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2006年07月07日

パブリック・リレーションズの巨星たち5.
?双方向性コミュニケーションのパイオニア
アール・ニューサム(Earl Newsom, 1897?1973)その2

こんにちは、井之上喬です。
7月7日は牽牛と織女が年に一度逢瀬をはたす七夕です。七夕といえば、細身の竹笹の枝に、色紙に願いをこめて結ばれた短冊が思い浮ばれます。
皆さんいかがお過ごしですか?

今回は、先週ご紹介した「パブリック・リレーションズの巨星たち」シリーズ第5弾、1920年代後半から50年代にかけて活躍した、PRの実務家アール・ニューサムの第2回目をお届けします


■S・オイルやフォードへのカウンセリング
第二次世界大戦で臨戦体制にあった42年、ニューサムにカウンセリングを求めてきたのは後にエクソン社となるスタンダード・オイル社でした。世界第3位の規模を誇る持株会社であった同社は、42年3月25日、独禁法違反の判決により1件5000ドルの罰金とI.G Farben社から取得した特許技術の公開が課されたのでした。
ヒトラー率いるナチが台頭するドイツのI.G Farben社から、合成ゴムの特許技術を3500万ドルで購入し、代わりに同社に対して米国での合成ゴムの独占権を与えたことがその理由でした。

そんな矢先、検事総長が後に米大統領となるトルーマン上院議員が委員長をつとめる国防調査委員会において、スタンダード・オイル社がI.G Farben社に開示した特許技術を米政府には明かさなかったため、戦時下で深刻なゴム不足に陥ったと証言して窮地に追い込まれたのです。

ニューサムは、まず社長のウィリアム・ファリッシュに法廷でスタンダード・オイル社とI.G Farben社の合意書をすべてオープンにすること、I.G Farben社の合成ゴムの特許技術を用いて同社が製造したゴムは米国の戦況に好影響を与えたと証言させて、無事に無罪判決を勝ち取ったのです。

その後ニューサムはスタンダード・オイル社に対して、世論を軽視する経営体質を改めさせ企業の社会的役割の重要性を説き、パブリックの動向を把握し経営方針や商品開発に役立てる仕組みを作るべきだと指摘し、同社にパブリック・リレーションズ部門の設置をすすめました。

パブリック・リレーションズのプランづくりにおいて日頃から調査を重視していたニューサムは、つね日頃、外部専門家に依頼し労組関係や世論のトレンドをウォッチすると共に、収集された顧客データを基に現在あるいは将来脅威となる要因を探り、常に先を予測して全方位に注意を傾けながら精度の高いプログラムの構築を実践していたのです。

PR部門設置にあたっては、ニュース・クリッピングやレポートを通して同社に対する世論のトレンドを常に把握し、経営トップに伝えられるようメンバーもマーケティングやファイナンスの専門家などで構成しました。そして短期間で質の高いスタッフを育成するためのプログラムを作成し、刊行物の制作はすべてPR部門の監督下に置くなどのアドバイスをおこないました。

これをうけて44年スタンダード・オイル社内にPR部門が設置されました。ニューサムは外部カウンセラーとして政府、株主、コミュニティなど同社を取り巻く全てのターゲットに対してアプローチ方法を明確に提示。プレス・リリースだけではなく、新聞や雑誌からの取材に積極的に取り組み、メディアでの露出を高める手法を駆使してスタンダード・オイル社のオープンでフェアなイメージを構築していきました。

43年には、フォード社を継承したばかりのヘンリー・フォード2世が、創業者であるヘンリー・フォードがつくりあげた「傲慢な大企業」のイメージを刷新するためアール・ニューサムにカウンセリングを求めました。

ニューサムはフォード2世を、米国の産業を代表する新世代の強い経営者としてそのイメージ訴求につとめました。まず当時紛争中の労組問題に着手。フォード2世は就任後初めての公のスピーチで、労働組合と建設的に協議する積極的な姿勢を明確にしました。企業を守る視点で労働組合との対峙を避けていた経営陣が多数を占めていた時代に行われたこのスピーチは大絶賛され、「フォード2世は従業員への理解のある経営者」とした多くの記事が全米のメデイアを駆け巡りました。

次に行った年金制度の設置でも、いち早く全ての従業員に月額125ドルの年金を支給することで合意。年金支給を拒んだクライスラー社がストライキによる極端な生産性の低下で50億ドルの損失を計上するなか、フォード社は自動車業界第2位へと躍り出るチャンスを掴んだのです。

第二次大戦後の46年、ニューサムは元ジャーナリストでPR部門での経験があるジェームズ・アーウィンを採用しフォード社内にPR部門を設立。広告会社と連動してPRプログラムを実施し、全てのターゲットと関係性を高めて企業イメージを構築する包括的なアプローチを採用。53年にはフォード社の創業50周年記念事業をはじめに、交通安全キャンペーンやフォード財団の管理など、契約が継続した57年まで、企業の社会的責任を果たすプログラムを数多く手がけました。

■ニューヨーク・タイムズが称賛
66年、長年のパートナーであった前述のフレッド・パーマーと共に引退。その後彼の会社はウィリアム・リドゲートが17年間代表を務めましたが、83年にAdams & Rinehart社と合併しました。

73年4月11日、ニューサムは75歳でこの世を去りました。ニューヨーク・タイムズは「最も影響力のあったパブリック・リレーションズの実務家」と彼の功績を讃えました。ニューサムはここに紹介した企業の他にもCBS、ゼネラル・モーターズ、ロックフェラー3世、アイゼン・ハワー大統領、ジョンF.ケネディといったアメリカを代表する組織体や個人のカウンセラーをつとめました。

