から今上天皇のクラスメートとして交遊を深め、現在も親しい関係にある橋本明さん。2007年3月20日の発売から1か月少しで第5版を数えるなどベストセラー本になっています。今回のこのシリーズでは、私の友人でもある橋本明さんの『美智子さまの恋文』(新潮社)をお届けします。

■ 手紙を通して描かれる決意と懊悩
皇后美智子さまがご成婚前と、皇太子さまをご懐妊中に天皇陛下に出された2通の手紙。これらの手紙の公開は今回が初めて。ここには皇后陛下の静かで深い決意と揺れるお気持ちが、みずみずしいまで美しい日本語で語られています。

橋本明さんは、1940年に学習院初等科入学から1956年、学習院大学政経学部政治学科を卒業するまでご学友として天皇陛下と共に長い時間を過しました。橋本龍太郎さんは、父方の従弟でした。大学卒業後は共同通信社に入社し、ジュネーブ支局長、国際局次長を歴任。現在は、企業の顧問などを務めながらフリージャーナリストとして著書出版・講演活動を行っています。

収録された手紙の一つは、皇后さまがご成婚前の59年3月ごろに書かれたもの。 初めて民間から皇室に入る皇后さまの静かで固い決意が滲む一方、「殿下のお望みに沿いつつ、皇室の中に波紋をたてぬために、私はどうしたら良いのでございましょう」や「“伝統と進歩”というむずかしい課題の前で、いつも私は引き止められ立ち止まって考えてしまいます」とそのひたむきさと懊悩が伝わってきます。

もう1通は、皇太子殿下をご懐妊中の60年1月に書かれた手紙。「私はさしあたって赤ちゃんのことが心がかりでなりません。 手元で育てさせていただくとすれば、それはもう皇后さまのお時代と違う形をとることになってしまいますし…」と出産前の揺れるお気持ちを吐露される一方、「私自身は、心のどこかで、犠牲という言葉は、むしろある意味において幸福につながるニュアンスを持つのではないかと考えてまいりました」と深い省察が綴られています。

■この手紙が明らかにされた背景
この手紙を写した文書(200字詰め原稿用紙62枚)を橋本さんが入手したのは73年のこと。 女性週刊誌に「皇城の人びと」を連載していた作家の北條誠さんが、天皇陛下のご学友でジャーナリストの橋本さんに、本人所有の「美智子さまの手紙」と称する文書の写しを委ねたのがきっかけ。

北条さんは橋本さんに、この手紙の写しは、本物であるか確認できません。将来この写しが本物であるかどうかはあなたにしか証明できないでしょう。どうぞ活用してください、と手紙の写しを橋本さんに託したようです。

その後この手紙は、30年以上も橋本さんの自宅の箪笥にしまわれていました。今回橋本さんは「美智子さまの手紙」を現在の皇室の原点がうかがえる文書として世の中に出す必要性を感じ、手紙公開に踏み切ったといいます。その確認には3ヶ月を要したようです。最終的に御所から、これこそ本物と返事があり出版が実現したのです。

橋本さんが強い思いで取り組んだこの本からは、天皇陛下とご学友でなければ知りえない皇城の中の様子が垣間見られると共に、橋本さんの天皇家に対する深い畏敬の念が感じられます。そして皇室事情に明るい橋本さんが、2通の手紙をもとに戦後の昭和から平成にかけての天皇家の歴史、日本の時代の移り変わりを物語っています。

私が橋本さんと初めてお会いしたのは、ジャパン・バッシングが激しかった80年代後半。私が日本パブリックリレーションズ協会の国際委員長をつとめていた頃のことです。橋本さんも同じ委員会の仲間で、一緒にお仕事をさせて頂きました。以来公私にわたりお付き合いさせていただいています。

橋本さんは多感で多彩な人。何事にも愛でる気持ちを大切にしています。音楽や文化交流にも積極的で、東京室内合唱団団長をつとめたり、私も理事をしている北東亜細亜研究院の理事長(ソウル)。そして日韓談話室の代表世話人など、その活動は多方面にわたっています。

