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2015年03月12日

『きずなづくり大賞2014』から
〜「家族」と「地域」と「仲間」のつながりの大切さ

こんにちは、井之上 喬です。

この原稿をしたためている今日は奇しくも3月11日。

東日本大震災から4年の歳月が経とうとしています。災害という厳しく辛い経験の中から私たちが学んだのは、『家族』、『地域』、『仲間』というつながりの大切さでした。」ときずなづくり大賞2014の入選集巻頭で社会福祉法人東京都社会福祉協議会の古川貞二郎会長(元内閣官房副長官)は、述べています。

ちなみに古川さんについては、この3月1日から日本経済新聞(朝刊)の人気コラム「私の履歴書」で連載されています。

今年8回を数える「きずなづくり大賞」には、家族や地域の多様なつながりを表現した作品が数多く集まり、市民同士が工夫しながら支えあっている素晴らしい実践が紹介されています。

東京都社会福祉協議会が主催する恒例のエッセイ・コンテストの第8回表彰式が2月26日、京王プラザホテル43階「ムーンライト」を会場に催されました。私も「きずなづくり大賞」運営委員会の委員として出席し、入賞者の方々と歓談し、楽しい時間を過ごしました。

今回は、入賞11作品の中でも私の心に強く残った2つの作品について紹介したいと思います。

■「あさやけ子ども食堂」
先ずは、満場一致で東京都知事賞に輝いた山田和夫さん(東京都豊島区)の「あさやけ子ども食堂」です。

五年ほど前に奥様が亡くなり、同じ頃サラリーマンを定年退職。さらに原発事故の影響で息子夫婦が関西に移住し、一人暮らしのどん底ともいうべき日々を過ごしていた山田さん。

そんなある日、大田区で「子どものための食堂」をやっていると教えてくれた方がいて、山田さんはさっそく見学に行きました。子どもたちが集まって、美味しそうにご飯を食べて、そこには一家団簗の暖かさがあり楽しそうでした。

その時、同じことを自分の家を開放して出来ないだろうかと山田さんは思いついたようです。

それからの山田さんの準備は大変でしたが、とうとう2013年の春に「要町あさやけ子ども食堂」をオープン。長い夜が終わって、もうじき夜明け、でも今はまだあさやけの時。そんな気分で名前をつけたそうです。

「子ども食堂」は、子どもだけでも入れる食堂と銘打って、一食300円で夕食を提供。食堂には、親の帰りが遅く夕食を一人だけで食べていた子や、不登校だった子、赤ちゃん連れのシングルマザーなどが立ち寄ります。

みんなで同じご飯を一緒に食べる。食べた後は、幼児から高校生の年代の子までが、一緒になって遊びます。子どもたちはすぐに仲良くなるのです。お料理は、調理を担当してくれるスタッフに加え、ボランティアをしたいという方が次々と来られ、学生さんからお年寄りまで老若男女が入りまじり、わいわいみんなで作ります。

現在、開店から一年半ほどになり、素敵なことがたくさん起こっていると山田さんはいいます。誰がどうしたというわけではなく、子ども食堂という「場のちから」によるものだと考えているようです。

山田さんの子供食堂は、これまで朝日新聞やNHKでも大きく取り上げられていますが、こうした動きが全国的な展開になることを期待したいと思います。

■「きずなづくり」は、リレーションシップ・マネジメント
2つ目の作品は東京都社会福祉協議会会長賞の小池常雄さん(東京都町田市)の「エミおばあちゃんのほほえみに?畑がつなぐ地域と命のきずな」です。

「私が生きているあいだだけだよ...。それでもいいかい?」...と、エミおばあちゃん(仮名)が微笑みながらいう。この言葉が、私の週末を、農業生活に変えてしまったと小池さんはいいます。

おばあちゃんはもう80代半ばで耳は遠く、腰は曲がって随分小さくなった。けれど元気に、自宅の裏畑を毎日のように耕しています。近くに住む小池さんは、この畑の一部を無償でお借りして、子供たちと作物づくりをすることになりました。

夏から秋にかけては、サッマイモを主として、エダマメ、ラッカセイ、ヤーコン、トマト、キュウリ、ウリ、サヤインゲン、カボチャ、ワタ、ソバなど。冬から春にかけては、ダイコン、ユカブ、サヤエンドウ、ソラマメを育てたといいます。

作物を育て、子供たちに収穫させるまでには面白いドラマが沢山生まれます。イモ畑に潜んでいたネズミが飛び出して子供たちが大騒ぎする事件やカボチャ畑に謎の巨大ウリ出現事件などなど。

毎日食べている食材がどうやって作られるのか、どうした苦労や手間がかかるのか。スーパーで買い物していては、決してわからないことが経験をとおして子供たちに伝授されるのです。

地域の子どもや大人たちが農業を通して作物を育て収穫する喜びに触れながら、人や自然とのつながりを回復していくという取り組みは、読むにしたがって心がだんだんと温まってくる作品でした。

そのほか、過疎化の進む地域で、伝統的な食文化を活かしビジネスを始めた高齢者の方々の取り組みを描く「落人味噌出来ました」(運営委員会委員長賞)は大変ほほえましく、元気をいただきました。
 
また、知的障害のある人たちと高齢者施設の方々との歌を通した交流を描く「歌で心を一つに」(東京新聞賞)にも心を惹かれました。社会から疎外されている障害者が高齢者施設を訪問することで、自分たちも役に立っていることを自覚していく話です。

大病を患った経験から、患者さんやその家族の孤独に気づき、インターネットで支えあえるシステムをつくる元コンサル会社の方や、アウトドアでの結婚式をいろいろな方たちと一緒に企画するといった新しい時代のつながりを感じさせてくれる「絆インフラ作り」(東京都社会福祉協議会会長賞)も素晴らしい作品でした。

これまでこのブログを通して、「パブリック・リレーションズ(PR)は、主体(企業・組織・個人)を取り巻くさまざまなステークホルダー(パブリック)との間のリレーションシップ・マネジメント」であると紹介してきました。

「きずなづくり大賞」の入賞作品のそれぞれに「家族」と「地域」、あるいは「仲間」とのリレーションシップ・マネジメントを構築していくための示唆が沢山認められます。

投稿者 Inoue: 21:06 | トラックバック

2013年11月14日

「植田正治」生誕100周年の記念写真展
?親子で創り上げた植田正治の世界

皆さんこんにちは井之上 喬です。冷え込みが急に厳しくなりましたが、元気にお過ごしでしょうか。

今回は日本を代表する世界的な写真家、植田正治(1913-2000年)さんのお話です。

植田さんは今年、生誕100周年。100周年を記念する写真展「植田正治のつくりかた」が新装なった東京駅にある、東京ステーションギャラリーで開催されています。

植田さんは、生地(鳥取県境港市)を離れず、山陰地方を生涯の拠点として独特な演出写真で絶大な人気を誇る写真家。日本だけでなく海外においてもその演出写真は「植田調」として知られ、写真誕生の地であるフランスでも日本語表記そのままに「Ueda-cho」として紹介されているほどです。

今回の写真展「植田正治のつくりかた」では、一連のユニークな作品が生まれた背景、手法や作品の変化を通して砂丘の写真家という固定されたイメージを払拭し、親しげな印象の反面で一筋縄ではいかないこの写真家を見直す、といった意図があるようです。会場では、代表作約150作品を展示。開催は来年1月5日まで。

■植田正治さんと植田充さん
植田正治さんを語るとき、息子の植田充さんを語らずにはいられません。

私と植田正治さんとの出会いは、植田さんの息子で不世出のアートディレクター、植田充(1940-2003年)さんとの縁によるものでした。父の死後、後を追うように亡くなった息子の充さんと私は、充さんが亡くなる2003年まで、30年に及ぶ親交がありました。

植田充さんは、国内はもとより日・米アートディレクターズクラブ主催による日本グラフィック展(於ニューヨーク)で、それまで日本人が受賞できなかったゴールドメダルやシルバーメダルを数回にわたって受賞した実績のある方でした。

また、彼はファッションデザイナーとして著名な菊地武夫さんのブランド(MEN'S BIGIやTAKEO KIKUCHI)のアートディレクターとして、ファッション界で名を馳せていました。

植田正治さんをファッション写真分野に引きずり込んだのは息子の充さんでした。最初の作品も、充さんがディレクションをとり、鳥取砂丘を巨大なホリゾントに見立てて制作した菊地武夫さんのコレクション・カタログでした。その成果は『TAKEO KIKUCHI AUTUMN AND WINTER COLLECTION83-84』にまとめられ、植田正治さんはADC写真家賞を、充さんはディレクター賞を受賞することになります。

これを契機に、植田正治さんは80年代後半以降、充さんのディレクションでファッションブランドやファッション誌のグラビア撮影に精力的に取り組んでいくことになりますが、写真展ではこうした時期の作品にも会うことができます。

私の会社(井之上パブリックリレーションズ)では、私が日本楽器製造(現ヤマハ)の仕事をしていた駆け出しの頃、さまざまなポスターやパンフレット、そして当時ヤマハが開催し、吉田拓郎、井上陽水、中嶋みゆきなどを輩出した「ポプコン」のシンボル・マークなどのデザインを充さんにお願いしていました。その後の半導体、パーソナルコンピュータなどのハイ・テクノロジー分野のカタログ、パンフレットや広告デザインなども充さんが手掛けたものです。

1984年に世界同時発表されたマッキントッシュのポスターや広告デザインを日本で最初に手掛けたのは、実は植田充さんでした。私の会社には、IBM東京基礎研究所ガイド(IBM宣伝広告賞最優秀賞受賞)やシチズン、シーラスロジックの会社案内など充さんのこだわりの作品が多数残されています。

これは、ある企業の創業10周年を記念した短編映画製作プロジェクトでシナリオ、監督、俳優を公募した際の息子の充さんが制作したポスターです。

植田正治さんの作品の中でも私が特に好きな写真のひとつ、「パパとママとコドモたち」(1949年)を使わせていただきました。

最初にこの写真に接したとき、私の中に戦慄が走りました。それは戦後間もない貧しい時期、粗末な小道具で撮られた写真であるにもかかわらず、時代を超越した、「普遍性とみずみずしさ」を感じたからです。

ちなみに家族全員がモデルとなったこの写真の、右端のお母さんの左隣でピストルを構えているのが、幼少時代の充さん。

植田正治さんの写真を使い、充さんがデザインしたこのポスターは、なんと贅沢なことでしょうか。

■相反する二重性の魅力
植田正治さんの写真の魅力について古谷利裕さん(画家、批評家)は、東京新聞(11月1日朝刊7面)の美術評で「植田正治さんは写真というメカニズムそのものに興味を持ち、撮影と同じくらい暗室作業を重視したという。それは、垂直と水平、日常とその切断・再構成とを同じくらい重視したということでもあろう。」

「そして、植田の作品が一方で山陰の風土や自らの家族という身近なモチーフを好み、しかし他方で、砂丘のような抽象的な空間や演出による人工的な操作という自然な文脈の切断を好んだという二重性とも深く関係するだろう。現実の家族に架空の家族を演じさせるという不思議な二重性。この点に植田の写真の魅力がある。」と述べています。

植田正治さんとは息子の充さんを通じて何回かお目にかかる機会がありました。この偉大なるアマチュア写真家は、いつも謙虚で親しみやすく、温かさが感じられました。こうした植田さんの人格そのものが作品に反映され、私にとって作品の魅力にもなっています。

私はこれまで、植田正治さんの写真を展示作品として、写真集のなかで、そして伯耆大山の中腹に開館(1995年)した植田正治写真美術館の収蔵室でも見てきました。誰よりも多く植田さんの作品に接してきたと自負していました。

しかし、今回の150に及ぶ作品の中では、カラー作品など初めて見る写真も多く、これから先も未知の作品を沢山楽しめるのではないかと思い、嬉しくなりました。

「植田調」の演出写真といえば、モノクロかモノトーンをイメージしますが、現在確認されている最も古いカラー作品は1955年以降とされているそうです。

1981年に植田さんは、淡く甘美なソフトフォーカスによるカラー写真集「白い風」を発表しています。その中から3点の写真が展示されていますが、30年以上も前に撮影されたにも関わらず、その映像には新鮮な試みさえ感じることができます。

私の人生に豊かな彩りを加えていただいた植田正治さんと植田充さん。この親子と出会えたことに改めて深く感謝したいと思います。皆さん、お時間があるときにでも是非一度東京ステーションギャラリーへお立ち寄りください。


追記:
植田正治さんの生誕100周年を記念する写真展は、故郷の鳥取県境港市で「植田正治と境港」(11月25日まで)が、植田正治写真美術館では、パリと山陰でそれぞれ同時代に活躍した写真家ロベール・ドアノー(1912-94年)さんと植田正治さんの作品を紹介する企画展が催されています(11月30日まで)。また東京では「植田正治とジャック=アンリ・ラルティーグ 写真であそぶ」が東京都写真美術館で11月23日-2014年1月26日の間、催されます。

投稿者 Inoue: 13:08 | トラックバック

2012年04月09日

家族力大賞 ’11〜作品にみるリレーションシップ・マネジメントの原型

家族力大賞 ’11



こんにちは、井之上喬です。

このブログが皆さんに届く頃には東京では桜が満開になっていることと思います。

社会福祉法人の東京都社会福祉協議会(古川貞二郎会長:元内閣官房副長官)が主催する今年で5回目の「家族力大賞 ’11」(エッセイ・コンテスト)の贈賞式が先月21日、京王プラザホテル43階「ムーンライト」で催されました。

この家族力大賞 ’11では、「家族や地域の『きずな』強めよう」をテーマに自分の身のまわりでおこった体験談を募集し、応募数は震災の影響か前年に比べ大きく減ったもののいずれも秀作で、53の応募作品の中から15作品が入賞。

作品の多くは、家族力大賞がテーマとしている「きずな」の大切さや人の善意の輪が年々広がりを示している中で、作品の質も年々向上しており喜ばしいことです。

私はこの家族力大賞のコンテストに2007年度の第1回目から運営委員としてずっと関わってきており、毎年、「心が洗われる」思わぬ秀作に出会えることからいつも楽しみにしています。
そして毎年贈賞式で作者の出会えるのを心から楽しみにしています。
今回は、15作品の中でも私の心に強く残った2つの作品を中心に紹介したいと思います。

■「みんなの実家@町屋」
先ずは、最優秀賞(東京都知事賞)に輝いた藤田房江さん(荒川区)の「大きな家族みたい!みんなの実家」。

このエッセイは、昨年の残暑厳しい9月初旬の出来事で、「事故です!今救急車で運ばれたので、すぐこちらに来てください!」から始まります。

救急車で運ばれた高齢者のC子さんは、ボランティア団体が運営する荒川区の子育て交流サロン「みんなの実家@町屋」に1階の空き部屋を貸す家主さん。

「みんなの実家@町屋」のスタッフが入口の鍵を開けようとしたらドアチェーンかかっていて扉が開かず、雨戸も閉まったままで電話にも応答しない不審な状態。何とか解錠してC子さんの居る2階に駆け上ってみると、そこに意識朦朧としたC子さんを発見。

すぐに救急車を呼び、病院へ。熱中症とはいえ今夜が山場という重態でしたが、翌日には意識を取り戻し、「おなかがすいた!」と笑いがでるほど、元気を取り戻しました。

通常なら高齢者の孤独死に繋がっていたかもしれない事態でした。C子さんとは、ご主人を亡くしてさびしい一人暮らしをしていたころあることがきっかけに自宅を提供し、「みんなの実家@町屋」の家主となったのでした。

スタッフをはじめ、育児に悩みサロンを訪れる若い親子との付き合いも拡がっていきます。そうした関係があったからこそC子さんは救われたのでした。

立派な施設でなくてもどこかホッとできる、知り合いができる、みんなで助け合える、そんなボランティア活動の拠点が、荒川区に限らず求められています。

このところ連日のように高齢者の孤独死がニュースで取りあげられる度に、家族や地域社会とのつながりの薄さが指摘されます。このC子さん事件は、「みんなの実家」のような場所が、地域の一人暮らしの高齢者のためにも、有効に機能することを教えてくれたのでした。

■家族新聞『五條ファミリー』
もう一つは、佳作(運営委員会委員長賞)を受賞した五條彰久さん(大田区)の「家族新聞の発行」です。

作者(五條さん)のお母さんの存命中は、兄弟夫婦(12人)をはじめ子供夫婦(23人)、そして18人のお孫さんを含め計53人が、お母さんの介護を通して大世帯としての絆が強固に保たれていたといいます。

ところがお母さんが96歳で亡くなってみると、時間の経過とともに孫の成長や消息が分からなくなってきます。そこで70歳から独学でパソコンを覚えた作者は「家族新聞」を編集、発行することを決意します。

