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2017年07月04日

創業から半世紀に及ぶ井之上PRのヒストリー
〜私の回想を基に前・中・後編の3部作で紹介

皆さんこんにちは、井之上 喬です。

今日(7/4)は、私の経営する会社(株式会社井之上パブリックリレーションズ:井之上PR)の創立47回目の記念日。夕方から昨年末移転した新オフィスのバルコーニを主会場に社員、そして日頃から親しいお付き合いのある方々をお招きして、お祝いします。今から楽しみです。

また、タイムリーに私の回想に基づいて創業から半世紀に及ぶ井之上PRのヒストリーの3部作が順次ネット上にアップされ、先週末に最終回(3作目)が公開されました。当社HP( http://www.inoue-pr.com/ )からも、また、このブログ中見出しの下に記されるサイトから直接全容を閲覧することもできます。

長年にわたってパブリック・リレーションズ(PR)が組織体にとって重要な経営資源であるとし、ステーク・ホルダーとの望ましい関係構築づくりを軸としたPRのありようを追究してきました。その生成・発展の歴史をこのPRストーリーから少しでも感じ取ってくだされば嬉しく思います。

写真左は、会社を立ち上げて間もない頃、忙中の閑に子どもたちと過ごす私(1972年:軽井沢)。中央は1980年代当時にオフィスのあった「松岡九段ビル」(東京都千代田区九段上)社長室での私で、右は近影。

半世紀に及ぶ当社のヒストリーを先ずは私のポートレートで紹介させていただきました。これらを見るだけでも50年に及ぶ様々な事象が走馬灯のように脳裏に浮かんで感慨に堪えません。創業時の私は、随分とスリムで今のイメージとは乖離があるようですね。

それでは、それぞれ5000文字に及ぶ3部作(前・中・後編)の構成や特筆すべき事象などの概要につき紹介していきます。

■第1作目(前編)「PR黎明期に現れた“戦略家”」
https://www.pr-table.com/inouepr/stories/630

創業時は企画会社として様々なプロジェクトを手掛けますが、やがて自分がやっていることは戦略立案に基づいたPRであることを確信するに至ります。日本のPR黎明期に、「パブリックリレーションズ(PR)」の原型をつくり上げていきます。

また、当時パブリシティ主流のPR業界で、メディアとの関係はどうあるべきか、メディアとの間に対等な関係を構築する手法、いわゆる「メディア・リレーションズ」について、この時期から私は真剣に考えはじめるようになりました。

そして、「自ら媒体になろう!」という結論に達しました。メディアに対して自らメディアの目線で情報発信力をもつことで、依頼される仕事のパブリシティ効果を高めようとしたのです。

「自ら媒体になる」と決意した私は、1970年半ばから後半にかけて活字媒体での編集機能と電波媒体での番組制作の2つの機能を併せもつことを考え、実行に移しました。編集機能では、大手の出版社と組み、自社が外部編集プロダクションとなるため「井之上アートプロダクツ」の中に編集部門を設けました。

もう一方は、ラジオ・テレビの電波機能をもつための請負の番組制作会社PMC(パシフィックミュージックコーポレーション)を子会社として立ち上げました。PMC制作のラジオ番組は、大手国内自動車メーカーがスポンサーとなり、年4回取材チームをアメリカに派遣し、現地FMステーション巡りをするといった当時のラジオ局最大の番組「アメリカ音楽地図」(FM東京)で、12年間も手がけることになりました。

様々な大手企業から依頼を受け、いつしかスタッフも、30名近くになっていましたが、私は、広告代理店やプロダクション的な仕事に強烈な違和感を覚えPRへの志向性を強めて行ったのです。

こうした背景もあって、創立つ時の社名「井之上アートプロダクツ」を1982年1月1日から「井之上パブリックリレーションズ」と変更しました。

第1作目(前編)では、下記4つのトピックで構成されています。

1)企業にとっての「パブリック・リレーションズ」とは?