このブログのために、橋本さんは執筆にあたっての自分の熱い思いを語ってくれました。

「戦後の皇室史は日本の近代史そのもので重要な部分。いまの天皇が戦後どのようにたどってきたのか、空白の近代史を読者に伝えたかった」。また、次の時代を担う後輩ジャーナリストに対しては「皇室を理解するための手引書として読んでもらいたい」。最後に橋本さんは、「結婚という最大の出来事を通して、現在の皇太子ご夫妻に問いかけをしたかった」と語りました。

ジャーナリストとしての鋭い視点と自由奔放に生きてきた橋本さんらしい率直な語り口と趣ある豊かな日本語。橋本さんの美しく伝統的で切れ味のいい文章は十分満喫できるものでした。

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2007年04月20日

私の心に残る本 その5 ジャン・ジオノの『木を植えた男』

地球規模の自然環境破壊による深刻な問題が噴出するいま、私たちにとって環境保全の重要性は容易に理解できます。しかし今から半世紀も前に、自然の大切さを理解し、中でも人間の営みで不可欠な森林をテーマとした作品があります。
     
それはジャン・ジオノの『木を植えた男』。1987年、アカデミー映画賞でカナダの著名な映像作家フレデリック・バックがてがけたアニメーション映画『木を植えた男』が短編映画賞を獲得。その映像のすばらしさで話題になりました。私はつい先日、その書籍版に出会いました。

今回は、わたしの心に残る本 その5として『木を植えた男』の書籍版(1992、フレデリック・バック絵 寺岡 襄訳、あすなろ書房)をご紹介します。

■ たった一人で世界を変える
舞台はフランスの山岳地帯。たった一人で強風吹き荒れる土地で黙々とどんぐりを植え続け、香り豊かな風そよぐ森林を甦らせた男がいました。これは、30年間にわたり、荒地に木を植え続けた男に出会ったある若者の目を通して、その男の軌跡と森が再生していく姿を美しく繊細に描いた物語です。

この作品の著者ジャン・ジオノ(Jean Giono,1895-1970)は、1895年フランスのプロヴァンス地方、マノスクに生まれました。16歳で国立割引銀行マノスク支店に就職。1914年、第一次世界大戦に出征した後、29年に発表した処女小説『丘』がアンドレ・ジイドに認められたのを機に作家活動を開始。代表作には『世界の歌』『喜びは永遠に残る』などがあります。

この作品「木を植えた男」は、はじめに53年、「リーダーズ・ダイジェスト」誌から「これまでに出会った最も偉大な人物」の執筆依頼を受けて書かれましたが、フィクションであったことから同誌には掲載されませんでした。しかし翌年米ヴォーグ誌が英語版「木を植えた男」を掲載。ジオノの斬新な考えはたちまち世界を魅了しました。今では少なくとも12ヶ国語に翻訳されています。

彼が生涯を過ごしたプロヴァンス地方は、アルプス山脈から冷たい北風が吹きおろす、厳しい気候の土地。 自然の中で育ったジオノは、若い頃から自然とのふれあい、樹木の重要性を理解していました。本作品は、彼が幼少のころ父親と一緒にどんぐりの木を植えた体験をもとに書かれたと言われています。

■ 強い信念、深い理解そして勇気
たった一人で偉大な変化をもたれせた要因は3つ。強い信念と行動。土地と樹木に対する深い理解。絶望に立ち向かう勇気。

妻と子供を失った孤独なブフィエが抱いた強い思い。それは荒涼とした不毛の土地に樹木という伴侶を育てたいという思いでした。土地と樹木を知り尽くしていた彼は、人生という限られた時間の中で、彼の思いを成就させるためにこの地に生命という種を植え付けることを決心します。

1年かけて植えた楓(かえで)の木が全滅したとき、ブフィエは絶望の淵に立ちながらも夢を捨てませんでした。彼はそれでも毎日丁寧に種を植え続け、30年という年月を通して不毛の地を幸いの地へと再生させていったのです。