その家族新聞のタイトルは『五條ファミリー』(A4判カラーで2?4ページの月刊紙)と名づけられました。

この『五條ファミリー』を通して大世帯間の情報交換や親睦を深めるうちに、作者の二女が中心となって「いとこ会」が結成され、密度の濃い絆が拡がっていきます。
「親族の絆を深くすることは、こどもや孫が成長し、他人との絆を深くする原動力になるものと信じている。」と作者はこのエッセイを締めくっています。

私は、この家族新聞『五條ファミリー』を是非読んでみたいという欲求にかられて、作者の五條彰久さんに送付をお願いしました。No.5となる2007年2月号にはすでに他界された作者のご両親をはじめ実に53人の方の名簿「五條ファミリー生年月日表」が掲載されていました。

53人の内訳は成人が35人で20歳未満が18人。面白いことに53人の年齢を合計した総年齢が「1958」と表示されていました。

この『五條ファミリー』は、親戚縁者を対象としたインターナル・コミュニケーションのツール、企業でいえば社内報に当たるものですが、対外的にみると五條ブランドのPR誌ともいえるものではないでしょうか。

昨年のブログにも記したことですが、パブリック・リレーションズ(PR)は「絆(きずな)」づくり。それは目標達成のために、様々な相手と良好な関係構築づくりを行うリレーションシップ・マネジメントに通じます。

「家族力大賞 ’11」のどの受賞作にも、密度の濃い双方向性コミュニケーションやリレーションシップ・マネジメントの原型ともいえる関係性が認められます。

今日ご紹介した2つのつながりの話しは、「地域の試み」と「家族同士の試み」で、その手法は斬新でユニーク。

紹介した2作品以外にも心打たれる秀作が沢山ありました。今後このブログで、「家族力大賞 ’11」の受賞作についてパブリック・リレーションズ(PR)の視点から紹介していきたいと思っています。


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投稿者 Inoue: 10:32

2011年12月26日

ナレオ三田義昭さんの想い出
?クリスマスに、その生と死

皆さんこんにちは井之上喬です。

先週から今週にかけて街はクリスマスでにぎわいました。イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスでは、2000年以上にわたってキリスト教徒だけではなく世界の多くの人たちがこのスーパースターの誕生を祝います。

ちなみに日本ではクリスマスは12月25日のキリスト降誕の日で終わると考えられていますが、日本以外の多くの国では12月25日に始まり1月初旬のキリストが始めて公の場に姿を現した「主の公現」(移動主日なので今回は1月8日)までの期間を「降誕節」として祝っています。

今日は先日亡くなった、私の学生時代の先輩でもある一人のキリスト者のお話をしたいと思います。その人の名前は三田義昭さん。三田さんのその生と死について皆さんと共に考えたいと思います。

余命あと1?2ヶ月といわれ、成人T細胞性白血病(ATL)を1年半近く生きた三田義昭さん。私は三田さんのような死を恐れず、最後まで自然体で生き抜いた人を他に知りません。

三田さんは昨年9月に恒例のナレオ稲門会主催のハワイツアーの滞在先で体調不良を訴え、帰国後の10月はじめ医師の診断で突然自分の病を知り、「余命1?2ヶ月」と宣告されます。

■学生時代はナレオで活躍
三田さんは、私が学生時代に所属していたハワイアンバンドの「早稲田大学ナレオハワイアンズ」(以下ナレオ)の先輩で、私が大学1年のときのレギュラー・バンドのスチール・ギター奏者でした。

1942年7月13日旧満州の奉天で生まれた三田さんは、終戦とともに日本に引き上げ、静岡県の三島市で高校まで過ごしました。

卒業後上京し早稲田大学に入学。当時学生バンドとして一世を風靡していたナレオに入部し4年生のときにスチール・ギターでレギュラー・ポジションを獲得します。

三田さんとの想い出は尽きることがありません。学生時代からよき先輩として、おおらかで後輩の話をよく聞き、面倒見のいい人でした。また卒業後、後に社長を務める旅行会社ジャパングレーラインに就職してからも我々現役バンドのためにテレビやラジオ出演のチャンスを作ってくれたり、その後もナレオOB会や稲門会の行事などの世話人としてもよく面倒を見てくれました。

人間関係を大切にした三田さんからは早稲田大学の政治経済学部の同級生で親友の中西啓介(故人:元防衛庁長官)さんを紹介され、中西さんが困ったときの相談相手役を危機管理を扱う私に持ちかけるなど、いつも人のために役立つことを喜びとする人でした。

三田さんは、パブリック・リレーションズ(PR)の良き理解者でもありました。私の会社(井之上PR)が国際的な賞を受賞したときなども、まるで我がことのように喜んでくれました。

三田さんの急性白血病は、母親の母乳からウイルス感染する原因不明の難病。発症率は3?5%といわれ一度発症すると、骨髄移植が難しい高齢者にはほとんど死を意味する病気とされています。

■再び信仰に戻り
癌の宣告を受けた当初は病院に入院するものの数週間もしないうちに自らの意思で抗癌治療を止め、その後転院した東大医科学研究所付属病院(白金)での通院による自宅療養の道を選びます。

翌11月にはナレオOB会主催で「三田義昭君を励ます会」が多数の仲間の出席のもと都内で開かれました。そのときに「自分の命はあと1?2ヶ月」と告白。何も知らされないで出席した人たちを仰天させます。

挨拶に立った三田さんは、これまでの自分がいかに多くの仲間の友情に支えられてきたか、自身の人生について語ったのです。そしてこれから迎えるであろう「死」について、自分がいかにその恐怖から解放された状態にいるかを語ります。周りの人たちがしんみりする中で、本人はまるで会のホストのように明るく振舞うのでした(写真)。  

「三田義昭君を励ます会」でのツー・ショット。写真右が三田さん。
同、前列左から北原忠一、松倉悦郎、梶原しげる 後列は他に榎本隆、三浦孝之の各氏 

出席者と共に、持ち込まれた楽器でジャズを歌い、外見からは判らないほど元気な姿を見せてくれたのでした。

三田さんがこのような心境になったのには理由がありました。

医師から死の宣告を受けた夜、三田さんは自宅で睡眠誘導剤を飲んでも眠れなかったといいます。しかしあることで吹っ切れたといいます。それは「神にすべてを委ねる」ことでした。そう心に決めたときから死に対する恐怖がなくなったと話すのでした。

自宅療養中は家にじっとすることなく連日東京の友人と会ったり、遠い地方の友人に会いに出かけたり、周囲が驚くほど最後までいつもと変わらない三田さんの姿がありました。

やがて新年を迎えますが、不思議なことに病院の検査の数値が正常値に戻り医師を驚かせます。奇跡的な回復を示したのです。

音楽をこよなく愛した三田さんとの最後のジャムセッションは、東日本大震災の直前に新宿「J」で開催された、我々昭和43年卒業組のライブセッション

お祝いに駆けつけてくれた三田さん。彼が大好きなジャズの名曲「オール・オブ・ミー:All of Me」を彼の歌と一緒に演奏したのが最後の競演になりました(写真)。

写真

 新宿「J」でのセッション:左から三田義昭さん(Vocal)、鈴木良雄君(Bass)、筆者(Vibraphone)

今年の7月の恒例のナレオパーティ(新高輪プリンスホテル)にも元気な姿で参加していましたが、発病後から1年たった今年の9月に体調を崩し3ヶ月間白金の病院に再入院。

本人の希望で自宅療養に戻ったものの症状は芳しくなく、退院3日後の12月9日に病院に担ぎ込まれそこで息を引き取り、69年の生涯を閉じました。

三田さんがカトリック信者であることを知ったのは、私が1985年にカトリックの受洗をしたときです。三田さんは、「実は僕もカトリックだよ」とはじめて明かしてくれました。

「あまり真面目な信者ではないけどね」と笑いながら語りかけてくれたことが昨日のようです。

長い間、信仰から遠ざかっていた三田さんは死の宣告を受け再び教会に行くようになりました。

このブログで三田義昭さんの死についてお話したかったのは、イエス・キリストが生まれたクリスマスに人間の生と死について一緒に考えてみたかったからです。

ペテロ三田義昭さんは亡くなり帰天しました。人間は死んだらそれで終りと考えがちですが、キリストの世界ではそこから本当の命、つまり永遠の命に入ります。

キリストがこの世に来た日をクリスマスとしてお祝いするのは、私たちが永遠の命に生きるため。

三田さんには残された京子夫人、立派に成人した長女の甘奈さん、長男大介君そしてお孫さんがいます。三田さんはその死によって、本当の命、永遠の命の中に生きていくことでしょう。

最後に、三田さんの告別式が行われたカトリック本所教会の葬儀ミサで、司祭が話した聖書のことばが私の心に響きます。

「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、
死ねば、豊かな実を結ぶ。自分の命を大切にするものはそれを失い、この世で
自分の命を顧みない者は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ福音書12章23?25節)

三田さん、メリー・クリスマス! これまで長い間ありがとうございました。
いつかまた天国でお会いしましょう。


(写真提供:上段:櫻井隆章さん 下段:秋田春日さん)


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投稿者 Inoue: 11:18 | トラックバック

2011年05月09日

「音楽長屋」の仲間と全員集合
 ?楽しかった学生時代

こんにちは、井之上喬です。

東北大震災が起きる2週間前、母校早稲田大学の軽音楽グループで活動をしていた当時の仲間たちと40数年振りに再会しました。

集まった場所は、現役時代モダンジャズ・グループでアルトサックス・プレイヤーとして名を馳せた幸田稔君が新宿で経営する、ジャズのライブハウス「J」。

昭和43年卒業生を中心に企画されたこの同窓会には、当時早稲田で活躍した軽音楽バンドのメンバー約70名が集まりました。同窓会の名前は早稲田大学「音楽長屋同窓会」。

これらの軽音楽バンドとは、早稲田大学軽音楽連盟の公認の5バンド、つまりオルケスタ・デ・タンゴワセダ、ニューオルリンズ・ジャズクラブ、モダンジャズ研究会、ハイソサエティ・オーケストラ、そして私が所属していたナレオ・ハワイアンズ(現在は“ザ・ナレオ”)。
  
これら5つのバンドの練習場所が「音楽長屋」。青春時代のすべてがそこにありました。

■音楽長屋の5つのバンド
この企画は、ニューオルリンズ・ジャズクラブでピアノをやっていた同期の平井昌美君の発案で実現したもので、彼の呼びかけに同じ長屋仲間で他の4バンドのOBも賛同。43年卒業OBを中心に開催されたのでした。

音楽長屋は、文学部キャンパス(現在の戸山キャンパス)にある記念会堂の裏手にあり、昭和26年に大学が購入した木造平屋の建物。1999年に現在の「学生会館」が建設されるまで、当時大学に公認されていた5つの音楽サークルが練習所としてこの長屋を使っていました。

写真

当時すでに古かった長屋は、なだらかな傾斜地を切り込んで南北に細長く建ち、石段を7?8歩上った入り口からまっ直ぐ廊下があり、その右側に小ぶりの練習場が2部屋、突き当たりに大部屋が1部屋ありました。入り口から、ニューオリ(以下俗称)とタンゴ、次にダンモとナレオ、奥の大部屋にはビッグバンドのハイソ。

各バンドのメンバーは授業の合間を見てはこの練習所に集まり好きなだけ練習。なかには授業に出ずこの部室と家の往復で留年した仲間も。当時の学生ミュージシャンにとってはまさに聖地でした。

演奏旅行や当時流行のダンス・パーティなどで、一緒にステージにのった仲間たち。

毎年地方の演奏旅行は、春夏合わせて40-50会場。それに大学のクラブ(サークル)の資金稼ぎのためのダンス・パーティへの出演などあわせて年に100回以上演奏活動をしていたことになります。

学生バンドがもてはやされていたこの時代は、NHKや民放のテレビやラジオに出演することもしばしば。

■鈴木チンさんと一緒にセッション
当日ハイソの同期、幹事の市浦君が準備した「音楽長屋Slide Show」を全員で楽しみ往時を懐かしみます。

せっかく集まったのだからと、それぞれのバンドが数曲ずつ演奏。最初のナレオの飛び入り若手グループの演奏に続き、ニューオルリンズ・ジャズクラブの演奏。

続いてわれわれナレオの演奏。演奏曲目は、ジャズボーカル・グループのフォー・フレッシュマンの“Day by Day”。続いて、インヴィテーションの“Kiss Me Love”。

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ナレオの演奏中に興が入りすぎたのか、飲み過ぎでステージの目の前で他のグループメンバーの一人が突如倒れ救急車で運ばれるハプニングも。しかし演奏は中止されることなく進みます。

ハイソサエティ・オーケストラに続いて、最後はモダンジャズ・グループの演奏。懐かしい面々による演奏で気分は高まっていきます。

フィナーレとして、各グループから自由参加でジャムセッション。さながら“早稲田大学音楽長屋軽音楽オールスターズ”。最初の曲の“A列車で行こう(Take A Train)”に続き、締めくくりは”All of Me”を演奏。

最後の曲ではナレオの先輩でいま癌と戦っている、三田義昭さん(40年:スチールギター)のボーカルから始まり、クラリネットでは同期でニューオリの重松英俊君、トランペットは同じくニューオリ東条一幸君、ピアノのニューオリ平井昌美君、トロンボーンはハイソ市浦靖君、そして私のビブラフォンとそれぞれアドリブ演奏。

この時のステージには同期でベース奏者として日本ジャズ界の第一人者、鈴木良雄君(チンさん)も登場。彼との競演の機会を得ました。

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チンさんは、日本にいたころは渡辺貞夫や菊池雅章のグループに参加。その後NYに渡り、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズにメンバーとして加わり、ソニー・ロリンズやチェット・ベーカー たちとも共演するなど、10数年にわたる演奏活動を終え現在日本で活躍中。

学生時代部室も同じで、当時ダンモでピアノを弾いていました。こんなことでもないと彼と一緒に演奏することはできません。至福のひと時でした。

当日は、「J」の取締役宣伝部長で後輩のタモリこと森田一義君(ダンモ:MC/トランペット)が仕事の関係で参加できず、TVでは披露することのない、取って置きのギャグを楽しめなくて残念。

この集まりには、ナレオの同期で司会をやっていた、松倉悦郎君(元フジTVアナで現在僧侶)が姫路から、ハイソの先輩の中嶋正弘さん(41年卒:トロンボーン、元シャープ&フラッツ)が岩手県の一関から、その他、三重、長野、静岡などからも仲間が駆けつけてくれました。

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職業もマスコミ業界、レコード業界、メーカー、ミュージシャン、商社マン、銀行マン、建築家、政治家、大学教師などと多彩。

私が若くしてPR会社を始め、パブリック・リレーションズの世界に飛び込むことができたのも、こんな素晴らしい仲間たちに支えられていたからかもしれません。

この会の実現に幹事として尽力してくれた、発案者の平井君と他のメンバー、タンゴの松永邦久君、ダンモの幸田稔君、ハイソの市浦靖君、ナレオの三浦孝之君に感謝します。次回また元気に会えることを楽しみに。


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2011年04月25日

家族力大賞 ’10
 ?いま求められる家族や地域との「きずな」

家族力大賞 ’10



こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

今月、第4回目となる「家族力大賞 ’10」(エッセイ・コンテスト)の贈賞式がハイアットリージェンシー東京で催されました。このエッセイ・コンテストは、社会福祉法人の東京都社会福祉協議会(古川貞二郎会長:元内閣官房副長官)が家族や地域との「きずな」をより良い社会実現のために強めていくことを目的に2007年度より実施されています。

今年度の家族力大賞のテーマは昨年と同様に、「家族や地域の『きずな』を強めよう」とし、広く体験談を募集しました。親子や祖父母とのきずな、地域の方々とのきずな、さまざまな「きずな」や「つながり」など応募作品が倍増し、作品の質も高くなっています。若い人の応募が増えたことも嬉しいことです。今回は応募作品の中からこれまで最多の16作品が入賞しました。

贈賞式開会にあたり挨拶した古川会長のスピーチは、東日本大震災復興の「絆キャンペーン」と関連づけ、また、春の甲子園大会での創志学園(岡山県)野山慎介主将の宣誓の中から「人は仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えることができると信じています」を引用し、家族力大賞がテーマとしている「きずな」の大切さや人の善意の輪の広がりに触れた心に響くものでした。

本コンテストの運営委員会(委員長:お茶の水女子大学名誉教授 袖井孝子さん)の委員のひとりとして私もこのコンテストに第1回から関わっています。今回は、16作品の中でも私の心に強く残った2つの作品を中心に紹介したいと思います。