2)入社3か月半で独立、「企画会社」としてスタート

3)「二度とこんな思いはしたくない!」大成功を収めたパブリシティの裏で

4)自分たちの仕事は“戦略家”――パブリック・リレーションズの会社へ

■第2作目(中編)「世界的企業との邂逅」

https://www.pr-table.com/inouepr/stories/640

1970年代後半から80年代にかけて、井之上PRは、戦略的PRの基本的なモデルプランを確立していきました。 そのきっかけとなったのは、世界的企業となったシリコンバレーのベンチャー、インテルやアップルとの出会いです。大きなターニングポイントを迎えた私は、PR自身が持つ“戦略家”としての役割を果たしていくことになります。

アップル社のPRコンサルティング業務を通して、井之上PRはパブリック・リレーションズの基本的なモデルプランを確立することができました。それは35年以上が経過し、インターネット時代といわれる今日においても色あせず、活用することができる普遍的な手法です。

さらに私は、海外企業との取引に注力するようになっていきます。狭い目線で自分たちの利益を追求するのではなく、世界の市場を一元化して考え、ビジネスを展開していく――インテルやアップルの出会いを通して学んだものです。

第2作目(中編)は、下記4つのトピックで構成されています。

1)世界的な大手企業の日本進出が、会社としての大きなターニングポイントに

2)海外の専門家によって確かに裏付けられた、会社として果たしてきた役割

3)「ただ商品を売るのが仕事ではない、企業の成功が自分たちの価値になる」

4)色あせないビジネスモデル確立の裏で、生まれていた組織としての課題

■第3作(後編)「次世代を担う若者たちへ」

https://www.pr-table.com/inouepr/stories/641

1970年の創立以来、「パブリック・リレーションズ」を追求し続けてきた井之上パブリックリレーションズ。90年代に世界経済に影響を与えた案件(日米通信摩擦や日米半導体摩擦、日米自動車・同部品交渉)への関与を経て私は、井之上PRが現在も重視している「倫理観」、「双方向コミュニケーション」、「自己修正」という3つのキーワードにたどり着きました。

特に1994年10月に決裂した日米自動車・同部品交渉においては、米国大手自動車部品メーカー、テネコオートモティブのために国内市場で実施した自動車補修部品市場における当社の「規制緩和プログラム」が市場開放と新たなビジネス機会の創出に貢献したとして「グランプリ」に輝きました。この受賞は日本だけでなく、アジア初となるものでした。

井之上PRヒストリーの最終編となる第3作は、下記4つのトピックで構成されています。

1)パブリック・リレーションズの普及を阻む、日本の「阿吽の呼吸」

2)イチ企業のPR戦略を超え、国家間の経済摩擦解消に貢献

3)私益よりも公益を優先――「自己修正」の重要性を実感した瞬間

4)半世紀の時を経て、次世代を担う人材にバトンを受け継いでいく

1970年の創業以来、約半世紀にわたってパブリックリレーションズ(PR)の知見を積み重ねてきた井之上PR。私は、2016年に会長(CEO兼務)に就任し、現場の一線から退いた今、その膨大な知見を次世代へ受け継がせていくという大きな役割を担っています。

「寄らば大樹」で誰しもが組織に帰属していた時代に3か月半で会社を退職し、がむしゃらに目的に向かって歩んできた私の生きざまも感じ取ってくださればありがたく思います。

投稿者 Inoue: 10:36

2013年05月20日

蘇った一枚の写真
?90年前の写真が繋いだ2つの家族

皆さんこんにちは、井之上喬です。

先日、私のブログのinfoに中間敬弌(なかま けいいち)という方からメールが入りました。

「井之上理吉という人はあなたの父上ですか?」に始まったこのメールには、発信人である中間敬弌さんの父、中間敬介さんが遺した1枚の写真のことが語られていました。

写真に一緒に写っている相方に井之上理吉の名前が記されていて、もしかしたらあなたの父ではないかというものでした。

■90年の時空を超えて
何回かのやり取りの中で送られてきた写真。そこには紛れもなく私の父の姿がありました。一瞬タイムスリップしたようで、懐かしさがこみあげてきます。裏に書かれている文字はたしかに父の筆跡です。

写真の中には90年前の学生時代の父がいました。袴姿で椅子に座り、右手に帽子と手ぬぐいを握りしめ、膝の上に置き、伏せがちに薄目を開いた無表情な父。その後ろに立つ青年は、袴姿に学生帽の敬弌さんの若き父、敬介さん。

写真左側:井之上理吉  右側:中間敬介(1923年5月20日撮影)

この衝撃的な写真はPDFファイルで送られてきました。写真は当時の東京にあった「亀甲館」という写真館で撮影されたようで、セピア色に変色し90年の時を感じさせるに十分なものでした。