地球規模の自然環境破壊による深刻な問題が噴出するいま、この作品が放つメッセージは私たちの心に強く訴えかけます。

ジオノは、その生涯に30冊以上の小説、エッセイ、映画シナリオ等を手がけました。彼は、自然の大切さ、心の豊かさをテーマにする作品を多く残し、1970年、マノスクでこの世を去りました。

この本を読むうちに私のなかにあることが想起されました。殆んど知られていない話ですが、何年か前、フジモリ元ペルー大統領が東京滞在中に私に語ってくれたことがありました。農業の専門家であった彼が大統領在任中、ペルー全土に100万本の植樹を行なった話です。かっての農業工学者としての熱い情熱と信念が、テロや経済恐慌と戦っていた最中でも途切れることなく生きつづけていたことに感動したときのことでした。

この本と別に、同じあすなろ書房から絵本としても出版されています。またパイオニアLDCから『「木を植えた男」他/フレデリック・バック作品集』DVD版が発売されています。本書と合わせてご覧になってみてはいかがでしょうか。

この本は、一人の男が起こした奇跡を目の当たりにして、人間の信念と崇高さに深い感動を与えるとともに、自分の夢に向かって一歩踏み出す勇気をも与えてくれます。

私は常日頃、一人の人間の持つ力と影響力の大きさについて考え、パブリック・リレーションズに携わるPRパーソンに求められる個の強化を訴えています。この本は、ひとりの人間の不屈の精神と魂の偉大さを私たちに語りかけています。

「たった一人の男が、その肉体と精神をぎりぎりに切りつめ、荒れ果てた地を、カナンの地(幸いの地)としてよみがえらせたことを思うとき、わたしはやはり、人間のすばらしさをたたえずにはいられない」

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2007年03月09日

映画『ボビー』
ロバート・F・ケネディ、混沌のなかで希望を与えた一人の男

こんにちわ、井之上喬です。皆さんいかがお過ごしですか?

“ボビー”の愛称で米国民に愛されたロバート・F・ケネディ(1925-1968)。私は先日、映画『ボビー』を観に映画館へ足を運びました。『ボビー』は1968年6月5日、アメリカ最後の希望といわれた男ロバート・F・ケネディ司法長官が凶弾に倒れるまでの一日を、彼に希望を託した22人の人生を通して描いた作品です。

■対立が衝突を生んだ60年代
ボビーは、アイルランド系移民4世。成功した実業家でアイルランド系カトリックの指導者でもあるジョセフ・P・ケネディ(Joseph P. Kennedy, Sr.)の7人目の子供です。48年にハーバード大学卒業後、ヴァージニア大学ロー・スクールで学位を取得。60年兄ジョン・F・ケネディ(1917-1963)の第35代米大統領就任に伴い司法長官に就任。キューバへのソ連のミサイル配備に対し、米国が海上封鎖で応じたキューバ危機では、その決着に大きく貢献したとされています。

60年代の米国は、対外的にはキューバ危機やベトナム戦争など共産圏との対立を軸に混迷を極めた時期。また国内では公民権運動が活発化し、人種差別や性差別など多くの軋轢に苦しんだ時代でした。加えて、兄のジョン、マルコムX(1925-1965)、マーティン・ルーサー・キングJr.(1929-1968)と、次世代を担うべきリーダーが次々に暗殺され、国民に大きな悲しみと喪失感をもたらしました。

そんな中の68年3月17日、ロバート・F・ケネディは暗殺された兄ジョン・F・ケネディの遺志を継ぎ、非暴力を掲げて米国大統領選に出馬を決意します。

ケネディ大統領暗殺の翌年64年、ニューヨーク州上院議員に当選。続いて68年、ボビーは民主党から次期大統領選へ立候補しました。彼はリベラルな理想主義を貫きベトナム戦争からの離脱を選挙公約に掲げ、民主党の予備選挙へ臨みます。