■無縁社会と決別:地域で支えあう力
「介護保険でのケアマネージャーの仕事をしています。『夫が脳梗塞で倒れ、もうすぐ退院するんです。つかまるところがないと起き上がれないので、介護用のベッドを借りたいのですけど、どうしたらいいんでしょう?』『一人暮らしで話をする機会が無くて。デイサービスに通えますか?』など、毎日のように相談の電話が入ります」。

こうした書き出しで始まるこのエッセイは、「東京都知事賞」を受賞した菊池正行さんの作品「支えられて」です。

ある日の午後、病院の送迎バスの運転手さんから介護保険を受けさせてあげたいという患者の安藤さんを紹介されます。

作者の菊池さんは翌日、介護保険制度の説明などのため安藤さんのアパートを訪問します。朽ちているような古い建物で、名前もないアパートの共同玄関から急こう配の階段を上がった2階の一室。

「そこは、敷きっぱなしの布団と少しの衣類、冷蔵庫がやたら目につく6畳間でテレビがありませんでした。」

安藤さんは、亡くなった奥さんが病気で長い入院生活が続き、貯金を使いはたし、年金でギリギリの生活をしていたのです。

菊池さんはこうした事態に対応するため近所に住む友人を頼ることにしました。友人は仲間を集め、曜日を決めて安藤さんのために買い物を手伝うことになります。

こうした日々が続き、ある日仲間が集まった時のことです。「『誰かの為に役に立ってなんだかうれしいわ。』一人が話し始めました。

『本当。でも不思議よね、この間まで全然知らなかった人なのに、今じゃなんだか顔色が悪いわねとか、熱があるんじゃないのかしらとか、ついつい心配しちゃうのよね。』『家族じゃないのに、なんだか安藤さんてみんなの家族みたいよね。』」

ずっとこの関係が続くと思っていた頃、安藤さんの容体が急に悪化したのでした。そして入院して1ヶ月後に亡くなってしまいます。

「この安藤さんの出来事は、ケアマネージャーの私に介護保険のサービス以外に『地域の支えあう力』を教えてくれました」ということばで締めくくられています。

作者の菊池さんをはじめ安藤さんや友人、そしてその仲間との会話を中心にこの作品は構成され、その飾り気の無い自然なやりとりが、この作品の魅力となっています。

■仲良し三人家族の秘訣は
次に紹介するのは、「アラフォー」間近で会社務めをしているバツイチの母親と娘2人の三人家族の日常を描いた金子理恵さんのエッセイ。「運営委員会委員長賞」受賞作品「6畳の幸せ」です。

作者の金子さんは11年前に離婚して、現在、中2と小5の娘さんと三人暮らし。

ホームドラマをみたり、昼間買い物をする母娘連れを見たりすると、「私も専業主婦だったらなあ?」とため息することもあるものの、ポジティブマインドの持ち主。娘たちとの生活がたまらなく楽しく幸せに過ごしている様子が紹介されています。

「長女の友人たちも私たちの会話を聞いてびっくりする。『え?、うちはママとそんな話、しないよ。ママと話してもそんな盛り上がらないし。』そうなのか?中学生にもなると他のご家庭の母親は随分とぞんざいな扱いを娘にされているようだ。それを聞いた長女は『え?、うちはママとディズニーランドとか行くのも好きだよ。友達と行くのももちろん楽しいけど、ママと行くのも楽しいよ。』と友人たちに反論していた。ちょっと嬉しい。いや、かなり嬉かった。」

作者の金子さんは、「『そうか!部屋だ!私たち三人はダイニングキッチンの他は6畳の部屋が一つあるだけのアパートに暮らしている。夜寝るときは布団を2つひいて3人で寄り添うように寝ている。何をするのも同じ部屋だ。』(中略)子供達も言う、『これじゃ引き籠りたくても引き籠れないよ!』と。それはいいことだ。6畳だからこその幸せもある。」と自分たち三人家族の仲の良い秘訣について記しています。

「子供たちがもう少し成長するとさすがに6畳では無理が出てくるかもしれないけれど、今こんなに家族三人で楽しくやっていられるならもう少しここでがんばろう。それに地域の人たちも温かい。(中略)地域の人たちからも見守られ、『随分大きくなったね』と一緒に子供たちの成長を喜んでくれる人たちがいる。」

地域の母子部長になった作者の金子さんは「子供たちもだいぶ手がかからなくなってきたので、これからはもっと小さい子供を抱えて困っているママたちの支援をしなくては。かつての自分がそうしてもらったように。」と感謝の気持ちでエッセイを結んでいます。

これら2作品以外にも心打たれる秀作がありました。作者岡部達美さんの祖母とお友達で認知症のやすさん(86歳)との交流を、17才のみずみずしい若者の目を通して描写。いかに「ことば」が人に対して元気や自信を与えるかを書いた作品『ことば』(東京新聞賞)。

両親が共働きのためにご近所の家族のもとで育ち、半世紀に及ぶ付き合いとなった不思議な出会いを描いた藤井智美さんの作品『もうひとつの家族』(東京都社会福祉協議会会長賞)

失業した父親と学校に行かない娘さんとの心のケアをテーマにした葭田忠正さんの作品『共に生きよう 家族だもの』(運営委員会委員長賞)など。
どの作品もその底流には「きずな」で結ばれた優しさと愛が描かれています。

パブリック・リレーションズ(PR)は「絆(きずな)」づくり。それは目標達成のために、様々な相手と良好な関係構築づくりを行うリレーションシップ・マネジメントです。

東日本大震災で家族や友人を失い、そして地域社会すらも崩壊の危機に当面している今日、改めて「きずな:kizuna」の大切さをこの「家族力大賞 ’10」を通して思い知らされます。

*上の写真の作品集『家族力大賞 ’10?家族や地域の「きずな」を強めよう』には、16編の作品が紹介されています。表紙のイラストは「夢と喜びの風船」をテーマに深山マヤさんが描いたもの。社会福祉法人 東京都社会福祉協議会が発行元です。非売品ですが、20冊程度であればプレゼント可能だそうです。興味をお持ちの方は連絡してみてはいかがでしょうか。


東京都社会福祉協議会
東京ボランティア・市民活動センター
家族力大賞事務局
Tel:03-3235-1171
Fax:03-3235-0050
E-mail: info@kazokuryoku-gp.jp


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投稿者 Inoue: 11:46 | トラックバック

2010年12月06日

カレル・ウォルフレンの日本政治へのアドバイス
 ?山縣有朋が作り上げた官僚システム

皆さんこんにちは井之上喬です。

カレル・ヴァン・ウォルフレン アムステルダム大学名誉教授(69歳)。オランダのロッテルダム生まれの国際ジャーナリストでもあり、オランダの高級紙「NRCハンデルスプラッド」の東アジア特派員として30年近く日本に滞在。日本の社会や政治を見つめてきた人です。

同氏の日本での著作は多数ありますが、その中で日本社会の仕組みを批判も込めて分析した『日本/権力の構造の謎』(早川書房)は、世界10カ国で翻訳され、日本研究の必読文献として知られています。

また日本社会の問題を鋭く分析した、『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)は33万部超のベストセラー。その他、『民は愚かに保て?日本/官僚、大新聞の本音』(小学館)、『日本人だけが知らないアメリカ「世界支配」の終わり』(徳間書店)、『アメリカと共に沈みゆく自由社会』(徳間書店)など多数の著書があります。外国人で数少ない日本政治の研究家。

これまでウォルフレンさんとは、私もメンバーの外人記者クラブ(FCCJ:日本外国特派員協会)ですれ違っても話をすることはありませんでしたが、今回の参議院議員会館で開催された講演会を前に、民主党の藤田幸久参議院議員の紹介で四谷の私のオフィスでお会いしました。久しぶりでみるウォルフレンさんは、病で右手が少し不自由のようでしたがその頑丈な体はエネルギーに充ち溢れていました。

今回の講演会は、鳩山由紀夫前首相の呼びかけで実現したようで、テーマは、「民主党の政権担当能力を妨げた内なる構造と外からの力」。英語が堪能な藤田さんが通訳をかつて出られ1時間半にわたり講演が行われました。

私も出席させていただきましたが、彼の講演の中には特筆すべきポイントがいくつかありました。

■山縣有朋による官僚統治
ウォルフレンさんは、日本の政治システムの特異性について、明治の元勲山県有朋(1838-1922)により、選挙で選出された政治家の活動を妨害する官僚機構が作り上げられたとし、第2次大戦を経た今もこれが日本の政治を動かしていると解説しています。

彼は、日本は真の民主主義政治のために有朋がつくったこの伝統を壊さなければならない。有朋が行ったことは、選挙で選ばれた人たちによる政治ではなく、選挙で選ばれない官僚が日本をマネージ(統治)するシステムを機能させることであったと断言。

ウォルフレンさんは今春、「中央公論」(4月号)に「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」という論文を発表。この中で日本の検察制度や記者クラブ制度などに対する批判を展開し、現在生じつつある事象の本質を以下のように記しています。

「いま日本はきわめて重要な時期にある。真の民主主義をこの国で実現できるかどうかは、これからの数年にかかっている。」とし、「…国際社会で、真に独立した国家たらんとする民主党の理念を打ち砕こうとするのは、国内勢力ばかりではない。アメリカ政府もまたしかりである。」

そして、「…民主党政権発足後の日本で起こりつつある変化には、実は大半の日本人が考えている以上に大きな意味がある、と筆者は感じている。」と政権交代の歴史的な意義について高い評価を下しています。

ウォルフレンさんはさらに、日本の政治システムの内部には、普通は許容されても、過剰となるとたちまち作用する免疫システムが備わっており、この免疫システムの一角を担うのが、メディアと二人三脚で動く日本の検察である、としています。つまり、記者クラブ制を維持するメディアがスポークスマンの役割を果たしていることへの問題点を論じました。

また彼は、小沢氏は自民党を離党しこのシステムを変えようとしたが、「以前から予想したとおり小沢一郎が総理になることは許されていない」と免疫システムがブロックする仕組みを語り、ワシントンからの力も加わって「彼が何か悪行をしたということではないのに、小沢一郎が現在のシステムに対する脅威であるということで抵抗が起きている」と鋭い分析を行っています。

日本の伝統的なメディアには、こうした問題を扱う意識がないと指摘。以前、小沢氏に「何故メディアに訴えないのか?」と聞いたところ、答えは「メディアが取り上げてくれない」だった、としています。

■制御不能の米軍産複合体と日本の今後の対応
ウォルフレンさんは、民主党政権も初めは独自路線をとろうとし、鳩山氏の首相就任時には、私も喝采を送ったが、日本の自ら舵取りをしない独立性の欠如は、新たな国際情勢の下でより深刻化していると指摘。「日米関係ほど異常な関係はない」と米国との対等な関係改善を求めています。

一方で、「米国のジャパン・ハンドラー達は未熟な日本外交に興味を持っていない」と分析。「日本外交は発展途上中であり、現状では中国は日本をまともに扱わないだろう」と日本の自立を求めています。

そのような中で、「米国の最も重要な外交・安全保障の諸機関は、制御不能と化した」とし、毎年日本の国家予算(一般会計)に匹敵する予算を使う軍産複合体の台頭と自己増殖に懸念を表明。自己保存のために世界中に1000箇所以上の基地を配備している強大な米国の軍事力の脅威についても警鐘を鳴らしています。

また民主党政権についても、「その誕生時から、内外の政治環境が最善であっても、政権運営が難しい国内の負の政治構造と文化を継承していた」と自民党時代からの負の遺産にどのように対処すべきかが課題、としています。

また「日本のメディアはこうした問題をまともに取り扱う仕組みと場を持っておらず、政策について論じるメディアの伝統がない」とし、「結果として派閥政治ばかり報じることになる」と厳しく批判。

日中関係については、ワシントンは日本が中国と親密になることを望んでおらず、こうした中でも、米国は、敵とみる国を包囲するために、以前よりも日本を必要としている、と米国が日本との関係強化を望んでいることを強調しました。

最後の質疑応答では、今後民主党政権がやるべきことについては:

1)中国との関係改善

2)これまで、ワシントンに対して、民主党ははっきり言ってこなかったが、日本が独立したいと表明するべきである(ドイツは50年たって米と対等になった)。恥ずべきことではない。

3)菅氏には、全体を把握しているアドバイザーが必要である。

4)ワシントンに対して、新しいことをやろうとすると、メディアが障害になるのではないだろうか?

5)ASEAN諸国との協調は大切。

といった答えが返ってきました。

現在彼の本拠地はアムステルダムですが、東京にも仕事場を持ちオランダと日本を行ったり来たりの生活。いまもフリーランスで「フォーリン・アフェアーズ」や「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」などに寄稿。講演活動も行っています。

ウォルフレンさんは、「米国がリーダーシップを持っているというのは幻想にすぎない」とし、米国を「かつては秩序と安全を維持する存在だったが、今は混乱をもたらす存在」とヨーロッパ人のDNAが言わせているのでしょうか、米国に対しては手厳しく語っています。

来年1月には日本で、小沢一郎氏をテーマに新刊本を上梓する予定のようです。

ウォルフレンさんと「日本の問題は、パブリック・リレーションズ(PR)力の問題」と日頃の持論を展開したら、「まさにその通り」と答えが返ってきました。

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2010年03月08日

家族力大賞 ‘09
 ?家族や地域の「きずな」を強めよう

家族力大賞‘09


こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

先月、第3回目となる「家族力大賞‘09」(エッセイ・コンテスト)の贈賞式が京王プラザホテルで行われました。このエッセイ・コンテストは、東京都社会福祉協議会(古川貞二郎会長)が家族や地域社会との関係性を、よりよい社会実現のために強めていくことを目的に2007年度より開催。「家族力大賞」は前会長でアメリカンファミリー生命保険最高顧問の大竹美喜さんの発案によるもので、崩壊する家庭や地域社会に力を与えたいとの強い思いが込められています。

3回目の今年は、家族や地域がどのように「きずな」を広げていくのかがテーマで、応募作品の中から14作品が入賞しました。式典の冒頭、古川会長のスピーチは印象深いものでした。マザー・テレサの「愛の言葉」の中にある「私たちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさえありません。これは大きな貧困です」という1節を引用し、「ほほえみが、他の人に伝わり、その人がまた人に伝えます。『家族力大賞』がテーマとしている『きずな』も、1つのほほえみからはじまる…」と述べています。

特に今回の応募について、「…大変厳しい状況にあっても、ほほえみを忘れず、困難をのりきってきた事例」とコメントしています。

本コンテストの運営委員長は昨年までの金子郁容(慶大教授)さんから新しく袖井孝子(お茶の水女子大学名誉教授)さんに代わり、私も運営委員のひとりとしてこのコンテストに関わっています。今回は、14作品の中でも地方から上京して成長していく二人の若い女性の作品を紹介したいと思います。

■福岡娘が出会った東京のお母さん
「『お母さん、ただいま』東京の下町。学校帰りに私はいつも、居酒屋をひとりで切り盛りしているお母さんの店を訪ねる。『おかえり!ほら、これだよ、持って帰んな!!』お母さんはいつも元気に笑って迎えてくれる」。このエッセイは、石井芳佳さんの作品。筑波大学に通う学生で、「東京都知事賞」を受賞した作品(「みんなが、笑った?下町が教えてくれた家族愛?」)です。

文章は続きます。「今日はお母さんから『きのこご飯炊いたからとりにおいで』とメールが入っていたので受けとりにきた。カウンターに置かれた、きのこご飯がぎっしりと入ったまだふたをしていないタッパーからはふわふわと湯気が出て美味しそうなかおりが漂ってくる」。「…今日学校でねえ…」と芳佳さんはお母さんにその日あったことを報告します。

「『今日も元気がいいねえ』カウンターにいる常連さんがにこにこ笑っている。『わたし、娘がいなかったから可愛くてしょうがないの。こんな日本酒ばっかのむおっさんだけどね…なんちゃって』そういってお母さんはエプロンを顔にあて笑う。だから照れくさくなって私も笑う」。ここに登場する「お母さん」と作者の石井芳佳さんの間には血のつながりはなく、読んでいくうちに彼女の行きつけの居酒屋のママさんと常連客の関係であることが判ります。

彼女の故郷は福岡。彼女は人と人が笑いあい、つながりあっていくことに人一倍幸せを感じていることを吐露しています。しかしここに至るまでの彼女の道のりは遠かったといいます。「私は父を憎み、母を憎んでいた。家族愛に飢え、むしろ冷め切っていたのだ。(中略)それぞれの心が悲鳴をあげていた」。厳格な父、勘当された姉。毎日息がつまりそうな喧騒から逃れたい。石井さんはそんな思いで反対を押し切って大学進学で上京し、ほとんど帰省することはありませんでした。