写真には大正12年5月20日の撮影日付が記されており、表紙付きの写真の表紙の裏には父理吉の筆跡があります。生前の父の話と写真に書かれている内容から、21歳の時に父が当時の国家試験「高等文官試験(高文)」に合格し、それを記念してこの写真館で、一つ下の中間さんの父敬介さんと一緒に撮影したことが推察されます。

写真の父の筆跡は「大正十二年五月二十日撮影 高等試験令第七條に依る試験合格記念 二十一才井之上理吉(座セルモノ) 二十才中間敬介君(立テルモノ)」と記され、敬介さんの字で「日本大学入学記念」とあります。

父理吉の筆跡からこの写真が、父の試験合格を記念して郷里の後輩の敬介さんにプレゼントされたことが想像されます。

父は幼少の頃に父親(私の祖父)を亡くし、旧制中学に行かず鹿児島から上京し、働きながら夜学に通い、3人兄弟を抱える郷里の母に仕送りを続けていました。

逆境の中、21歳で試験(現在の司法試験と国家公務員1種試験)に合格するには想像を絶する過酷な体験をしたことが容易に考えられます。また父は生前、高文に合格したときは、「17貫(約64キロ)あった体重が13貫(約49キロ)を切った」と語っていましたが、写真に写っている姿はその言葉どおり、精根尽き果てたようにも見えます。

■写真が繋げた2つの家族
これまで父の独身時代の写真は、兵役時代に撮られた写真1枚だけでした。それだけにこの写真は、私や私の家族にとって鹿児島から上京して苦学する学生時代の父の唯一の写真になります。

中間家によって90年を経た今でも大切に保管されている写真。この写真は私や私の家族にとって父への思慕を深める貴重なものとなっただけではなく、37歳で世を去った中間敬介さんのご家族にとっても、数少ない宝物の一つであったのに違いありません。

大阪で講演中の中間さんの父、敬介さん(当時商工省の官吏で亡くなる1年前の写真:1940年撮影)

7歳で父の敬介さんを亡くし、小学校6年生で母を亡くした中間敬弌さん。戦後、17歳で大阪に行き苦学して大学に通い、49歳で関西大学の教授になられたようです。
現在は関西大学名誉教授で、イリノイ大学留学時代の経験を生かし同大学専門職大学院で英文契約の授業を非常勤講師として教えていらっしゃいます。

先日初めて現在宝塚に住む中間さんと電話で話をしました。初めての電話でしたがもう何年も前からの知り合いのような不思議な感覚にとらわれました。

息子の敬弌さんとのメールのやり取りで次々と2つの家族の繋がりが見えてきました。父の理吉と中間敬介さんは鹿児島の日置郡の伊作の出身で同じ小学校(花田小学校)に通っていたようです。同じ日本大学を卒業し、敬介さんは商工省、父は内務省(戦後行政監察庁から弁護士)と別々の道を歩みましたが、二人は強い絆で結ばれていたのではないでしょうか。

あるとき中間さんに、どのようにしてこのブログにたどり着いたのか聞いたことがあります。中間さんはGoogleで「井之上理吉」を検索し、「役人」がキーワードになりこのブログにたどり着いたと言います。

私の知らせで早速、偶然同じ宝塚に住んでいるすぐ上の兄(幸治)と中間さんが現地で会うことになったようです。8月の夏休みには、私は宝塚を訪問し中間さんとお会いする約束をしました。

そういえば、今日は2013年5月20日。あの写真が撮られた日はちょうど90年前の1923年5月20日。父理吉と中間さんの父敬介さんが結び付けてくれたのでしょうか?