68年6月5日、ボビーはカリフォルニア州の予備選に勝利。運命の地となる、ロサンゼルスの「アンバサダー・ホテル」で勝利演説を行い、そこに集った人々から大絶賛を浴びました。しかし彼はその直後、同ホテルの調理場を抜けて帰る途中、パレスチナ人の若者に至近距離から狙撃されてしまうのです。一度は救急車で病院に収容されますが、翌日、42歳でその短すぎる生涯を閉じました。

■「私たちは、皆、幸せを希求する同胞である」
映画『ボビー』は、暗殺事件の現場となった「アンバサダー・ホテル」を舞台に、そこに居合わせた22人の日常生活や心の葛藤を描いたドラマ。22ものキャラクターが交錯し、複雑な部分もあります。しかしクライマックスで、全ての登場人物が、ボビーの死の場面に関係していることを知り、その死がアメリカに何をもたらしたのか気付かせてくれます。アメリカは、彼の死と共に「未来への希望の光」を失ったのです。

脚本と監督はエミリオ・エステベス。彼は『地獄の黙示録』で有名な俳優マーティン・シーンを父に、チャーリー・シーンを弟にもつ俳優一家の出身。エステベスは83年の『アウトサイダー』や85年の『セントエルモスファイアー』で俳優として頭角を現しました。その後彼は、脚本、監督、制作の世界に進出し、数々の作品を手がけています。

眼を見張るのは、その豪華な俳優陣。『羊たちの沈黙』のアンソニー・ホプキンスやデミ・ムーアはこの作品のテーマに即座に賛同し、低い出演料で契約したといいます。他にもシャロン・ストーン、イライジャ・ウッドやリンジー・ローハンなどベテランや今をときめく若手俳優が数多く出演。これらの豪華キャストは、当時の混迷する米国の社会背景と二重写しの現在の米国社会の「紛争解決への模索」が彼らの自らの出演を促した結果といえなくはありません。

当ブログで2月にご紹介したボビーの息子、ロバート・ケネディJr。私は98年、彼が「日米アースアクセス委員会1998第一回環境セッション」出席のために来日した際、コミティ・メンバーの一人としてお世話する機会を得ました。

滞在中、父の日本での足跡を確かめるように、父ロバートの講演した早稲田大学を訪問したり、ケネディの影響を受け政治の世界に入った小渕恵三(当時外務大臣)元首相と面会するなど、父親と見間違えるほどの風貌で知的かつ精力的に振舞っていました。父親からは、その風貌だけではなく、社会奉仕を重んずる精神も受け継いだようです。


写真:外務省に、小渕恵三外務大臣(当時)を訪ねて。ロバート・F・ケネディJrと夫人のメアリー・リチャードソン。左端は筆者。


父と同じくハーバード大学を卒業した、弁護士でもある彼は、環境保護運動の指導者としてハドソン川の環境保全で活躍。その後も大学で教鞭をとる傍ら、様々な市民運動に参加しています。

ベトナム反戦運動の高まりの中で、国内外で衝突が繰り返された60年代。当時の世相は、イラク侵攻問題で迷走する現在の米国の状況と酷似しています。今年2月10日、民主党のバラク・オバマ上院議員が、2008年次期米大統領選へ出馬表明しました。彼が出馬表明演説で、アメリカは様々な違いをのり超えてアメリカ合衆国であると語った姿は、リーダー不在の米国で、対立を批判し、心を一つに和解を求めたボビーの姿と重なり、とても印象的でした。

インターメディエーターとして当事者の間に立ち、根気強く対話を促し、相互理解を醸成することは、パブリック・リレーションズの実務家に課せられた役割です。この映画を観て、対話を通した平和的解決手法が世界的に求められていること実感すると共に、私たち実務家が果たすべき責務の大きさを痛感しました。

映画の最後、ボビーとその周辺の人々が狙撃を受けたシーンのバックに流れたボビーのスピーチが、いまでも私の耳に残っています。それは彼の死の2ヶ月前、68年4月5日にボビーがクリーブランド(オハイオ州)で行った演説です。
 