しかし福岡から一人ぼっちで引っ越してきた東京の下町の商店街では、威勢よく声を張る八百屋さんや魚屋さん。お客さん同士が井戸端会議で賑わい、銭湯に行けばわいわいと盛り上がり、町内総出の運動会や年中無休のラジオ体操、お祭りなどでつながりが広がっていくのを石井さんは感じるのでした。ある冬の夜に居酒屋のお母さんから酉の市に連れて行ってもらいます。熊手を買い商売繁盛を祈願。屋台でたくさん買い物をしてもらい、本当の親子のように感じるのでした。

これらの体験を通して、石井さんは家族の在り方について考えることになります。そして家族の笑い顔を見るために福岡を離れていた姉といっしょに帰省し、戸惑いを感じながらも最後は家族4人で食卓を囲みながら父親からの痛悔のことばとともに、親子の涙の和解がなされたのでした。

「人には色んな考え方がある。色んな生き方がある。(中略)私がここで目にしたものは、それを伝えあい共有しあえる場があるということなのだ」。石井さんのエッセイは最後に、「我が家が家族だということ、家族は素晴らしいものだということをここの家族のような付き合いの中に教わった。」ということばで締めくくられています。

■世代を超えた出会い
次に紹介するのは、四国香川で育ち大学進学で上京した若い女性と90年も生きてきた女性との出会いを中心に書かれた河本明代さんのエッセイ。「運営委員会委員長賞」受賞作品(「世代を越えた出会いが教えてくれたこと」)です。

河本さんは香川から大学受験で東京の水道(冷水)だけ出る家賃2万円のアパートから塾通いをしていたときに、銭湯で足の不自由なお婆ちゃんと知り合います。

その銭湯で、あるとき河本さんは勇気を出してお婆ちゃんに話しかけます。それがきっかけに、東京生まれのお婆ちゃんと田舎育ちの若い娘さんの交流が始まるのでした。毎日銭湯で顔を合せては多くの会話を重ねていきます。やがて自宅に遊びに行ったり料理も教えてもらうようになります。

しかし、翌年念願の大学に受かってから毎日会う機会も少なくなっていきます。そして卒業を目近に控えたある日、河本さんがお婆ちゃんに会いに行ったときのこと。「あんなに明るかったお婆ちゃんが別人のように痩せて、寝たきりになっているのを見てショックのあまり声がかけられませんでした」。

「お婆ちゃんに、お寿司が食べたいから買ってきてといわれて外に出たとき、一気に大量の涙が頬を伝わってきました。お婆ちゃんと銭湯から一緒に帰っていた見なれた道」。目は涙であふれ寿司屋までの道がかすんだあの風景は今でも忘れられないと河本さんは述懐しています。そして、「あんなにしっかりしていたお婆ちゃんが何度も同じ話を繰り返す」。認知症にかかっていたのでしょうか、河本さんはそんなお婆ちゃんに心が痛むのでした。

お婆ちゃんから、最近、最愛の兄を亡くしたこと。とうとう一人になってしまったことを告げられます。今まで陽気なお婆ちゃんから、「寂しい」という言葉を初めて聞く河本さんは家族の存在の大きさを知ることになります。それから間もなく、彼女は介護の人からお婆ちゃんの訃報の連絡を受けます。

あれから10年、河本さんは別世界に感じていた東京で大学生活を過ごし、知識を得ることの面白さを学んだといいます。お婆ちゃんが薦める文庫本や哲学書を読んでは、一緒に意見や感想に付き合ってくれたおかげでした。そして河本さんは、就職先に放送局を選びます。その後多くの出会いがあったようですが、「お婆ちゃんは私の中では特別な存在」。「私もあのお婆ちゃんのように、将来自分の過去を新しい世代の人たちに伝えて、何かを感じ取ってもらえる人になれるように」。そんな人間になることを考えているようです。

2つの作品に共通するのは、地方から上京した若者が、人間関係が希薄といわれる東京でめぐり会った人びとと「きずな」で結ばれ、優しさと知恵を糧に大人に成長していく模様が描かれていることです。

以上の作品以外に、薬物依存症の息子さんを抱え、夫婦が正面から問題に取り組むことで周囲の人に助けられ家族の絆を強めていく、SS幸子はあもにい さんの、「幸せは足元に」(東京都社会福祉協議会会長賞)。20数年前38歳で交通事故にあい全身麻痺になった藤川景さんの「優しさに包まれて」(東京新聞賞)など。どの作品もその底流には優しさと愛があります。そして家族や社会とのきずなが描かれています。

これらの作品を読んで感じたことは、みんな自分の身の回りに起きた事件や困難な問題から目をそむけることなく、それらを糧にして新しい取り組みを行っているということです。

パブリック・リレーションズ(PR)は「絆(きずな)」づくり。殺伐とした日本社会が輝きを取り戻すようにインター・メディエーターとして社会で責任を果たすことが求められているのです。

*上の写真の作品集『家族力大賞 ’09?家族や地域の「きずな」を強めよう』には、14編の作品が紹介されています。社会福祉法人 東京都社会福祉協議会が発行元です。非売品ですが、30冊程度であればプレゼント可能だそうです。興味をお持ちの方は連絡してみてはいかがでしょうか。

<家族力大賞事務局>
Tel:03-5283-6894
Fax:03-5283-6997
e-mail: tomin-kigyou@tcsw.tvac.or.jp

投稿者 Inoue: 09:34 | トラックバック

2009年11月09日

「日本黒龍江省経済文化交流促進会」が設立
 ?日中の真の友好関係とは

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

先日、日中経済文化の発展と交流を促進するために設立された「日本黒龍江省経済文化交流促進会」の設立祝賀パーティーに招待されました。この団体は特定非営利活動法人で、在日黒竜江省人を主要メンバーとして組織され、黒竜江省と日本との文化、経済分野の交流を促進することを通じて、黒竜江省と日本の民間人の友好交流を目的に設立されたものです。

私と黒竜江省との関係は、大学の先輩でもあり、元NEC専務の島山博明さんの紹介で、島山さんの友人の何治濱(同交流促進会理事)さんと出会ったことに始まります。何さんは20年前に奥様と幼い娘さんの3人で来日し、東京大学大学院で経済学を学び、同大学から経済学博士号を授与され、日中間のビジネス発展のために東奔西走している方です。
このたび、何さんの強い要請もあり島山さんと一緒にこの交流促進会の顧問を引き受けることになりました。

■日本と関係が深い黒龍江省
黒龍江省は東北地区の最北部に位置する人口3800万人の省。旧満州国(黒竜江・熱河・吉林・遼寧・興安)の中でも北部はアムール川(黒竜江)をはさんでロシアと国境を接し、日本人には戦前からなじみ深いハルビンが省都です。

黒竜江省は日本の若者の間ではあまり知られていないようです。省都ハルビンは明治時代に伊藤博文が暗殺された(1909年ハルビン駅で)ところとして歴史に名を刻んでいますが、1300年前は当時の渤海国が日本と交流していました。日本の高齢者の間では、戦前日本の満州開拓団が切り開いた場所としても一定の知名度があるところです。

地理的にも日本に近いことと、旧満州国であったことが関係しているのか分かりませんが、黒竜江省からの日本滞在者は、お隣の遼寧省(大連のある)に次いで二番目に多く約6万人。日本黒龍江省経済文化交流促進会の理事長、陳立新さんは日本には20年近く滞在し、自ら日中間の医療機器の輸出入会社を経営する女性です。

会場には陳さんのように、日本でITソフトウエア会社や日本語学校などを経営する人など、さまざまな黒竜江省人が集まっていましたが、彼らは将来、同省と日本との間の広範な文化、教育、芸術、スポーツを通した交流や日本からの観光客の誘致促進、また同省にある豊富な天然資源の共同開発などで日本との強いパートナーシップを期待しています。

■良好な相互補完関係の構築・維持
日中関係の歴史は2千年に及びます。その間さまざまな形で交流関係を築いてきましたが、中国は漢字や仏教、儒教など日本社会の精神的インフラストラクチャーに多くの影響を与えてきた隣国といえます。

近年の中国の経済成長には目を見張るものがあり、先日発表された国内総生産(GDP)の成長率は、景気回復が遅れている日、米、欧など他の先進国の成長率をはるかに上回って世界の牽引車として注目を浴びています。中国国家統計局が10月22日発表した2009年第3四半期(7?9月)の国内総生産(GDP)の速報値によると、中国の実質成長率は前年同期比8.9%。また、中国のGDPは、2009年にも日本を上回り、世界第二の経済大国にとってかわることが予測されています。

かって世界の工場といわれた日本のものづくりの拠点は中国へ移転し、産業の空洞化が叫ばれて久しい日本にとって、今後成長著しい中国とどのように付き合っていけばよいのか総合的に考える時期に来ているといえます。

真の友人として中国と正面から向き合うためには、両国の歴史認識を共有し、未来に向かって両国が双方の国民および世界に対してどのような貢献ができるかを一緒に考えなければなりません。とりわけ13億人の国民を豊かにする目標を掲げる、中国の経済成長過程で発生するであろう環境問題は、両国間の枠組みを超えたグローバル・イッシュ。

両国が同じ土俵で競争することは、避けられないとしても、できる限り相互補完関係を作り出すことが必要と思われます。高度成長の下で置き去りにされがちな公害問題やCO2などの環境問題解決のための諸技術や自然災害への対応技術など、日本が中国にはない付加価値性の高い商品やサービスの提供と開発を行うことは極めて重要といえます。つまり日本がこれまで培ってきた一流の制度や技術そして人材を有効に使い相互の補完関係を構築・維持することが重要だと思うのです。

13億人の民を食させることは大変なことだと思います。20年前と比べても、中国の民主化が少しずつ進んでいることは感じ取れますが、中国が巨大な経済力を持ったいま、更なる民主化を推進することが世界の平和と繁栄につながることを世界の多くの人は知っています。

このブログの2009年9月7日号にも紹介しましたが、パブリック・リレーションズ(PR)は民主主義社会でのみ力を発揮します。それゆえ、中国でのパブリック・リレーションズの進展は、私たちプラクティショナー(実務家)にとって関心の高いテーマとなっているのです。

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2008年09月20日

70歳の起業家三澤千代治さん
 ?200年住宅HABITAが本格稼動

HABITA



こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

皆さん「200年住宅」ということばを聞いたことがありますか?これは長寿命住宅のことです。従来日本では住宅の寿命は30-35年とされ、十分に住める家屋でも取り壊し、立て直しするのが常識となっていましたが、近年の地球温暖化の影響で、資源の無駄遣いをやめできるだけ地元で生産し、地元で消費する「地産地消」の考え方が浸透するようになってきました。

「使い捨てをやめて資産価値のある住宅に」という200年住宅の考え方で、新しい日本の住まいのブランド「HABITA(ハビタ)」を推進している人は三澤千代治さんで元ミサワホーム社長。その後ミサワホームを離れ、2004年にMISAWA International株式会社(ミサワ・インターナショナル)を設立し、70歳のベンチャー企業社長として、誰でも家を持つことができる社会の実現のために、200年住宅の普及のために休むことなく、日夜仕事に励んでいます。

そのミサワ・インターナショナルが、3タイプのHABITAモデルハウスを完成させ、9月13日から15日の3日間、「さんぶの杜(千葉県山武市)」で一般に初公開されました。

■業界初、超長期住宅先導的モデル住宅
200年住宅ブランドHABITAの語源はHabitationで「(快適な)住まい」。今回発表したHABITAモデルは、「岩瀬牧場」、「SORA・MADO」、「出居(でい)民家」の3タイプ(写真左から)。柱はこれまでのものより一回り太い5寸角の国産材。柱、梁の骨組みは仕上材で覆わず、そのまま骨組みを見せる「現(あらわ)し」構造。強度維持のための集成材の使用や真壁での外壁通気工法による耐久性など数々の優れた特性を有しています。

200年住宅の考えは、福田首相や国土交通省による超長期住宅の実現に向けた取り組みを加速させ、HABITAは今年7月、国土交通省の「第1回・超長期住宅先導的モデル事業」に選定されました。今回の発表は、その具体的なものとしては業界初。

三澤さんが200年住宅を目指す最大の理由が地球環境問題。30年余りでとり壊されてきた日本の住宅の耐用年数が 約6倍に伸びることで、森林の乱伐を防ぎ、省資源、省エネルギー、に効果を発揮し、産業廃棄物も大幅に削減できます。また、木材は加工された後も焼却などしない限り、 CO2を固定しつづけます。木造住宅がCO2を貯蔵する第二の森と言われる理由です。200年住宅はサスティナブルな循環型社会に貢献できるからです。

「HABITA」は、三澤さんがアメリカの200年住宅に啓発され、世界160地方、国内344ヶ所の古民家に学び、国産の大断面木構造体を核とし、新しい技術で日本の住まいの在り方を変える住宅として、強力に推進されています。

■400年周期で変わる様式
三澤さんは、現在は日本の住宅様式が変わる重要な時期と主張しています。その理由は、日本の住宅の歴史を400年周期でとらえているからです。「最初は西暦0年頃、竪穴住宅から床高式に変わり、その後400年ごとに、寝殿造り、武家(書院)造り、そして1600年頃から現在の数寄屋造りと変化し、新しい節目となる2000年は、環境問題への配慮から住宅様式が変わる」といいます。つまり21世紀初頭の今は、日本の住まいが大きく変わる節目にあると言っているのです。

200年住宅の発想は、三澤千代治さんがミサワホーム社長時代の1976年、建国200年祭のアメリカで見た建国以来の住宅がきっかけとなったようです。その時、使い捨て同然にされている日本の住宅との質の差に愕然としたといいます。

HABITAは、古民家に見られるポスト&ビームの木構造を採用。近年、古民家再生が活発になっていますが、これも柱と梁を等間隔に配置した簡素な間面(けんめん)の構造が要因といわれています。30年ごとに改修工事をし、100年前後に一度再生工事を行ない、それを繰り返します。200年の超耐久性には、古民家再生に学び、そのつくりをHABITAの木構造に採用しているとされています。欧米のように、住宅を資産とするコンセプトです。

HABIITAのビジネスモデルは、日本で初めてパネル工法を本格導入した三澤さんならではの斬新なものです。これまでの住宅より30%程度安い価格で建てられるモデルの特色は、1)地域工務店との連携による住まいづくり 2)地域の工務店、不動産業者、設計事務所が連携する住宅事業の再構築 3)国産材など地産地消(地材地建)で地域経済の活性化を図り 4)原価公開による正価販売、などから成り立っているようです。

三澤さんは、日本人は生涯8回住まいを変わると分析しています。現在、超長期(100年)の住宅ローンの実現に向けて関係各方面と折衝していますが、「超長期ローンの実現により、支払ローンは3,000万円ローンで毎月15万円弱、1,500万円ローンで7万5千円ほどで、誰もがふんだんに木を使った天井の高いがっしりした家に住むことができる」とその思いを語っています。

29歳でミサワホームを起業し、わずか4年で、当時史上最短、最年少で上場を果たした三澤さん。先進諸国と比べ、日本の住宅事情は劣悪と言われています。HABITAのコンセプトは「家・人・歴史・環境」が抱合されたもの。すべての人に、豊かな住環境が与えられる日本であってほしいと、三澤さんは今日も全国を駆け巡っています。

最後に、ミサワホームの創業以来、40年を超えて住宅の普及につとめた三澤社長は、今回のモデルハウス公開に当たって次のように語っています。
「この度、地球環境や歴史・文化を内含させた、新しい日本の住まいのブランドとして『HABITA』構想を描き、超長期住宅の一つのかたちとして提案させていただくことになりました。その重要性をご理解いただき、多くの方々に支持されることを願っています」。

三澤さん、これからも健康には留意されてください。一人でも多くの日本人の幸せの実現のために、はたらくことができますようお祈りいたします。

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2008年08月23日

水しぶきの中の青春 2

こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

8月8日から開催されていた北京オリンピックも閉幕しました。日本は9個の金メダルを含め計25個のメダルを獲得。その中でも2つの金メダルを手にした水泳の北島康介選手の平泳ぎ(100m、200m)は他を圧倒しました。科学的に研究され完成された泳法であったこともさることながら、北島選手の勝負にかける気迫が金メダルを引き寄せたといえます。

8月の日曜日の午後、母校立川高校のプールに3年ぶりに行きました。ちょうどTV番組で繰り返され放映される北島選手の完成された泳法を目に浮かべながら、高校時代水泳部で毎日練習に明け暮れたことが想いだされました。

■サンタクララ・スイミング・クラブの選手に圧倒される
高校時代、私の脳裏に焼き付いている一つの光景があります。それは神宮プールでのインターハイに出場した2年の時、当時来日していた、米国のサンタクララ・スイミング・クラブ(現在のシリコンバレーにある)のスイマーたちのことでした。