プリンターズ・インクは「ニューサムにカウンセリングを依頼した企業は、組織体が犯した過ちに背を向けた長い歴史に終止符を打ち、変化しなければならなかった」と彼の業績を評しました。

皆さんには、今から60年以上も前にニューサムが実践してきたことは、現在の日本企業の広報部門の活動領域を超えたものであることが理解できるでしょう。
PRの実務家としての強い信念を終生貫き通した、アール・ニューサムの残した言葉にこんな一節があります。
「企業や組織も社会に影響を与える責任を自覚して、環境の変化と共に自らも変化しなければならない」

まさにニューサムは、パブリック・リレーションズにおける真の双方向性コミュニケーションの道を切り開いた、パイオニアと呼ばれるのにふさわしい偉大な実務家でした。

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投稿者 Inoue: 16:51 | トラックバック

2006年06月30日

パブリック・リレーションズの巨星たち5.
?双方向性コミュニケーションのパイオニア
アール・ニューサム(Earl Newsom,  1897?1973)その1

こんにちは、井之上喬です。
相変わらずうっとおしい天気が続いていますが、皆さんいかがお過ごしですか?

今回は、「パブリック・リレーションズの巨星たち」第5弾として、ニューヨーク・タイムズで「最も影響力のあったパブリック・リレーションズの実務家」と讃えられたアール・ニューサムを2回にわたり紹介します。

ニューサムは1920年代後半から50年代にかけて活躍した実務家で、世界大恐慌や第二次世界大戦などの激動期を経験した米国で多くの大企業へのカウンセラーとして活躍しました。

彼は、情報発信者とパブリックの相互理解を醸成する対称性の双方向性コミュニケーションが普及する60年代に先駆けて、それをいち早く実践した実務家でもありました。


■ 倫理観を養った少年時代
1897年、エドウィン・アール・ニューサムは、米国アイオワ州ウェルマンに、プロテスタントの牧師であるエドワード・ニューサムとエマ・ニューサムの6人兄弟の4番目として生まれました。ニューサム家は、教師や聖職者を生み出す誠実で知的好奇心溢れる一家でした。そんな環境で育ったニューサムは、成長の過程で常に強い探究心と正義感そして一貫性を身に着けました。

オハイオ州、オバーリン大学へ進学したニューサムは、英語の魅力に目覚めてアカデミックの道に進み、卒業後はオハイオ州の教育機関で2年間教えました。23年にはロイス・ラインハートと結婚しその後2人の子供に恵まれますが、同年ニューヨークに移り住み、高校で英語や数学の教鞭をとりました。

その後ニューサムはいくつかの企業の販売促進部門を経験した後、Oil Heating 社で知り合ったフレッド・パーマーと意気投合。35年、パブリックリレーションズ・オフィスのNewson & Palmerをニューヨークに設立。その後パーマーが一時的にオフィスを離れたのを機に、社名をEarl Newsom & Companyと改名。

この頃アメリカは株価大暴落による大恐慌と第2次世界大戦の2つの大事件の影響下にあり、政府による大企業への批判や規制が強まるなかで、国民の大企業に対する感情は極めて悪化していました。

その頃の時代背景を少し説明すると、1933年に始まったF.ルーズベルト大統領によるニュー・ディール政策により、大企業は悪のレッテルを貼られ、パブリック・リレーションズにその理論構築の必要性が求められ、産業界には必要な政治的手腕の実践が強く求められました。危機的状態に直面した企業は、その解決策として外部専門家との契約をすすめると共にパブリック・リレーションズ部門の設置に動きだしたのです。

ビジネス・リーダーは自らのストーリーを伝えることでパブリックの支持を求めるようになりますが、社会との対話に慣れない彼らは、パブリック・リレーションズの専門家からアドバイスを受けるようになりました。


■ 大企業を多くクライアントにもったニューサム
こうして、30年代の後半を通して瞬く間に、ベンディックス、ボーデン、イーストマン・コダック,イーライ・リリー、フォード、ゼネラル・モーターズ、パン・アメリカン、USスティールなど数十に及ぶ大企業がパブリック・リレーションズ部門を設置し、PRの専門家は最も重要な推進役を担うことになるのです。

このような状況の中でニューサムは経営手法と事業方針の両面で独自性を発揮し、他のPR会社と一線を画していました。経営面ではパートナー制を採用しAE(アカウントエグゼクティブ:顧客担当)などの役職は設けず、全てのクライアントに対して複数のパートナーが協力し合いプログラムを計画実施。また、大企業をクライアントに多く持つスペシャリスト集団にこだわりをもち、最大規模での従業員数が23人という少数精鋭を貫きました。

事業面では顧客企業に「PRプログラムの立案、組織内のPR部門設置、企業刊行物や法廷用の必要書類の作成、調査」の4つの主要サービスを提供。PR部門がない企業に対しては外部カウンセラーとしてPRプログラム提供の傍ら、PR部門の設置を促し、運営方針の策定や担当者の採用にいたるまでアドバイスを行い、確実に社内でプログラムが実行できるシステムを作り上げました。

この頃、国際状況は緊張の度合いを深め、第二次世界大戦へと突入していきます。

次回は、スタンダード・オイル社(現エクソン社)やフォード社のカウンセラーとしてのニューサムの功績を中心にお話したいと思います。


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本書が日経ビジネス(2006年6月19日号)の書評欄で紹介されました!


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投稿者 Inoue: 20:23 | トラックバック