「アブラハム・リンカーンがいうように、自由な国では、不満を武力に訴えても成功しません。そのような手段はやがて大義を失いつけが回ってきます。....中略 ....(幸せを希求する)共通の絆によって、私たちは、皆、同胞であることに気付きます。私たちは、自らの傷を癒し、もう一度、真の兄弟になるための努力を始めることができるのです。」
(“On the Mindless Menace of Violence”より抜粋 井之上喬訳)

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2007年01月06日

映画『硫黄島からの手紙』
?私たちへのメッセージ

新年あけましておめでとうございます。井之上喬です。
皆さんはどのようなお正月を過ごされましたか。


1945年2月19日から36日間にわたり繰り広げられた米軍上陸による日米最後の攻防戦、硫黄島の戦い。この攻防戦をクリント・イーストウッドが監督し日米の双方の視点で2部作の映画として描いた『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』。昨年暮れに、これらの作品を観る機会を得ましたが、とりわけ『硫黄島からの手紙』は観客を圧倒しました。

この作品では、超大な米軍の戦力を前に知略で迎え撃った日本軍指揮官、栗林忠道を中心に、36日間耐え忍んで戦い抜いた男たちが個性豊かに描かれています。

■戦争には勝者も敗者もない
米国やカナダに在住経験を持ち、西洋を理解していた栗林忠道。彼は米軍上陸の際、水際での応戦に重点を置く作戦本部の戦略を翻し、地中に18キロにも及ぶトンネル、数多くの洞窟を掘り持久戦で応戦。5日で陥落すると思われた硫黄島を36日間も持ちこたえさせます。双方で5万人近い死傷者を出し、結果として太平洋戦争後期の島嶼防衛戦で、アメリカ軍の死傷者が日本軍の死傷者を上回った唯一の戦場となったのです。

ここで一貫して描かれているのは、戦争の悲惨さです。戦地で戦う兵士たちには勝者も敗者もなく、双方共に傷ついていきます。戦士であると同時に一人の人間である兵士の尊い命がいとも簡単に失われていく姿をみていると、いかなる大義のもとであっても、戦争は非情かつ許されざる行為であるという強い思いがこみ上げてきます。

第2次世界大戦における日本人の死者は300万人を超えました。世界で唯一の被爆国ともなった日本。戦後日本は平和主義を貫いてきました。しかし戦争終結から61年たった現在でも、世界の至る所で民族間や国家間の紛争が起こっています。核保有国はいまや8カ国を数え、北朝鮮の核実験やイランにおける核疑惑の問題をみても、世界が危険水域にあることは明らかです。

■双方向の理解が全てを解決
争いは、互いの不信感や恐れから起こります。相手を知り、互いを理解し合うことによって信頼関係は醸成されます。そうすることによって、問題が起きた際、武器による解決をはかることなく、平和的手段に訴えることが可能となるのではないでしょうか。

一昨年12月、パブリック・リレーションズのシンポジウム参加のためイランをはじめて訪問しました。開催直前、アハマディネジャド大統領による二度目のイスラエルへの問題発言が大きく報道されるなかで緊張感を抱きながら現地入りしました。

しかしテヘランで私が目にしたものは想像を裏切る、オープンでフレンドリー、そして好奇心に溢れる個性豊かな現地の人々の姿でした。まだ共産主義国家であったソ連時代の1990年、モスクワを初めて訪問したときの人々のなかにも大きな違いは見出せませんでした。これらの体験は、相手を知ることの重要性を教えてくれました。相手を知り互いに深く理解し合えば、力による解決は無用なものとなるはずです。そしてそれを可能にする技法がパブリック・リレーションズであるといえます。

目的達成のために、パブリック(社会あるいはターゲットされた個人や集団)と良好な関係性を構築・維持するパブリック・リレーションズは、双方向のコミュニケーション活動を通してメッセージの発信をおこない受信者であるパブリックに影響を与える仕事です。ですからパブリック・リレーションズの実務家は、情報発信者と情報受容者、双方の間に立つインター・メディエータとして、双方向のコミュニケーションを通して、できる限り良好な関係性の実現に努めなければなりません。