サンタクララ・スイミング・クラブは、当時、自由形の天才スイマーといわれ64年の東京大会で100/200m自由形で金メダルを取った、ドン・ショランダーをはじめ、その後72年のミュンヘン大会で7つの金メダルを獲得したマーク・スピッツなど、科学的トレーニングで数々の名選手を輩出した有名なクラブ。このクラブに所属するドナ・デバロナやリチャード・ロスとプールサイドで一緒になるチャンスがあったのです。

なかでもリチャード・ロスと並んだとき、彼の180cmを超える身長と太い腕をみて圧倒されたのでした。その少年はまだ中学3年生。彼は3年後の東京オリンピックでは400m個人メドレーで金メダル(デバロナは女子の同種目で金、400メドレーリレーで金)を取りましたが、彼らを目のあたりにしたときに、肉体的に優れていないと世界では勝てないのではないかと衝撃を受けたのです。それ以来、水泳で頑張ろうと思っていた私の頭の中で肉体的なハンディがトラウマになったのです。

■山中毅さんとの出会い
山中毅の名前は、年配者でその名を知らない人はいません。彼は石川県輪島高校の2年生のときメルボルン・オリンピックにデビュー。1960年のメルボルン大会では、豪州のマレー・ローズらと競い、400mと1500m自由形で日本に銀メダルと銅メダルをもたらした人。その後、200m/400m自由形で世界記録を作るなど古橋広之進以来の日本水泳界のヒーローで、水泳に青春をかけた私にとってはあこがれの人でした。

私が立川高校2年の春休みから、東伏見にある早大(稲泳会)の合宿所に通い出した頃は、山中さんが社会人として大洋漁業に行き先が決まり早大を卒業するとき。そこで直接会うことはありませんでした。それから40年ほど経った数年前、偶然にご本人と初めてお会いする機会を得たのです。

私の目の前に立つ山中さんは、体を患い痩せていたこともありましたが、かつてTVで観た、世界新記録を何回も塗り替えた筋骨たくましい山中毅のイメージからほど遠い、私より小柄で身長170cmに満たない人だったのです。この体の人が世界と闘っていたとは。肉体的なハンディを乗り越えてクロールで世界の頂点に上り詰めた山中さんとあの頃東伏見のプールで出会っていたら、神宮プールでの衝撃に臆することなく、そして伏見の合宿で自分の泳法を変えられたぐらいで意気消沈することなく、リスクをとってでも勝負していたかもしれません。

それだけに176cmの北島選手が肉体的なハンディを乗り越え2大会続いて世界新で金メダルを取ったことはまさに驚異的だったと思うのです。
久しぶりの母校のプールサイドで先輩や後輩と交わるなか、ふとそんなことを考え、往時のことや仲間たちと過ごした45年前に思いを馳せたのでした。

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2008年05月10日

ある友人の死
 ?「源氏物語」映画化の夢を追い続けたフランス人

こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

先日私の長年のフランス人の友人の奥さんから電話がありました。
私の留守中に何度かあったとのこと。ふだん奥さんが電話をかけてくることはないので、胸騒ぎを覚えながら、オーストラリアに住む彼の家に電話を入れました。電話の向こうで、奥さんのカルメンが彼女の夫が亡くなったことを泣きながら伝えてくれました。

最近は友人関係で、本人以外で奥さんやお子さんからの連絡の大半は、本人の事故の知らせや訃報であることが多いように思います。今回も無意識のうちに頭のどこかで彼の身の上に何かが起きたのではと、覚悟していましたが、さすがにこの突然の訃報に気は動転しました。その知らせは、彼が3月の終りに旅行先のイタリアの奥さんの実家で亡くなったというものでした。気がついたら末期癌だったようです。彼女からの電話は、友人の死の直後に彼女の出したメール(ジャンクメールに埋没)に、私から返事がなかったことを心配しての連絡でした。

友人の名前はジル・ジャーマン。オーストラリアのケアンズから100kmほどにあるデインツリーに住んでいました。そこはデインツリー国立公園のなかで、近くに1988年世界界遺産に登録された場所がある広大な熱帯雨林。彼はそこで高級コテージ( http://www.cockatoohillretreat.com.au/ )を経営する傍ら映画ビジネスにも携わっていました。

写真:ジルの経営している 写真:ジルの経営している Cockatoo Hill Retreat

■モロッコ生まれ、5つの国に住んだ国際人
ジル・ジャーマンの生まれた国は、当時フランス植民地だったモロッコ。その後、フランス、スイス、スリランカ、そしてオーストラリアマと5カ国での生活体験をもつコスモポリタン。

彼と初めて出会ったのは、今から30年以上も前の、ヤマハ主催の世界歌謡際でした。1970年から20年間ほど続いた日本最大のポピュラーソングの音楽祭。世界50カ国以上から参加するミュージシャンのコンクールで、日本武道館で3日間にわたり毎年秋に開催されていました。レコード会社を経営していたジルは、スリランカに住んでいたこともあり、そのときにスリランカ代表を連れて来日したのです。

当時、武道館での3万人の動員の外部責任者として関わっていた私はスリランカグループのスピリチュアルで透きとおった美しいハーモニーのコーラスに魅せられ、たちまち意気投合。その後、ジル・ジャーマンは拠点をオーストラリアのシドニーに移しましたが、レコード・ビジネスで来日のたびに親交を深めていきました。


■「源氏物語」映画化に向けて
彼と仕事で具体的に関わるようになったのは、1988年、私がメルボルンで開催されたパブリック・リレーションズ(PR)の世界大会(11th IPRA World Congress)への出席の帰り、当時シドニーにあった彼の家に立ち寄ったときでした。そのときジルの口から初めて、源氏物語の国際合作映画を作る話を知らされたのです。映画の内容は、11世紀と現代をパラレルで進行させるという極めて独創的なものでした。当時、経済超大国になった日本はパブリック・リレーションズ不足で世界に不必要な誤解と悪いイメージを与えていました。そんな中、このプロジェクトは私にとっては日本のイメージを変える格好の素材として映ったのです。

ジルはマルチ・カルチャーが理解できる人間でした。この源氏物語の映画化プロジェクトをプロデユーサーとして立ち上げようとしていたとき、彼は日本人の忍耐強さと「許し」の精神について度々私に話したものです。 「日本人は、広島、長崎で原爆を落とされ、あんな悲惨なめにあっていてもなぜ、アメリカ人を許しているのだろうか?」。 そのとき、彼の質問の意味やその背景について私はよく理解できていませんでした。しかしそれらはその後しばらくして彼の体験を知って理解できるようになったのです。

アルジェリアがまだフランスの植民地だったころ、ジャーマン家はそこで3?4世代にわたって、フランス軍へ毎年大量(100万本)のワインを納める葡萄農園を経営していたようです。その後、アルジェリア独立運動の機運が高まり、家族はモロッコに移住します。1950年に彼は首都ラバトで生を受けますが、紛争はモロッコにも飛び火します。運命は彼の幼少時代に悲惨な体験を強いることになります。それは内戦状態の中で彼の叔父さんが、テロで殺されるのです。家の玄関のドアに磔にされた無残な姿をジル少年は目撃したのでした。

フランス人は気短な人が多いといわれていますが、彼には、その気はまったくありません。おそらく彼の少年の頃の体験と、回教徒のなかで育った環境で忍耐強くなったのでしょうか。

彼の生い立ちを知ってから、「許し」の意味がより深くわかるようになりました。映画のタイトルは Genji-The Shinning One 。根底に流れるテーマを「許し(Forgiveness)」としたのです。日本人のアメリカ人への許しと、少年時代、叔父を殺害した暴徒への彼自身の許しが二重になっていたのかもしれません。光源氏と、彼が尊敬してやまない父帝が愛した、藤壺との間にできた不義の子。父に許しを乞おうとする光源氏の心の葛藤。平安時代の絢爛豪華で芳醇な時代背景で展開されるストーリーと、現代、同様な境遇にあるアメリカ人家族で繰り広げられるドラマが時代を超えて交差していきます。

人間の弱さや罪深さを「許し」をテーマにスクリーンで表現したかったジル・ジャーマン。彼が1988年に映画制作を企画してもう20年が経ちました。

日本での制作の責任者には、黒澤明の監督時代に助監督を経験し、東宝映画のゴジラ・シリーズ(ゴジラ対ヘドラ)で監督を手懸けた坂野義光さんも加わり、衣装担当にお願いしていた和田エミさんや源氏物語の英訳者のサイデンステッカーさんなどと映画について夢を語ったものです。

アメリカのアービン・カーシュナー(「スター・ウオーズ帝国の逆襲」監督)も総監督候補者として自ら名乗りを上げ、打ち合わせに来日したこともありました(写真中央)。

在りし日のジル・シャーマン:写真に向かって右から、J・ジャーマン、筆者、アービン・カーシュナー、ボブ・エリス(脚本家)、坂野義光 うかい鳥山(高尾)にて

この映画プロジェクトは、彼のその後のホテル・ビジネスへのかかわりや制作予算が大きいことなどもありいまだ実現に至っていません。しかし昨年あたりから再開されるようになりその矢先のことでした。それだけに今回のジル・ジャーマンの死は悔やまれてなりません。

ジル・ジャーマンの音楽や芸術に対する感性は卓越したものがありました。フランス料理の腕はプロ顔負けで、家に遊びに行ったときはその腕を披露してくれたものです。スイスの大学で知り合ったカルメンは陶芸の先生もしているよきパートナーでした。

彼は生前よく、デインツリーの素晴らしさを語ってくれました。住まいを流れる小さな浅い川は、「天然の白いマーブル石を敷き詰めたプールのようで、川底から映す色はコバルトブルーの輝き、世界中どこにもないから、一度是非見にきて」とトロピカルで神秘的な場所を気に入っていました。彼が生きているうちに行けなかったことが悔やまれてなりません。

ジル、長い間あなたと夢をシェアーできて幸せでした。できるだけ早い時期に、あなたの愛したデインツリーを訪問します。そして、残された者とあなたの精神を受け継いでこの映画が実現できるよう努力します。そのためにあなたの力をください。

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2007年05月04日

私の心のふるさと、都立立川高等学校

五月の輝く陽光と新緑の美しいこの季節。私は毎年この時期になると想いだす場所があります。

それは私の母校、都立立川高等学校。中央線立川駅から南に歩いて5分ほどの距離にある、この学校の当時のシンボルマークは豊かな緑に包まれた広い校庭と、3階建ての校舎の上にある天文台でした。

新宿区の中学校(西戸山中学)を卒業した私は、実家が三鷹に引越したことを契機に高校進学では立川高校を選びました。多摩川の清流と緑に囲まれた自然の中のこの学校は、知り合いが誰もいない不安な15才の少年を明るく迎え入れてくれました。

立川高校は、1901年創立の府立二中を前身とする都立高校。多摩地区に位置するこの高校は、地元では親しみを込めて「立高」と呼ばれています。 また、現在に至るまで東京都知事(鈴木俊一さん)を始め、とりわけ多摩地区の多くの自治体の首長を輩出してきたことから「市町村長学校」とも呼ばれているようです。

■ 校風は「文武両道」、「質実剛健」
当時の校風といえば、「文武両道」、「質実剛健」。そこには、自由で闊達な風土をもち、勉強を強制されることなく、自分が目指したい道を一心に突き進める環境がありました。

水泳に青春をかけていた私の思いだす母校の風景は、豊かな緑とまぶしい太陽にきらめくプールの水しぶきです。水泳部の屋外練習は3月20日ごろからが始まりますが、本格的に水のなかで練習がスタートするのは5月の初旬。新緑に映えた水面はキラキラ輝いていました。

そこで過ごした3年間、たくさんの友人と巡り合い、共に青春時代を過ごしました。その関係はさながら兄弟のようなもの。全国から集まった大学の友人とはまた違った人間関係がそこにはありました。特に公立の高校は地域性が強く、その地域の持つ風土や文化を共有する仲間とは、ふるさとを同じくする特別な関係にあるといえます。

■ 友情で、人生はより輝く
4月のある日、立川のホテルで、3年ぶりに学年同窓会が開かれました。そこに集まったのは150人ほどの同期の卒業生と、当時の担当教師。いまや70代後半から80代となった先生方もその年を感じさせることなく元気な顔を見せてくれました。

数年ごとに開かれる同窓会とは別に、同窓生が2ヶ月に一度スナックバーに集まります。現在は新宿のとあるバー。最近はリタイアした人も出てきて、仕事から解放され益々自由に語り合えるようになりました。そこは会った瞬間、時空を超えて45年前の青春時代にタイムスリップしてしまう。そんな空間。

スナックバーには、自由豪快な校風を反映して個性豊かな友人たちが集います。インテリアデザイン界で今や大御所となったスーパーポテトを主宰する杉本貴志君、大蔵省時代審議官として活躍した中井省君(現ロッテ製菓役員)、唯一3年間同じクラス仲間で日本経済新聞時代コラムニストとして活躍、いまでも時事問題に健筆を振るう田勢康弘君(現在早稲田大学院教授)、同じバスケット部仲間の青梅市長の竹内俊夫君と日野市長の馬場弘融君、最近同窓会にあまり顔を出さなくなったNTTドコモ社長の中村維夫君、手作りのケフィアヨーグルトを広めているケフィア倶楽部代表の佐藤ゆき子さん、そして高校入試で当時の東京都のアチーブメント・テストに900満点中895点のトップで立高に入学した、水泳部仲間でカメラマンの小川智夫君など、活躍する分野も色とりどり。

高校の友人は、同じ土地から卒業後それぞれの道に巣立っていきます。将来への希望と夢を共有する仲間ともいえます。私にとって様々な分野に羽ばたいた仲間たちとのふれあいは、パブリック・リレーションズの実務家としての信念と夢を大いに刺激してくれました。

パブリック・リレーションズを政治の世界に持ち込んだといわれる、第3代米国大統領トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson,1743-1826)は言っています。

「友情は、試練の時だけでなく、人生の輝ける時にも大切なものです。そして、慈悲に溢れた友情を授かることで、人生はより輝くのです」

互いによく笑い、よく語り合う、いつまでも変わらない友情、その豊かな実りに感謝して。

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2007年04月13日

河島博さんの死を悼んで
 ?2人のワンマン経営者に仕えた偉大なテクノクラート

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか?

先日、ダイエーで取締役社長室長をやっておられた佐藤純さんから連絡がありました。元ダイエー副会長で元日本楽器製造(現ヤマハ)社長の河島博さんが亡くなったとの知らせでした。ここ何年間か体調を崩し、一線から退いていた河島さん。最愛の妻、タミ子夫人を失い49日を待たずにその後を追うように急逝した河島さんの訃報に、驚きを禁じ得ませんでした。

■ 46歳の若さでヤマハ社長に大抜擢
河島博さんとの初めての出会いは1977年。第4代ヤマハ(日本楽器)社長川上源一さんの後継社長として就任の時。私がヤマハを辞め、PR会社をスタートさせて10年足らずの駆け出しの30代前半のことでした。

その年、46歳にして河島さんはヤマハの社長に抜擢されました。当時46歳の社長就任は大企業では異例の人事として世間で騒がれました。河島さんは、当時ホンダの本田宗一郎さんの後継者として2代目の社長(現在同社の最高顧問)であった河島喜好さんの実弟。兄弟でライバル会社、ホンダとヤマハの社長となった二人はメディアの注目も集め、とても輝いていました。

日本が高度成長に沸く60年代、ヤマハを世界ブランドに仕立てた川上源一という天才的経営者のもと、実に多彩な人材が輩出されました。その筆頭が河島博でした。66年に河島さんは同社の米国現地法人ヤマハ・インターナショナル・コーポレーション(以下YIC)の上級副社長兼ジェネラル・マネジャー就任のために渡米、その後72年に社長就任。ヤマハグループ企業で川上源一氏以外に始めて社長に就任したのです。

1960年、ソニーやYKKが米国進出した同じ年、ヤマハは楽器とヤマハ発動機のオートバイを統合販売する米国の拠点としてロサンゼルスにYICを設立。河島さんが米国赴任する66年までに米国現地法人を持つ日本メーカーはわずか十数社程度。河島さんは日本で培ったヤマハ的なソフト・ハード両面を押さえた立体的な経営手法とアメリカの合理性を統合し、中・長期戦略に基づく徹底した現地化戦略を展開し、在任中の6年間で売上げを約10倍にする実績を挙げています。「現地生産」や「用途開発」など日本企業現地化の「モデル」を作り上げたとも言われています。

米国での輝かしい成功を収めた河島さんは、74年、本社常務として帰国。その2年後専務へと昇進。77年 1月には第5代社長に46才の若さで大抜擢されました。アメリカ経験の長い河島さんはパブリック・リレーションズへの理解がありました。