90年も前に、西郷隆盛や、大久保利通たちと同じように夢を追いかけて鹿児島から上京した二人の若者。

一枚の写真が私たち2つの家族に与えたものは計り知れません。違った人生を歩んだもう一つの家族。一人のひとの想いが一層私に感動を与えてくれたのでした。

中間さん、これからもよろしくお願いいたします。

投稿者 Inoue: 17:09 | トラックバック

2005年08月22日

少年時代を豊かにはぐくんでくれた、弓削島。

毎年夏になると訪れる島があります。名前は「弓削(ゆげ)島」。美しい瀬戸内海に浮かぶこの島は、面積にして8,95?、島を一周しても18?という、人口4000人足らずの小さくてかわいらしい島です。

島に近づいていくと、小さな山が見えます。石灰石がむき出しになって、白いおにぎり状を山頂にかたどっている「石山」は弓削島のトレードマーク。その山からは、ふりそそぐ太陽の光で輝き映える小島が点在する、美しい瀬戸内海を眺望することができます。

多くの人にはふる里があります。私にとってのふる里は弓削島です。尾道駅で下りて、高速船で50分、広島県因島(市)の向かい側にある愛媛県の弓削島は、昨年96歳で他界した母の生まれた島で、今でも94歳と90歳の母のきょうだい(弟、妹)が健在です。二人とも90歳を過ぎていますが頭脳明晰で気丈なところは昔とあまり変わりません。今年は、お盆休みに訪れ、従弟や親戚の子供たちと小船で釣りをしたり、浜辺で泳いだり、童心に帰ったような気持ちで弓削島での3日間を過ごしました。

弓削島は奈良時代の女帝、孝謙天皇の寵愛を受けたといわれる「弓削道教」ゆかりの地として知られ、中世には、村上水軍や、三島水軍などが瀬戸内海を拠点に活躍していたことから、島の人たちは海賊の血を引くともいわれています。鎌倉時代には塩の産地として、近代には石山から切り出される石炭石で栄え、それらの生産物を運ぶための海運技術が発達しました。そのため、島の中心に商船学校(国立弓削商船高等専門学校)があり、昔から多くの船乗りをはぐくんできました。

瀬戸内海に浮かぶ小さな島なのですが、外洋船の船長や機関士など世界中をまわる人たちが多く住んでいたこともあり、常に意識は世界に向いていました。教育にも力を入れていてレベルも高く、とてもユニークな島です。

小さいころ、毎年夏休みになると、母親の実家があるこの弓削島で、叔父や叔母のお世話になりながら、兄弟とともに瀬戸内海の夏を思う存分楽しみました。戻るといつも寝泊りする叔母の家は庭続きに海があり、縁石から飛び込んだり、その深い海を器用に泳ぎまわったり、よってくる魚を銛でついたりして、豊かな自然の中で心ゆくまで遊びました。夜には絵描きをしていた伯父さんが、船ですき焼きパーティを開いてくれたり、尾道の風物詩だった海上の打ち上げ花火を船上から夜が更けるまで鑑賞したり、まだ貧しかった時代でしたが、この島からは楽しい思い出をたくさんもらいました。

毎夏、瀬戸内海で泳ぐことを楽しみにしていた私は、小さいころから泳ぐことが大好きでした。高校時代、水泳部に所属していた頃に記録が順調に伸びたのも、夏休みに流れの強い海で、遊びながら自然に鍛えられたことが大きかったかもしれません。

広島県、岡山県、愛媛県、徳島県などの瀬戸内海沿岸に広がる瀬戸内文化圏は、海に囲まれ、温暖な気候の下に育まれた地域で、そこに住む人々は平和的で、暖かく、朗らかな中にも芯を貫く強さがあります。

現在、井之上パブリック リレーションズの特別顧問として一緒に仕事をしている福田清介(元電通PR常務)さんとは20年以上前に国際PR協会 (IPRA)の活動を通して知り合いました。彼の出身が、弓削島から2つほど隣の生口(いくち)島(広島県瀬戸田町)だということで意気投合したのも、瀬戸内文化圏の気質を互いに共有していたからかもしれません。

パブリック・リレーションズの仕事は、インター・メディエイター(媒介者)としての役割を果たし、WIN-WINの形を実現していく仕事です。幼少のときに培われた開放的でポジティブな気質はこの仕事に大きくプラスに働いていると思います。

弓削は1999年5月に開通した、広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ「瀬戸内しまなみ海道」から逸れたために、一見不便に見えますが、島には癒しの空間とすばらしい昔ながらの風情が残っています。

近頃、この島でも高齢化が進み、活気のある若者の数が減ってきているのが残念です。また、汚れた海をきれいにし、島の中央部にある松原海岸や、あちこちにあるプライベート・ビーチのような海辺に白砂をいれて開発すれば、自然を生かしたリゾートとして生まれ変わるのではないかとつい考えてしまいます。瀬戸内の美しさは、言葉ではいい表すことのできないものがあり、夏のイメージを持った弓削島をもっと多くの人に知ってもらえたらといつも思っています。