平和であることは社会の持続的発展の大前提です。この大前提を実現するために、私たちパブリック・リレーションズの実務家には何ができるのか、課せられた責務を常に考え努力を重ねていかなければなりません。

いま世界は先が見通せない混迷の中にあります。『硫黄島からの手紙』は、そんな現在の世界に向けた強烈なメッセージを私たちに送っています。

2007年が皆さんにとって意味を持つ輝かしい年となりますよう。


*AP通信カメラマンのジョー・ローゼンタール(Joe Rosenthal)により擂鉢山の頂上で撮影された「硫黄島の星条旗:Raising the Flag on Iwojima」は、1945年度のピューリッツァー賞 写真部門を受賞。彼の直筆サイン付き写真は、東京有楽町にある日本外国特派員協会(FCCJ)のフロントの壁に掛かっている。

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2006年07月21日

早稲田大学「ナレオ・ハワイアンズ」創設60周年。

■癒しの音楽、ハワイアン
太平洋に浮かぶハワイの島々。青い海に囲まれた南国の島で生まれた音楽、ハワイアン・ミュージックは癒しの音楽として多くの人々を魅了してきました。私もその一人です。瀬戸内海に浮かぶ弓削島で毎年、幼少時代の夏を過ごした私にとって、開放的でスピリチュアルなハワイアンに惹かれたのはとても自然なことでした。

高校時代にハワイアンに初めて出会い、その後早稲田大学の音楽サークル、「ナレオ・ハワイアンズ」で卒業まで音楽三昧の学生生活を送った私にナレオとナレオの持つ空間は心を安らげてくれるオアシスでした。

先日、7月17日の海の日に、そのナレオのOB組織である「早稲田大学ナレオ稲門会」主催のディナー・ショーが新高輪プリンスホテル「飛天の間」で開かれました。年に一度、約700人が参加するこの「ナレオ・パーティ」は、今年で10回目。チケットは毎年発売直後には完売。

今年は「早稲田大学ナレオ・ハワイアンズ」創設60周年を記念して、特別ゲストに菅原洋一さん、高木ブーさん、日野照子さんたちをお迎えし、ステージは一段と華やいだものとなりました。現役の1バンドを加えた7バンドが出演。私達のバンド「ナレオ・ウエーブ」もトロピカル・ムードあふれる大空間で久しぶりにステージに立ちました。

ハワイアン音楽は、古くは地元の人々が土地に宿る魂からのメッセージや王様からの言葉を歌に乗せていたものです。こうした音楽とウクレレ、ギター、パーカッションなどが融合したのが、現在のハワイアンです。そのため、マウナロア、アカカ・フォールズ、ラハイナ・ルナ、スウィート・レイラニ、カイマナ・ヒラなどハワイにある様々な地名を含んだ歌が多いのも特徴です。

いま、ハワイアンといえば、ハワイアン・ネイティブのグループによる作曲が主流で、歌詞もハワイ語でハワイの歴史や文化を感じさせるものに人気があります。私たちが大学生の頃、一世を風靡したのは40・50年代にアメリカ本土から移り住んだ白人のミュージシャンにより作られたハワイアンでした。その頃の楽曲はJAZZのコード進行をとり、リズミカルでロマンティックな香りのする愛の歌が主流で、コーラスも古くは、オーソドックススタイルの「ハワイ・コールズ」や、60年代に開花したモダン・ハーモニー(1度、3度、5度の単純なハーモニーではない、複雑系)の「インヴィテーションズ」、「アリーズ」などでした。

また手指の動きでハワイアンの歌詞を表現しながらハワイアン・ミュージックに乗せて踊るフラダンスも、ハワイアンには欠かせないものです。今年は、早稲田大学ハワイ民族舞踊研究会の学生たちが一年間で習得したとは思えない素晴らしいフラを披露してくれました。