当時、取締役広報部長であった佐野雄志(故人)さんの直轄のプロジェクトに従事していた私は、河島さんの社長就任後初の外国メディアによる単独インタビューをアレンジしました。米国ビジネス誌FORTUNEの記者、Chanさんを浜松に同行し、社長室で初めてお会いしたときの河島さんの紅潮した顔は今でも強く印象に残っています。

就任後、同社の経営体制・収益体質を刷新の結果、3年で業績を回復し、3年目の決算では過去最高の経常利益を達成させました。しかし後継者問題に起因する当時の川上源一会長との確執が原因となり、80年6月、本人のアメリカ出張中に突然社長を解任されたのです。社長在任の期間はわずか3年あまりでした。3年目の決算数字は、河島解任後10年を経ても塗り替えられることはありませんでした。

■ 奇跡的なダイエーのV字回復
その後82年、河島さんはダイエーの中内功さんに請われダイエーの副社長に就任。ヤマハ時代、前述の広報部長の佐野さん(79年に48才で急逝)と2人3脚の深い信頼関係結ばれ、広報を経営の中枢に組み込み積極経営を行なっていた河島さんは、佐野さんと親交のあった私を「プロデュースN」というダイエー再生の為の外部ブレーン集団(6名)の一人に起用しました。それが縁で河島さんとは定期的にお会いするようになり、以来さまざまな私の会社の海外クライアント企業のCEOとのビジネス・ミーティングに快く応じてくれました。

そこで私が触れたのは抜群の経営感覚と、スピード感溢れるアメリカ流合理主義。経営危機に陥り有利子負債7千億円を抱え、約65億円の赤字会社を3年で黒字化。数百社におよぶ子会社の経営安定化を実現し、不可能に見えたダイエーのV字回復を見事に実現したのです。2001年、ダイエー再建のために社長に就任した高木邦夫さんは、このV字回復時の河島プロジェクトの中心メンバーのひとりでした。

加藤仁著の『社長の椅子が泣いている』(講談社、2006)によれば、その経営スタイルとは総合立体的経営だったとされています。内容を要約すれば、社会的責任や国際情勢に気を配りながらヒト・モノ・カネを有機的に活用し、様々な交流を通して従業員や取引先、株主など組織を取り巻くパブリック全てが利益を享受できるような経営でした。河島さんはまさに理想的なパブリック・リレーションズを80年代の日本で実践していたともいえます。

87年、河島さんは中内社長の要請を受け、倒産企業・リッカーの社長に就任し、同社の再建に着手。債務536億円をわずか5年で返済し、93年の売上高は350億円とピーク時の6割にまで回復させ、社長の椅子を後にしました。しかし残念ながらリッカーは、有利子負債が膨らんだダイエーの資本・債務再編のため中内社長の一存で同社傘下に吸収。そして97年河島さんの任期満了によりダイエー副会長を退任しました。ダイエーの経営危機が叫ばれ始めたのはその1年後。その後ダイエーは2004年10月には産業再生機構入りし、解体への道を辿っていくことになります。

強烈な個性を放つ2人のワンマン社長に仕えた河島さん。彼は結果を残しながらも、世襲という問題の前に2度にわたって同様な経験をしました。その要因には、株主本位の経営が行われる以前の日本的経営があったといえるでしょう。

河島さんは生前よく「私はテクノクラート(専門知識をもって組織運営する技術官僚)」といっていました。ダイエー時代は、ヤマハでの苦い経験がトラウマとなっていたのか、多くのメディアからの取材申し入れを断り続け、一切メディアに登場することはありませんでした。その意味で、当時の河島さんはメディア価値の最も高い人物の一人でした。

河島さんの構築したビジネスモデルは、グローバル企業のCEOに求められる経営戦略構築とその遂行における迅速な意思決定プロセスなど、現在でも優れた企業経営のなかに多く見いだすことができます。河島さんとの出会いとその後の交流をとおして、身近にその独自の経営観に触れることができ、私にとってビジネス人生のなかで貴重なものとなっています。

最後にお話したのは昨年の秋。電話の向こうで、体調がすぐれないので回復したらゆっくり会いましょうと弾んだ声が返ってきました。

出棺のとき河島さんの顔はとても安らかでした。その時流れていたベートーベンの「月光」が、いつも太陽の影となって生きた彼の人生を象徴しているかのようでとても印象的でした。多くのヤマハ、ダイエー関係者参列のもと、実兄の喜好さんや子供達に囲まれた荘厳なお別れでした。

河島さん、これまでいろいろありがとうございました。あなたのことは今後も永久に語り続けられることでしょう。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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2007年02月03日

日米の架け橋40年、神田幹雄さん
?両国の相互理解に賭けた人生

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか・

私は所属するある団体主催の会に出席するため、1月末から米国ワシントンDCを訪れています。世界の政治の中心地ワシントンで、日米の政治的・文化的交流に尽力する日米文化センター理事長の神田幹雄さんとお会いしました。今回は、日米の架け橋として40年以上にわたり米国で活躍してきた一人の日本人、神田幹雄さんについてお話します。

■ケネディ家との運命的な出会い
神田さんとの出会いは20数年前、共通の友人による紹介がきっかけでした。学生時代にロバート・ケネディ(当時司法長官)を早稲田に招聘した人として関係者の間では知られていた人で、ケネディが好きだった私にとって、同じ大学の先輩であったこともあり好奇心をそそる対象でした。当時の神田さんは、彼が創設した日米文化センターの事業の一環として日米学生論文コンクール(読売新聞後援)や全米日本語弁論大会を実施し、日米間を精力的に往復していました。

神田さんと米国との関わりは40年以上も前にさかのぼります。1963年11月22日、ジョン・F.・ケネディが暗殺されました。その悲報を受け翌12月、彼が設立した学生団体「日本青年国際問題研究会」で、その死を悼む一日がかりの「故ケネディ大統領追悼講演会」がライシャワー大使出席のもと、早稲田大学大隈講堂で催されたのです。この話を聞いた弟のロバート・ケネディ司法長官は翌年1月の来日の際、どうしても早稲田大学を訪問し、先の追悼講演会のお礼もかね日本の若者と接したいと強く希望したのでした。そして歓迎会開催の話が急遽持ち上がりました。

当時神田さんは、早稲田大学、慶応大学、東京大学など東京の大学の学生を中心に構成された前述の研究会の幹事長として、東大の責任者をしていた神崎武法さん(前公明党委員長)などと積極的に活動していたようです。60年代前半は日米安保条約反対を唱える学生運動が盛んだった頃。神田さんは不測の事態を覚悟で米国側の希望を受け入れ、大隈講堂でのロバート・ケネディ歓迎会を同研究会主催で開催することを決心し、その歓迎委員長を務めたのです。かくして64年1月、ケネディ司法長官の大隈講堂での歓迎会が実現。

会場には研究会メンバーの神崎さんをはじめとし、政治家グループの歓迎委員長を務めていた当時まだ気鋭の中曽根康弘さんや早稲田の大学院のクラスメートで議員一年生だった小渕恵三さんたちの顔も見られました。貧乏学生にとって、当日急遽依頼されたエセル婦人とハル・ライシャワー大使婦人へ贈呈する花束を買う余分なお金もなく、大学に頼み立て替えてもらった往時を懐かしそうに語っています。

歓迎会は無事に終わり、このニュースは世界を駆け回りました。これを機に神田さんとケネディ家との交流が始まったのです。その後同年10月、ロバート・ケネディの招きで米国に1ヶ月滞在。ニューヨーク州上院議員に立候補することになった同氏の選挙キャンペーンに同行したのです。最後の子供を身ごもったエセル婦人と共に、1週間同じ車で移動した時は冒険に満ちたものだったようです。当選が確定した日、夜中に始まったプライベートな祝賀パーティでは、お祝いに駆けつけたトニー・ベネット自身がBGMで「思い出のサンフランフランシスコ」を唄い、サミー・デイビス・ジュニアが熱唱するなど、その華やかな光景には圧倒されたそうです。

68年、そのロバート・ケネディ自身も、民主党大統領候補選出のための予備選挙キャンペーン中に銃弾に倒れましたが、彼の亡き後も神田さんと、エセル夫人を初めとするケネディ家との間の交流は続きました。

ロバート・ケネディと言えば、私は1998年、彼に最も風貌が似ているといわれる次男のロバート・ケネディJRが来日時、早稲田大学への表敬訪問をアレンジしたことがあります。彼を大隈講堂の壇上に立たせて、30年以上も前にその場所で彼の父ロバートが講演した事を告げると、彼は、当時の父親の面影を捜し求めるようにその場所にしばらく佇んでいたのがとても印象的でした。

■日米文化センターの残した功績
そして40年程前に神田さんは、政治・経済を抱合した日米間の文化交流を促進させる組織、「日米文化センター」をワシントンDCに創設。その後、米国公益法人の認可を受け日本事務所も構えて精力的に活動を行います。長くウォーターゲート・ビル内にその活動の拠点を置いていた同センターの主な活動は、米国の大統領候補から高校生までの日本招聘、議員交流、都道府県庁職員や大学経営者の米国研修、同センター主催のセミナー、日本語講座などです。なかでも日本語講座には国務省や商務省からも多くの役人が受講し、受講生のなかには商務次官やホワイトハウスの補佐官などの名前を見ることができます。

神田さんは日本の政治力、経済力がまだ弱く米国との間で十分なパイプがなかった時代に、ワシントンで独自の活動を始め、数多くの日本の外交官や政治家を米国議会やホワイトハウスの要人に引き合わせました。その交友関係は極めて幅広いものがあり、現在第一線で活躍している多くの日米の政治家や経済人、文化人との深い関わりが見られます。

大河原良雄さんをはじめとする歴代の駐米大使はもとより、前述の政治家をはじめ、宇都宮徳馬、三原朝雄、福田赳夫元首相、また大学同窓の森喜朗元首相といった人たちともユニークな交流を持っていました。現在国務大臣の高市早苗さんとは、彼女が松下政経塾時代、ワシントン研修で滞在中に同センターでアルバイトをしていたときからのお付き合い。

またジョージ・タウン大学にあった戦略国際問題研究所(CSIS)と共催で、福田赳夫元首相やブレジンスキーなどを交えたシンポジウムを行うなど日米問題に積極的に取り組んだのでした。

なかでも神田さんと沖縄返還実現に重要な役割を果たし、北方領土返還運動の先駆者でもあった末次一郎さん(2001年逝去)との親交は深いものがありました。神田さんがジョージ・タウン大学留学時代、末次さんのワシントンでの沖縄返還実現へ向けたロビー活動に関わったことがあります。陸軍中野学校出身の末次さんは、上下両院外交委員長・院内総務や国務次官との交渉の場面で、媚びることなく独自の論陣を張り相手を説得。同行した神田さんは、日本では数少ない民族主義者でもある末次さんのスケールの大きい立ち振る舞いに深く感銘を受けたそうです。

ちなみに末次一郎さんは日本健青会を創設してシベリアに抑留されていた日本軍人の帰還などの戦後処理活動を積極的に行い、青年海外協力隊の創設に努めるなど戦後日本の国づくりに尽力された方です。彼のことは後日このブログで採りあげたいと思っています。

90年初めには『アメリカの本当の素顔―ワシントン・レポート』を出版(1991年,PHP研究所)。同書はユニークな視点で80年代のアメリカの実像に迫った名著といえます。

ロバート・ケネディとの出会いから43年、神田さんの長年にわたる日米の良好な関係構築に対する貢献の大きさは、2004年東京の日本プレスセンターで開かれた、「日米文化センター創設25周年を祝う会」にロバートの遺児で長男のジョセフ・ケネディJRから贈られた祝辞に象徴されています。

「日本の人々、文化、友情、日米両国の関係が持つ意味について、私たちアメリカ人の理解が深まるよう尽力されてきました。彼ほどアメリカにおける日本の地位を高めてきた人を私は知りません」

神田さんは40年に及ぶ滞米生活にも拘らず、あえて米国籍を取得することなく、日本人としてのアイデンティティを持ち続けています。
ご家族は、アメリカで知り合った令子夫人との間に2人のお嬢さんがいます。令子夫人は30年以上にわたって国連や世界銀行に勤務しており、2人のお嬢さんは国連や日本のJICAの仕事でウィーンやジャカルタで国際公務員として活躍。

体に自信があった神田さんは昨年6月には心臓を患い、米国で19時間にも及ぶ大手術に耐え抜き成功させました。今回は、新年に東京でお会いしてから1ヶ月ぶりの再会。
神田さんの体が順調に回復に向かっている様子に安堵しつつ、健康とこれからも日本と米国を繋ぐ橋渡し役として末永くご活躍されんことを心より祈ってやみません。


来週は、昨年9月にグルーニッグ教授を訪問したのが縁で招聘された、メリーランド大学でのパブリック・リレーションズの特別講義と現地でパブリック・リレーションズを学ぶ学生についてお話します。


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好評発売中の『パブリック・リレーションズ』
(井之上喬著:日本評論社)第2刷が発刊されました!


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2006年09月08日

ハッピー・アイランド、Hawaiiでルアウ・パーティー

こんにちは、井之上喬です。
残暑が続いているようですが、皆さん、いかがお過ごしですか。

皆さんは2重の虹を見たことがありますか?
9月の初め、10数年ぶりに訪れたハワイで私を迎えてくれたのは、大きな弧を描いて山から海へとまたがる二重の虹でした。 その虹は7色の強い光を放ちながら滞在するホテルの部屋から50メートルの眼前に迫ってきました。やがてその巨大で立体的な造形物は、ゆっくりと海から山へ、シャワーと呼ばれる霧雨を連れて島を移動していきました。

大きな弧を描いて山から海へとまたがる二重の虹

その美しさと荘厳さに感動した私がタクシー・ドライバーに尋ねると、ダブル・レインボーは地元の人でも1・2年に一度しか見られないラッキーサインだといって祝福してくれました。

今回は、そんなハッピー・アイランド、オアフ島からハワイアン・ルアウパーティのお話をお届けします。

■月光と満天の星を仰ぐガーデン・パーティ
9月4日、「早稲田大学ナレオ稲門会」創設10周年を記念してハワイアン・ルアウパーティが開かれました。1927年、ワイキキ・ビーチにオープンした「 ピンク・パレス」と呼ばれる歴史的なホテル、ロイヤルハワイアン・ホテルのオーシャン・テラスで行われたパーティには、 総勢200人近くが集まり、本場の華やいだトロピカルな空間でハワイアンを楽しみました。

司会はナレオOBの露木茂さん。日本からは、家族や友人を伴った総勢140人を超える老若男女。そして大学の白井総長も駆けつけてくださいました。地元稲門会との交流会も兼ねたこのパーティにはハワイ稲門会の中村幹事長以下、30人ほどのメンバーも参加。地元出身のプロ・ゴルファーのデイビッド・石井さんもお祝いに足を運んでくださいました。

特設ステージでのハワイアン演奏やフラダンスで場内は盛り上がりをみせ、白井総長も飛び入りで「ブルーハワイ」を唄い大喝采。元グリークラブでバスを担当していた当時と変わらない張りのある素晴しい声を披露してくださいました。色とりどりの花飾りや衣装を身に着けて、各々が思い思いの時間を心行くまで楽しみました。

■パワフルな仲間たち
今回は偶然にも、ホノルルで長期滞在していた日本広報学会の仲間に会いました。早稲田OBで大学助教授でもある彼を誘い、 前日にヨット・ハーバーで行われたパーティに一緒に参加しました。音楽とはあまり縁がなかった彼も楽しんでくれたようです。

4年前から始まったこのツアーに、今回、私は初めて参加しました。そこで感じたことは稲門会のパワーです。まだまだ現役で活躍し人生を謳歌しているメンバーから発せられるエネルギーは相当なもので、その力強さには改めて驚嘆させられました。

1980年代、毎年1月ホノルルで開催されるPTC(太平洋電気通信協議会)の総会にメンバーとして出席していた私にとって、ハワイでの3日間は想い出深いものとなりました。

滞在中にさまざまな人と接し、語らい、久しぶりに日常から離れ、リラックスした休暇をゆっくり過すことができました。これも、ホスピタリティ溢れるハワイの人々や大自然のなかで悠久の時を刻むハワイアン・タイムのおかげかもしれません。

Aloha and Mahalo(さようなら&ありがとう)
また、この島に戻ってくる日を楽しみに…。 


PS:来週はボストンに飛び、1947年米国で初めてパブリック・リレーションズ学部を創設したボストン大学でパブリック・リレーションズの教鞭を執る、Dr. Otto LervingerとDr. Don Writeの二人の教授のお話をします。

投稿者 Inoue: 15:46 | トラックバック

2006年04月21日

?第5の経営資源?
「パブリック・リレーションズ」出版記念パーティ開催!

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか?