東京に帰る最後の朝、叔母に「来年もまた来るから」といって肩を寄せ合うと、年を取った叔母は、これが最後の別れになるのではと、目に涙をいっぱいに浮かべ私にしがみついてきました。少年時代に心と体を豊かに育んでくれた叔父、叔母と弓削島に感謝して、この人たちが生きている限り、思い出いっぱいの弓削島に毎年かえってきたいと思っています。

尾道行きの船に乗り、船が桟橋から離れ、島から遠ざかって見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。叔父さん叔母さん来年もまた戻ってきます。

投稿者 Inoue: 13:00 | トラックバック

2005年06月06日

私の歩んできた道 生立ち編
  6年間で転校6回、異文化にとけこむスキルを培った小学校時代
    ?全てはパブリック・リレーションズに繋がっていた

1944年(昭和19年)11月20日、旧満州国大連市生まれです。父、井之上理吉(1903年生れ)と母、ツルヱ(1908年生れ)の間に7人兄弟(男4人、女3人)の6番目の子として誕生しました。

1947年(昭和22年)、家族は日本へ引揚げ、ひとまず母の実家のある瀬戸内海に浮かぶ島で、広島県因島の真向かいの弓削島(愛媛県)に身を寄せました。

父は中央官庁の役人で、香川県高松市でGHQのもとで経済復興のための仕事をしていましたが、途中で家族も合流し、市内の香西寺というお寺にしばらくお世話になり寺の境内で遊んだことを覚えています。

その後、市内の鉄砲場というところに新しくできた公務員官舎に移りました。初めての小学校は地元の亀岡小学校で、昭和26年4月に入学しました。しかし父親の転勤で亀岡小は一学期だけで終わり、その夏に家族9人は広島市に移りました。

広島では1年の二学期から比治山小学校に転校。その後も、父の仕事の関係でほぼ毎年転校を繰り返し、小学校の6年間で実に6度の転校を経験しました。

2年生の一学期からは住居移転のため広島市内の白島小学校へ転入。ここは原爆の爆心地に近く、やけどを負った児童などがいたのを思い出します。

2年の夏には九州の福岡市上出来町(現博多区)に移り住み、二学期から4度目の学校、御供所小学校に通い始めました。

その後4年の夏に同市内に引っ越し、二学期から平和台球場や黒田城に近い赤坂小学校に転校しました。

福岡での2年間は、たくさんの友達に囲まれて、とても楽しく過ごしたことを覚えています。福岡は私にとって第二の故郷といえるほど、懐かしい思い出がいっぱい詰まった場所です。この頃、笑い方がうまいということで、NHK福岡児童放送劇団の試験を一度でパスし、いろいろと活動しました。

6度目となる最後の小学校は東京新宿区にある戸山小学校でした。福岡から5年の夏休みに多くの友人に見送られて上京し、卒業するまで過ごしました。

小学1年生の頃は転校先の学校に馴染めず、寂しがり屋で弱虫な少年でした。いつも父親の姿を求めて泣いてばかり。しかし福岡に転校した3年頃から、クラスの級長に選ばれるなど活発に活動する少年に変わっていきました。この頃水泳と駆けっこ、特にマラソンは、どの転校先でも学年で一番だったので、比較的早く新しい環境に順応することができたのだと思います。好奇心の強さに加えて勝気な性格と、得意なスポーツに支えられていたのかも知れません。

振り返ってみると、小学校6年間で6度も転校を繰り返し、小さいうちに人との出会いや別れを体験したせいか、相手の気持ちを人より敏感に感じ取れるようになったように感じます。

また、日本国内ではあったにせよ、方言も習慣も違う異文化のなかで、自分を主張しながら相手を知り、互いの理解を深め、人とうまくやっていくコミュニケーション・スキルを自然に身につけていった気がします。

パブリック・リレーションズにとってコミュニケーション能力はベースとなるもので、小学校時代のこれらの体験は私にとって大変貴重なものだったといえます。

ひょっとしてこのブログを読まれている方の中にも同窓生がいらっしゃるかも知れません。今回は学校名も紹介させていただきました。

投稿者 Inoue: 13:00 | トラックバック