■あるバンド仲間との別れ
私たちのバンド(ナレオ・ウエーブ)は、モダン・ハワイアンで、前述の「インヴィテーションズ」と呼ばれるコーラス・グループのスタイルで楽曲を演奏しました。
編成は、スチール・ギター(北原忠一)、ドラムス(中原勉)、ベース&ヴォーカル(長谷川侃志)、ギター&ヴォーカル(三浦孝之)、キーボード&ヴォーカル(榎本隆)とビブラホン&ヴォーカル(井之上喬)の6人編成です。これに元フジテレビのアナウンサーで司会の松倉悦郎が加わります。

今年の編成は昨年より一人減りました。40年来のバンド仲間であった、ギタリストの八木潔さんが、このパーティーが開かれるちょうど3週間前の月曜日、1年半に及ぶ闘病の末に癌でこの世を去ったのです。今年の舞台は私たちにとっては、亡くなった八木さんへの追悼コンサートとなりました。会場に駆けつけてくれた3人のお嬢さんを前にして、全国へ仲間と演奏旅行をした楽しかった40年前の日々を想いおこしながら、メンバー全員がステージで彼と最後のお別れをしたのでした。

八木さん、長い間私達と一緒にありがとう。青春時代をともに過ごしたことや卒業後一緒にバンド活動をしてきたことなどが走馬灯のように頭をよぎります。

あなたの魂があなたの愛したハワイの空にいつまでもありますように…。


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本書が日経ビジネス(2006年6月19日号)の書評欄で紹介されました!


『パブリック・リレーションズ?最短距離で目標を達成する戦略広報』
(日本評論社、税込2520円)好評発売中!


「人」「モノ」「金」「情報」のすべてを統合する「第5の経営資源」

これまで長年にわたって誤解されてきた「PR」を「パブリック・リレーションズ」として正しく捉えなおすことにより、パブリック・リレーションズの本質とダイナミズムを分かりやすく解説している。広報の実務に携わる人はもちろん、経営者から学生まで幅広い人たちが戦略的広報を理解することのできる待望の入門書。


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2006年01月20日

「ディーガン」との出会い

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

今日は少しリラックスした趣味の話しをしたいと思います。

皆さんはディーガンという楽器名を聞いたことがありますか?「ディーガン(Deagan)」は世界の名器といわれるヴァイブラフォン(ヴァイブ:ビブラホンともいう)のブランドです。ディーガンを製造するJC. Deagan社は、John Calhoun Deagan(1851?1934)によって1880年にシカゴで設立され、1978年までヴァイブ、マリンバ、チャイム、グロッケンなどの打楽器メーカーとして世界にその名を馳せた会社です。

私は2000年10月、米国PR協会(PRSA)と国際PR協会(IPRA)共催のワールド・コングレスに出席するためにシカゴを訪れました。シカゴ訪問のもう一つの目的は学生時代から憧れていたディーガンを購入することにありました。現在はもう製造されていないディーガンを、訪米前に偶然中古のインターネット・サイトでみつけたのを機に買いに行くことにしたのです。

コングレスの後にレンタカーで3時間かけシカゴ郊外の指定された場所を目指しました。道に迷いながらやっと目的地に着くと、なんと目の前には “Deagan Tower”の看板をビル屋上に掲げた赤レンガ造りの建物が立っていました。1920年代、シカゴのアルカポネの時代を彷彿とさせるデザインの小さな3階建ての建物は、外壁もボロボロでまるで小さな廃屋のようでした。

ビルの脇の雑草が茂る駐車場に車を止めて正面玄関の前に立つと、入り口は朽ちたシャッターが降りていて、半分開いた脇の木戸を開け恐る恐る中に入ってみると、一階は真っ暗。かすかに差し込む外光を手がかりに薄暗い狭い石段を登り2階までたどりつくと、突き当たりに小さなオフィスがありました。