4月17日、日本プレスセンターで「パブリック・リレーションズ」の出版記念パーティを開催しました。

当日、出版元の日本評論社から、発売の第1週に丸善本店でビジネス書部門第8位、続いて神田の旭屋で同じく第5位にランクインされたとの報告を受け、順調な滑り出しに勇気づけられオープニングを迎えました。


■小川さんのジャズピアノで
会場となったレストラン・アラスカでは、大きな窓から日比谷公園の緑を満喫することができます。演奏に駆けつけていただいたピアノの小川理子さんとベースの小林真人さんのデュオによるジャス演奏は、さながらニューヨークを想いおこさせてくれました。

発起人代表である片方善治(情報文化学会会長)さん、石村和清(ヤマハ相談役)さんの挨拶を皮切りに、早稲田大学大学院教授の北川正恭さん、アメリカンファミリー生命保険の創業者兼最高顧問の大竹美喜さん、作家の猪瀬直樹さんなどからのご祝辞をいただきました。いずれも日本が必要としているパブリック・リレーションズの将来への期待と暖かい励ましのお言葉でした。

皆さんのスピーチのなかには、第5の経営資源ともいえるパブリック・リレーションズの機能と役割、そしてその学問的な位置づけなどが触れられていました。この本で私の意図するものへの理解と、パブリック・リレーションズの可能性に多大な期待をお寄せいただいていることを改めて知らされ、深い感銘を受けました。

■200名の人達に囲まれて
会場には、日頃から個人的にお世話になっている方々、高校時代や大学時代の友人、早稲田大学や、PR業界関係者、取引先の皆様など、財界、政界、官界、学会などさまざまな分野から200名近くの方々にお越しいただきました。なかにはニューヨーク、ワシントンDC、ソウルなど海外から遠路お祝いに駆けつけてくださった方もいらっしゃいました。

出席されなかった方で、IPRA会長のチャールズ・ヴァン・デル・ストラッテン男爵や映画監督の大林宣彦さんなどからも祝電をいただくなど、多くの方々から心強いメッセージをいただきました

なかでも、とりわけ嬉しかったことがありました。それは私の長年の友人で、2年前に亡くなった高崎望さんの奥様の絢子夫人が出席してくれたことです。私をアカデミックな世界に導いてくれた高崎さんの存在を近くに感じながら、夫人と共に喜びを分かち合えたことを心より感謝しています。

このブログを読まれている皆さんと何よりも喜びを共有したかったことは、当日会場で感じられた「パブリック・リレーションズに対する大きな期待とある種のエネルギー」でした。会場は、さながら「パブリック・リレーションズに満ちあふれた空間」が出現したような、そんな独特の雰囲気に包まれていたような気がします。

翌朝、前の日にわざわざ駆けつけ祝辞をくださった大学時代のナレオハワイアンズの先輩、浅井愼平さんから電話がありました。そのなかで、「日本ではこれまでパブリック・リレーションズが学問として研究されてこなかった」ことや「日本導入の際に、パブリックを『公共』と訳したのが間違いだった」こと、そして「パブリック・リレーションズという、日本社会にない概念を導入することの難しさ」など、日本のパブリック・リレーションズについてご自身の考えを真剣に語ってくれました。慎平さんと音楽以外の話でこんなに盛り上がったのは初めてだったかもしれません。

その後、嬉しいニュースが飛び込んできました。パーティ参加をきっかけに、ある外資系企業の社長が「パブリック・リレーションズは企業経営に役立つ」と理解して、幹部研修用に「パブリック・リレーションズ」の本をマネージャー・レベル以上に支給すると決定したという知らせでした。

まさに、ひとつの「集い」が新しい何かを生み出すきっかけとなることを実感した瞬間でもありました。日ごろ北川さんがおっしゃるバタフライ効果のように、パブリック・リレーションズに対するエネルギーがじわじわと日本列島に広がっていくことを願っております。

そして何よりも発起人の方々やお忙しいなか会場までお越しくださった多くの方々に支えられ、素晴らしいパーティを開催して頂いたことを心より感謝します。当日、十分なおもてなしができなかったことをお詫びすると共に、これからも何卒ご支援賜りますようお願い申し上げます。

投稿者 Inoue: 18:52 | トラックバック

2006年03月31日

春爛漫、桜の季節に思いをはせる

こんにちは、井之上喬です。
いよいよ本格的な春の到来。桜が美しく咲き乱れる季節となりました。皆さん、いかがお過ごしですか。

日本の国花として愛される「桜」。古くは万葉集や古今集に歌われ、今も春の訪れを告げる花として多くの人に親しまれています。桜の雅やかな姿を愛でて楽しむお花見も日本の美しい文化のひとつです。

■恒例の新宿御苑でのお花見パーティ
私のオフィスは新宿御苑から歩いて数分のところにあるので、従業員のみなさんとの御苑でのお花見は毎年恒例となっています。今年も3月29日に桜の会を開きました。真昼の広い公園に光り輝く美しい桜の木の下の芝生で、皆でお弁当を広げてビールやワインなどで乾杯しながら日本の風情を味わいました。

新宿御苑といえば東京の桜の名所として知られています。2月の寒桜から3月にはソメイヨシノ、4月下旬のカスミザクラまで約2ヶ月のあいだ、約75種1500本もの桜が次々に花開き私たちの目を楽しませてくれるのが魅力です。

約17万6000坪の敷地はもと高遠藩内藤家の下屋敷があったところで、1879年(明治12年)に新宿植物御苑となり皇室の園遊会などに使われていました。第二次大戦後に一般に解放され、現在は国民公園となっています。

新宿御苑に面した通りには素敵なレストランがいくつかあります。なかでも「ラ・ボエム」というイタリアン・レストランは、高い吹き抜けの、公園側が天井までつづく一面ガラス張りのお店で、その向こうに青々とした木々を仰ぐことができます。さながら森の中のレストランといった感じです。その他にも有機素材を食材につかった、可愛らしいモダンな雰囲気の中華レストラン「礼華」や大木戸門入り口前の洋食レストラン「自由軒」など、緑を楽しみながらお食事がいただけるお店で、お花見の余韻を味わいながら食事をされるのも面白いと思います。

新宿御苑では今週末から来週にかけてソメイヨシノが満開を迎えるそうです。ちなみに開園時間は朝9時から午後4時まで(閉園は午後4時30分)で入園料は200円。通常は、毎週月曜が休日(月曜が祝日の場合は、その翌日)となっていますが、3月25日から4月24日までは特別開園期間で毎日開園。桜の清楚で雅やかな魅力を新宿御苑で味わうのも良い思い出になるかもしれません。

■思い出に残る、アップルの人たちとのお花見
この季節になると毎年ある光景を思い浮かべます。それはいまから20数年前、私の会社井之上パブリックリレーションズのオフィスが九段にあった頃のこと、当時クライアントであった米国アップル・コンピュータ社の日本法人(アップル・ジャパン)設立準備オフィスとして九段の事務所を提供し、サポートをしていました。そんな関係で、今は亡きアップルの福島正也さん(日系二世で初代アップル・ジャパン社長、2002年逝去)や米国本社から派遣され法人設立責任者のビル・ションフェルドさんなどと、オフィス脇の千鳥ヶ淵で満開の夜桜を楽しみながら、すき焼きパーティをしたときのことです。すき焼きの匂いに引き込まれた通りすがりの人たちが私たちの宴席に加わり、陽気なアメリカ人と飲んで食べて歌ったことを昨日のように想い出します。


最後に、心に残った桜の歌を一句ご紹介します。


「見渡せば 春日の野辺(のべ)に 
  霞(かすみ)立ち 咲きにほへるは 桜花かも」 
   詠人知らず 『万葉集』巻十 1872

投稿者 Inoue: 15:30 | トラックバック

2005年12月23日

稲畑産業前社長、故稲畑武雄さんを偲んで

去る12月1日、稲畑産業株式会社の前代表取締役社長であった稲畑武雄さんが、今春からの闘病の末、肺がんのためこの世を去りました。享年67歳でした。

稲畑さんとの出会いは今から7年前、赤坂にあったジャズ・クラブ「ボッカチオ」に置いていた私のヴァイブラフォーン(ヴァイブ)が、同店の銀座移転に伴い、移動されたのを機に久しぶりにその楽器に会いに、はじめて銀座・ボッカチオに行った時のことでした。

お店に入ったとき、あるジャズ・バンドが演奏していました。小柄で痩身に大きなバリトン・サックスを抱え込むようにして吹いている人に目がいきました。その奏者が稲畑さんでした。そのジャズコンボは、ビックバンドとして6大学で名を馳せた慶応大学ライトミュージック・ソサエティ(俗称:ライト)のOB仲間で結成されたバンドで、毎週火曜日の夜にそのジャズ・クラブで演奏していたのでした。

その夜、ヴォッカチォで稲畑さんを初めて紹介されたのですが、「稲畑産業、稲畑武雄」の名刺をいただいたときはとても驚きました。それは以前、稲畑さんの従弟にあたるNPO団体、地球ボランティア協会(GVS)専務理事の稲畑誠三さんの紹介で、武雄さんのお兄様で、稲畑産業社長(現会長)をやっておられた稲畑勝雄さんとお会いしていたからでした。ペルーの日本大使館人質事件で仲裁人をしていたシプリアーニ大司教来日の際、滞在中の世話役をしていたGVSの依頼で同大司教に同行し、大阪で紹介されたのです。そんな関係で、武雄さんとは初対面でしたが、共通の話題で時間の経つのも忘れるほどでした。

稲畑さんとはボッカチオや、その後移動した六本木のジャズ・クラブ「ファースト・ステージ」などで顔を合わせる機会があえば、ライトOBバンドに私のヴァイブを加えてセッションをやらせていただくなど楽しませていただきました。

ご本人とは高校(甲南高校)時代のスポーツ(野球:ピッチャー)の経験や音楽、また社会的価値観などで共有できるものを多く感じていました。

最初にお会いしてから暫くして、稲畑さんから「井之上さん、うちの会社で是非パブリック・リレーションズを採り入れたい」と相談を受けました。日本の上場企業の社長の口から「広報」ではなく「パブリック・リレーションズ」という言葉をはじめて耳にしたとき、大きな驚きを覚えたものです。それ以来、お仕事をとおしてのお付き合いもさせていただき、稲畑産業の新しい企業創造のためにPRの専門家としていろいろと関わらせていただきました。どれもこれも今は懐かしく想い起こされます。

稲畑産業株式会社は、創業明治23年(1890年)、115年の歴史をもつ東証一部上場の商社です。現在の従業員数は約2,500人、世界の約50の地域を拠点に事業を展開しています。稲畑武雄さんは5代目の社長として1998年に就任し、亡くなるまで現職にありました。

創立者である御爺様の稲畑勝太郎翁は明治時代のフランス留学時に出会った映写機シネマトグラフ(1895年フランスのオギュースト・リュミエール、ルイス・リュミエール兄弟により発明)を日本に初めて輸入紹介した人として知られています。1897年、この映写機で日本初の映画上映をしたのも勝太郎翁でした。

稲畑さんの経営手法はアメリカのCEOを彷彿とさせるもので、重要案件には本人が直接かかわり、強いリーダーシップでビジネスを推進するといったものでした。社長在任中はきたるべくグローバル化に備え海外事業やIT事業に傾注し、そのリーダーシップを遺憾なく発揮されました。また人材も、日本人従業員だけではなく国籍、皮膚の色、男女、年齢、宗教のわけ隔てなく新しい「稲畑人」を養成し積極的なビジネスを展開されました。

最後にお話したのは9月の終わりでした。ご自身のご病気についてあまり深刻にお話しされる様子もなく、「いずれ回復したら食事をしましょう」と交した言葉が最後でした。お会いできるのを楽しみにしていた矢先の突然の訃報は衝撃でした。遣り残していることがまだまだあったのに本当に残念です。会社は新社長の稲畑勝太郎さんのもとで、武雄さんの敷かれた路線を立派に引き継いでいかれることでしょう。

数年前の夏に、稲畑さんは治子夫人と同伴で私の学生時代の音楽クラブ、「ナレオ」恒例のディナー・ショーに来ていただき共に学生時代に戻り往時を懐かしんだものです。

稲畑さんはとてもまじめで誠実な人でした。告別式は12月6日、四谷のカトリック「聖イグナチオ教会」で行われました。棺の前で最後のお別れをしたとき、その透き通った御顔はまるで眠っているかのようにとても安らかでした。

稲畑さんとお仕事をすることができ幸せでした。オフィスで冷静沈着に行動するその姿と、ジャズ・クラブで、テナーとバリトン・サックスを器用に持ち替えて演奏を楽しむ姿がいまでも瞼に強く焼きついています。

稲畑武雄さん、いろいろありがとうございました。安らかに神様のみもとに行かれますように…。

* 明日はクリスマス・イヴです。クリスマスにちなんで特別号を発行します。

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2005年08月29日

「水しぶきのなかの青春」―湘南高校との想い出―

数年前の5月、私の所属する日本パブリックリレーションズ協会のパーティで、体格のがっちりした白髪の口髭をたくわえた同年輩の紳士から「イノウエ・エースケさんですか?」と尋ねられました。 突然の「エースケ」…。私を個人的に知っている高校時代の友人や知人の間でしか使われていない、社会に出てほとんど使われることのなかったこの名前の響きに戸惑いと懐かしさを感じながら「そうですが…」と答えました。「ひょっとすると、昔、立川高校の水泳部で泳いでいたA助さんですか?」。当時、都立立川高校の水泳部には同じ学年の男子部員でイノウエ姓を持つそれぞれA、B、Cの三人の「助さん」がいたのです。私を40年前に突如タイムスリップさせてくれた、この日焼けした紳士は中島邦信さんといって、一学年下で神奈川県立湘南高校の水泳部で平泳ぎを得意としていた人だったのです。

私にとって、毎年会場を交互に使い開催される湘南高校との対抗戦は、水泳に青春を捧げた高校時代の想い出の中でも特に忘れがたいものでした。中島さんは、湘南高校水泳部で当時立川高校との水泳の対抗戦のことを懐かしそうに話してくれました。

高校一年(昭和35年)の夏に開催された対抗戦は立川で行われました。そして、二年の夏の対抗戦は湘南のプールでした。男子部員だけの私たちは、この湘南での対抗戦に大きく期待を膨らませていたのです。「湘南に行くとかわいい女子生徒が試合の後に美味しいカレ?ライスを作ってふるまってくれるよ」と先輩諸氏が、いつもカルキの匂いがする立高プールでの練習の合間に、話をしてくれていたからでした。そして純真無垢な少年たちは緊張感と熱いものを身に感じながら湘南高校へのりこみました。

海にほど近い、小高い丘の上にある高校は明るい鮮やかな緑に映え、片側に土手があるプールサイドはとても眩しくみえました。試合後の歓迎食事会は期待どおりエプロン掛けの女子生徒による心づくしのカレーが用意されていました。試合後の腹を空かした選手達にとってそれは最高のもてなしでした。

私の高校時代は水泳そのものでした。しかし社会に出た今でも心の何処かに持ちつづけるある種の不完全燃焼感があります。私は高校二年の夏頃から密かに、64年(大学二年の年)の東京オリンピックに出場する夢を抱いており、できうることならば当時山中毅を始め多くのオリンピック選手を擁していた早稲田大学に入り、よき指導者を得て、そこから出場することが最適と考えていました。

しかし、公立校でのスポーツ環境を考えると心は焦るばかり。この時間との戦いに押されるように、高校二年の三月、先輩の紹介で東伏見にある早大水泳部〈稲泳会〉の合宿所に通うことになりました。シーズン始めの合宿所はランニングをしたり、コース・ロープのない波立つ長水路(50m)プールでめいめいが自分の泳ぎをチェック。

多くのオリンピック・スイマーに囲まれての練習は胸ときめくものでしたが、この合宿所で私の自由形 (クロール)は使い物にならないものとなったのです。当時、世界のクロール泳法は、腕を水中で直線状に素早くかききるアメリカ型ピッチ泳法(当時一過性で流行った泳法)が主流。コーチに言われるまま、私の泳法は日本人には向かないその泳法に改造され泳ぎがガタガタになってしまいました。卒業後暫くして判ったことですが、私のそれは、現在世界で取り入れている泳法、つまり大きなストロークで腕を体の中心から大腿いっぱいまでかき切る泳法だったのです。

その後、高校と大学合宿所との往復や受験期の精神的なストレスで体調を崩し、三年になって急速に水泳への情熱を失ってしまいました。

結局その夏のインターハイの関東大会へは400m個人メドレーで出場しましたが、17歳の私の夢ははかなく潰えてしまいました。

中島さんとの出会いはそんな40年前の記憶をカルキの匂いと共に蘇らせてくれたのです。彼からありがたくも、その年の8月、湘南高校水泳部の70周年の総会に招待され、プールで一緒に競泳するなど心温まる歓迎を受けました。高校時代たった一度の訪問でしたが、なだらかな丘陵にある懐かしい校舎や、そのたたずまいは、水しぶきのなかで青春を分かち合った同輩・諸兄との再会をよりノスタルジックなものにしてくれました。

現在、公共広告機構の常務理事をしている中島さんとは、以来時々お会いしては往時の懐かしい想い出を語り合っています。

個人競技の水泳は、ある意味で孤独で忍耐を必要とするスポーツです。水泳で培われた経験があってこそ、新しい分野であるパブリック・リレーションズの仕事を長年続けることができたのだと感謝しています。

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2005年08月01日

「千の風」になった高崎望さんを偲んで。
 ?偉大な戦略家との25年

昨年7月24日に亡くなられた高崎望さんの一周忌をむかえ、7月23日土曜日に偲ぶ会がひそやかに開かれました。

高崎絢子夫人から杉並区久我山にあるご自宅に招かれた人たちは、学生時代の友人で日本電信電話公社(NTT)で同期生だった元NTTドコモ社長の大星公二さん、同じく学生時代からの友人でNTTの同期生、現在中央大学教授の浦山重郎さん、神田外語大学名誉教授の古田暁さん、そして私の4人で、生前の高崎さんとのいろいろな思い出を語り合いました。

高崎さんは、とても一途な人でした。東京大学時代に、法学部の全学連のリーダー的役割を果たしたことがある情熱家で、思いついたら昼も夜も関係なく24時間集中して、エネルギッシュに仕事を進めていく、そんな人でした。

物事を組み立てていく上での戦略的思考には目を見張るものがあり、その高い見識に加え、情報収集・分析力、洞察力、緻密なシナリオ作成力、そしてフレキシビリティと危機管理能力など戦略家としての必要な要件をすべて兼ね備えた人といえます。一回り以上も年の離れた私にとっては、良き友人であり、先輩、そして何よりもパブリック・リレーションズの良き理解者でした。
  
駐日大使をしていたエドウィン・ライシャワー(ハーバード大教授)さんとは、高崎さんの母上の代から親戚づきあいをしており、そこから得られた米国知日家の人脈は相当なものでした。また、NTT時代にマサチュセッツ工科大学(MIT)への留学経験がある高崎さんは国際通で、日本と諸外国との間に横たわる問題に精通したきわめてユニークな情報通信の専門家でした。

高崎さんとの最初の出会いは、1980年、高崎さんがNTTから電気通信総合研究所へ出向していた当時、私がアメリカの国内衛星や地域衛星の情報に明るいということで面会を求められたのがきっかけでした。高崎さん、49才、私が36才のときでした。以来、高崎さんとは実に多くのプロジェクトを共にすることになります。

知り合った頃の高崎さんは、後に第三次中曽根政権の外務大臣になる倉成正さんの筆頭ブレーンとして情報通信分野で活躍していました。大型通信衛星を利用した衛星通信の導入の推進役を担っていて、1980年、当時の米国情報通信局局長のジョン・イエーガー氏と共に、電気通信の普及拡大を目指したNGO組織、PTCを設立(太平洋電気通信協議会、本部:ホノルルhttp://www.ptc.org)し副理事長に就任していました。私も高崎さんの勧めでその創生期にPR業界からは異例の参加で、彼と共に、80年代前半、日本の大型通信衛星による衛星通信の導入に向けて仕事をしました。

高崎さんは、通信市場の規制緩和と国際化のうねりの中で、日米折衝の最前線に身を置き、80年代初頭における日本の通信政策の実質的なドラフトを描いた人でもあります。

日米の経済関係が逆転した80年代前半、アメリカは強烈な対日プレッシャーをかけてきました。対日貿易不均衡のなかで激化する日米通信摩擦では、当時、離島や災害対策用の通信衛星(重量:数百kg)しか導入していない日本に対して、アメリカは大型通信衛星の購入を要求してきました。ロビーレベルでの折衝をおこなっていた高崎さんは、難色を示す日本政府に通信市場の開放と大型衛星導入を強く迫った、米国のオルマー商務次官と気魄せまるやり取りをし、もはや高崎さんなしには通信政策は語れないほどになっていきました。

そんな中、高崎さんは、NTTが推進する光ファイバー主体のISDN構想に対し、日本の経済発展を鑑み、大型通信衛星導入(重量:2?4トン)による国内・国際通信ネットワークの必要性を唱え、その実現に奔走したのでした。この頃の高崎さんはもっとも輝いていたといえます。

1982年に起きた日立IBM事件では、彼と親交の深かったIBMの中興の祖、トム・ワトソン・ジュニア(ケネディ時代の駐ソ大使でもあった人)や当時のIBMオペル会長に対し、日本の立場を擁護しつつ適切なアドバイスを行ったり、通信業界の人脈を生かし、翌年の両社和解へ向かう布石を打ちました。通信の世界のネットワーク力は通常のビジネス分野のそれより強固なもので、高崎さんの持つ世界的で豊富な人脈には目を見張るものがありました。

日米半導体摩擦、自動車摩擦のときに、私がアメリカ側のパブリック・リレーションズのコンサルタントとして関わっていたときに多面的なアドバイスをくれたのも高崎さんでした。

考えついたら深夜の2ー3時、明け方の4ー5時、まさに夜討ち朝駆けでよく自宅に電話があったものです。一度、問題にとり組んだら驚異的な集中力でその解決のために考え、奔走する高崎さん、それもこれも今は懐かしく思い出されます。

NTTの後、三菱電機に移籍し、宇宙通信事業部の責任者として進藤貞和会長へのアドバイスや、FSX(次期支援戦闘機)などで三菱グループのワシントンにおける対米ロビーイングに関わるなど、戦略家高崎望は縦横な働きをしました。

その後三菱総研顧問を経て、いくつかの大学で教鞭をとっていましたが、最後の大学は、神田外語大学でした。同大学の異文化コミュニケーション所長、古田暁さんの取りはからいで学生に慕われる名教授として、定年までその指導にあたりました。高崎さんの招きでたびたび授業でパブリック・リレーションズを教えたものです。

一昨年の秋に急に体調を崩し、病院で急性白血病と診断された時の高崎さんの精神的ダメージは相当なものでした。周囲の人もみな驚き、高崎さんの病気を知ったハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲルさんや中曽根元首相など近しい方々も心配のあまり、無菌状態の高崎さんの病室を訪ねるほどでした。

亡くなる前の4ヶ月間、私は毎週末、駒沢にある病院にお見舞いにいきました。ちょうど早稲田大学で教鞭をとり始めた頃のことで、大学での授業の話をすると、どんなに辛くてもいつも嬉しそうに聞いてくれました。早稲田大学で教えることが決まったときに真っ先に喜んでくれたのも高崎さんでした。

幼少のころから、高知の桂が浜で太平洋の彼方を望んで立つ坂本竜馬の銅像をみて育った高崎さんは、自由奔放で少年のような心を持った人でした。亡くなる前には、高校まで過ごした郷里にたびたび思いを馳せていました。

後にも先にも、高崎さんのようなグローバル・スケールの戦略家に出会ったことはありません。

そんな高崎さんと25年間親しくお付き合いできたことをとてもしあわせに思います。

山桜が満開だった今年の4月、西多摩霊園で高崎さんの納骨式がありました。太陽が桜の花びらにきらきらと光り、眩いばかりの空のもと、親戚の方々と生前親しかった友人たちが集まりました。

納骨式では、プロテスタントの信者であった高崎さんの所属教会(長老派)の牧師さんが故人への永遠の霊魂のためのお祈りを捧げました。そのときに読み上げてくださった一編の詩「千の風になって」をきいたとき、高崎さんとの四半世紀にわたる数々の想いが一気にこみ上げてきました。

最後に、皆さんとシェアするために、その詩をご紹介したいと思います。




千の風になって
a thousand winds
作者不明 日本語詩 新井満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています

あの 大きな空を 吹きわたっています




高崎さん、天国で安らかにありますように─。

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2005年07月04日

創立35周年、私をPRの世界へ導いてくれた二人の先駆者

1970年の今日、7月4日に創業した株式会社井之上パブリックリレーションズは満35才を迎えます。

7月4日は、皆さん御存知のアメリカの独立記念日にあたりますが、その独立宣言を起草したトマス=ジェファソン(Thomas Jefferson 1743-1826)こそ、最初に「パブリック・リレーションズ」 という言葉を彼の選挙キャンペーンのなかで使った人と言われています。アメリカで登場・発展したパブリック・リレーションズの会社を奇しくも同じ日に創業したのは、偶然とはいえ何かの導きがあったのでしょうか。

当初は、大学時代に活動した音楽クラブでのプレーイング・マネジャーとしての経験を生かし、漠然と企画会社をイメージして会社をスタートさせましたが、その後PR業界に身をおくことになりました。振り返ってみれば、2人の人物から影響を受けたことがそのきっかけとなったような気がします。

最初の人は、電通PRセンター(現電通パブリックリレーションズ)を創業(1961?)した永田久光さんです。三鷹の実家のお隣さんで、私にとっては「永田の親爺さん」という存在でした。高校時代には事あるごとに声をかけられ「PR」について話をしてくれたことを思い出しますが、PRが何を意味するのか当時の私には全く解りませんでした。しかし、今にして思うと頭のどこか片隅にPRという言葉が残っていたのかもしれません。

その後、永田の親爺さんと再会したのは、1970年に私が会社を設立した年のことでした。大学卒業後、就職先のヤマハを退社し、会社設立のために渋谷区神宮前のマンションビルにオフィスを構えたとき、偶然にもそこで出会いました。電通PRを退社し独立して、同じビルの2階で「ジャパーク」という会社を経営されており、重厚な社長室に時折訪ねたときに、いつもPRについて熱く語っておられたのを思い出します。大柄でがっちりした風貌と、エネルギィッシュな立ち振る舞いは強烈な印象を周囲に与えていましたが、その後間もなく急逝されました。まだ働き盛りの50代、志半で去っていかれたことを思うと残念でなりません。

2人目は、コスモPRを経営されていた佐藤啓一郎さんです。コスモPR(1960?)は日本のPR会社の草分けともいえる会社で、最初の出会いは、私が25歳ぐらいのときでした。関連会社に、大宅映子さんたちが創設した日本インフォメーション・システム(NIS)というシンクタンク会社があり、国内企業を中心に幅広いPR業務をおこなっておられました。

佐藤さんはもともと日系アメリカ人で英語を自在にあやつり、外国メディアとの交流にも積極的で、よく原宿の自宅でホーム・パーティーを開いていました。仲間と誘い合いよくお邪魔したものです。おおらかで、いつも聞き役に徹するダンディな方でした。

当時、佐藤さんの会社が、米国の「LIFE」誌でユージン・スミスという著名カメラマンを使い日立製作所の紹介のための特集を実現させた話は有名でした。PR会社としてとても輝いていました。「PRでこんなことができるのか」と大変感心したのを覚えています。私がPRの世界に入る決心をしたのは丁度この頃だったと思います。50代で急逝した佐藤さんの遺志は、現在、当時まだ小学生だったお嬢さんの久美さんが立派に引き継いでおられます。

お二人とも若くして急逝されましたが、そのことが日本のPR業界の発展に多少なりともブレーキがかかったといっても過言ではありません。またお二人とも実家がお寺だったようで、パブリック・リレーションズ・ビジネスの精神性との関わりの深さと重要性を考えずにはおられません。

長年、パブリック・リレーションズの世界に身を投じている立場から想うことは、現在露呈している日本の社会、政治、経済におけるさまざまな問題は、パブリック・リレーションズなしにその解決はあり得ないということです。

その後私が、なぜこの業界を自身の職業として選び、邁進してきたかを来週お話したいと思います。

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2005年06月13日

個性豊かな人生を自らの選択でかたち作ってきた、宮川秀之さんを囲んで

先週金曜日の夜、イタリアから戻ってきていた宮川秀之さんのために、知人の小河原正己さんの呼びかけで「宮川さんを囲む会」が開かれました。芝の大門にある焼肉屋さんでの会は私にとって半年振りの再会でした。

宮川さんは、世界的なカー・デザイナーであるジウジアーロと共に、イタリア・カーデザインの世界で新しい道を切り拓き、日伊の産業交流に長く貢献された人です。

今回の来日は、宮川さんが経営するスポーツ・マネージメント会社コンパクト社が手がけるイタリアの名門サッカー・チームで今季のセリエ・Aで優勝した「ユベントス」の日本での親善試合開催のためで、2人の息子さんと総勢40名を超えるチームの責任者として東京に滞在されました。

宮川さんと初めてお会したのは昨年12月で、今回の囲む会の世話役で元NHKプロデューサーの小河原正己さんにご紹介いただいたのがきっかけでした。

最初に小河原さんから、「ジウジアーロと長くパートナーを組んできた人」として紹介されたとき、70年代の日本のスーパーカー・ブームを思い出しました。なぜなら、ジウジアーロはその時代日本で大流行した、ランボルギーニ、フェラーリ、マセラッティ、ポルシェなどのスーパーカー・ブームの中心にいた著名なカー・デザイナーだったからです。そしてそのパートナーがなんと日本人の宮川さんであったことを知りとても驚きました。車好きだった私にとって、そんな宮川さんに個人的に興味を持ちました。

宮川さんの歩んだ人生は大変興味深いもので、早稲田大学在学中の1960年、中学時代から好きだったオートバイで世界一周旅行へ飛び出し、途中立ち寄ったイタリア、トリノでマリーザさんという女性と恋に落ち、そのままイタリアに住みついてしまいました。

運命的な出会いをしたマリーザさんとの結婚後、1965年にカー・デザイナーであったジウジアーロと知り合い意気投合。宮川さんは、1967年にはイタルデザイン社の前身となるイタル・スタイリング社を設立し、それ以来、ランボルギーニ、マセラーティやアルファロメオ、また日本車では当時話題を呼んだいすゞ117クーペなど数々の名車を世に出しました。

その後、前にも紹介したように、2人の息子さんと一緒にスポーツ選手を中心としたマネージメント会社コンパクト社を設立し、サッカー・チームや選手のマネージメントを行っています。今回来日のユベントスやキャプテンのデル・ピエロ、F1ドライバーのジャン・アレジなどのマネージメントを、総勢90人を超える社員が手がけています。

福祉活動にも積極的で、2003年の暮れに急逝された奥様のマリーザさんとともに、カトリック精神にもとづき、愛のある大家族をめざして、数々のすばらしい活動をされてきました。4人の実のお子供さんの他に、韓国やインドなどから4人の子どもを養子、里子として受入れ育て上げたことや、ザンビアのハンセン病患者の子供4人を里子にして養育費を送ることなどもその考えに基づくものです。

1994年からは、毎年、日本の不登校やひきこもりの子供たちを自分たちの農園に40日間預かり、自然の中で、仲間たちと共に働き、学び、生きる喜びを知ることで個々の自立を促すプログラム「ニュー・スタート・プロジェクト」を提供していました。

20年前、トスカーナの10万坪の水辺のある土地に、ワイン農園(ブリケッラ農園)を開き、有機農法による最高品質のワイン作りにも力を注いでおられます。一昨年の秋から娘さんの志づ子さんが日本に常駐し、自分たちが作ったイタリア・ワインの日本での紹介に努めています。

宮川さんの家族の間で一番大切にしているのは、お互いのコミュニケーション。毎日一度は家族同士で電話しあい、互いの所在や状態を確認する。問題が起こったときにはお互いが率直に対話して結論をだす。このようなオープンで双方向のコミュニケーションを通して、家族の絆がより深まっていくのだといいます。

この信頼関係が基盤にあるからこそ、「古い世代の親が自分の考えを子に押し付けるのではなく、新しい世代の子供が自分なりのアンテナで考え、最終的に自己責任により自らの行動をとる」といった人間教育が成り立つのかもしれません。

こうした宮川さんの、個としての人間の素晴らしさを深く理解し、個の中に既にある豊かな人間性を引き出すことに情熱を持って取り組む姿勢に深く感銘を覚えます。

宮川さんの生き方には共感する部分が多くあります。私が、現在大学で教鞭をとっているのも、健全な社会の発展には、個がしっかりしたバックボーンとパワーを持つことが極めて重要ですし、そのための教育が不可欠だと信じているからです。

宮川さんのこれまでの長い人生をとおして出来上がった確固としたモットーは、「プロセスを楽しむ(process-enjoying)こと」。つまり、「人生は山あり谷あり。けれども、志を持って臨めば、深い谷にいるときにもそれを受け入れることでプロセスそのものを楽しむことができるようになる。そしていつか必ず山に登ることができる」。

これからも、宮川ファミリーの日本とイタリアを繋ぐ橋渡し役としての活躍を楽しみにしています。

投稿者 Inoue: 14:00 | トラックバック