にこやかに出てきたこのビルの住人(?)はDeagan専門の修理屋さんで、ディーガンが事業をたたんだ後、30年近くにわたって世界中のDeaganユーザーのために修理専門のサービスを提供している50代後半のおじさんでした。40年ほど前に南米から移住してDeagan社に入社したその主人は、名門Deagan社の閉鎖後もその場所に残り、いまなお世界中で使用している愛好者が困らないように修理業を始める決心をしたそうです。

その主人の案内で、がらんとした高い天井の土間が広がる部屋に入りました。そこには補修を終えて商品展示されているDeaganや新品のMusser(ムッサー:別の米国ブランド)などのヴァイブが無秩序に置かれていました。埃にまみれたうす汚れた壁には往年のミルト・ジャクソンの大きな白黒の写真パネルが昔のままの状態で掛けられていました。往時の栄光の時代に想いを馳せながら、目指すヴァイブの前に立ったとき、タイム・スリップしたような、言葉には表せない気持ちと共に体が震えてきました。

学生時代ハワイアンバンドでヴァイブを演奏していた私にとって、音色の全く違う黄金色をしたディーガンは、時々番組出演で訪問したNHKやTBSなどの放送局でしか使われていない崇高な楽器でした。当時(60年代)のプロのヴァイブ奏者でも殆んどはSaitoやKossといった国産のヴァイブを使い、高価なディーガンはまさに手の届かない名器だったのです。

ディーガンのヴァイブを楽器として世に広めたのはライオネル・ハンプトン(1908?2002)でした。10代でドラム奏者としてデビューしたハンプトンはルイ・アームストロングのアドバイスによってヴァイブ奏者に転向し、30年代に入りベニー・グッドマンやルイ・アームストロングと共にスイング・ジャズ全盛のアメリカで活躍しました。

その後、世界の新しいジャズ・シーンを切り拓いたモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)のミルト・ジャクソン(1923?99)がヴァイブ奏者としての地位を不動のものにしました。ライオネル・ハンプトンのヴァイブはどちらかというと野生的。それに対してミルト・ジャクソンのヴァイブの響きは軽妙にして知的で繊細。私が師と崇めるミルト・ジャクソンは、バラードでもブルースでも自在にその技を披露する誰もがあこがれるヴァイブ奏者でした。今も、ミルト・ジャクソンのヴァイブの音色は色あせることなく恒久の輝きを放っています。しかしあの繊細なタッチと芳醇な音も、この名器なしには生まれなかったことでしょう。

そんなことを考えながら、その場で目に入った一台のオーバーホールされたDeaganに目がとまりました。裏に製造番号の入った1925年製のその楽器は、鍵盤やパイプに使われていた金属素材が現在のヴァイブと比べ異なり、重量があり、マレット(先端に細い毛糸を丸く巻き上げたスティック棒)で鍵盤を叩くと音の深さや艶が往年のプレーヤーのレコードで聞く音そのものでした。

その楽器を選ぶのにそれほど時間はかかりませんでした。25年製Deaganを注文した後、主人から幸運にも当時(1920年代)の貴重なカタログをいただくことができました。ページをめくると、所々に紹介される専属アーテイストたちの写真はまるで音を奏でているようで、そこにアル・カポネ時代の華やいだシカゴを見出すことができました。

ディーガン社は1978年にチャイム(ベル)とグロッケン事業をヤマハに売却し親子三代にわたった栄光のときをきざみ終えたのです。

その晩はベッドの上で、いろいろなことを考えました。その日体験したことや学生時代の演奏旅行のこと、75年もの間いろいろな人の手に渡りさまざまな人生を眺めてきたであろう私の新しい楽器“Deagan”のこと。多くのことに想いを馳せ、心が躍り、興奮で眠れないほどの一夜を過ごしました。

パブリック・リレーションズの仕事はある意味ではタフで、ときにはストレスがたまる仕事です。誰にでもストレス解消法がありますが、私にとって、親しい仲間とヴァイブ演奏をするときは間違いなく、至福のときなのです。

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