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2008年08月30日

「人間力」は社会を変える

こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

日本社会が崩れかかっていることは、このブログでも何度か指摘していますが、年間3万人を超える自殺者、親子殺人、通り魔殺人、幼児虐待、教育界の不祥事そして組織体の不祥事などなど、年々勢いを増すことがあっても減る傾向にありません。これらの問題の根底にあるのは、「人間力」の欠如であるといえます。

先日、私の入っているある会の集まりで、同じメンバーの谷川和穂(元法務大臣、防衛庁長官)さんとお話する機会がありました。半世紀ほどつとめあげた国会議員を辞められた谷川さんが現在力を入れているのは更生保護司という仕事。

その仕事内容については、これまで何度かご本人からうかがっていたのですがピンと来ていませんでした。しかし偶然にも先日、法務省保護観察局が刊行している月刊誌「更生保護」への執筆依頼をきっかけに、更生保護司という谷川さんの仕事がどういうものか分かったのです。

■社会の最端で働く更生保護司
更生保護司は現在全国で約5万人。犯罪や非行をした、年間約7万人の護観察対象者に対して、更生を図るための約束ごと(遵守事項)を守るよう指導するとともに、生活上の助言や就労の援助などを行い、その立ち直りを助けるものです。社会が抱えるひずみや矛盾の中に生きる人に、希望や力を与える崇高な仕事といえます。

更生保護制度は明治中期に民間人がはじめた慈善事業が源流。更生保護司の身分は非常勤の国家公務員ですが無給で実質的には民間のボランティアで、世界に類を見ないユニークな制度です。70歳後半とは思えないぐらいお元気な谷川さんは、全国保護司連盟会長として週末には全国を駆け回っています。

谷川さんは最近の傾向として、2つの胸の痛む話をしてくれました。一つは、これまでほとんど見られなかったこととして、70代の初犯者が出ていることについてです。かれらは経済的な問題を抱え、老後、自力で生活できない人が国の施設の世話になることを期待し犯罪行為に至るようです。先日の渋谷駅の自称79歳の老女による通り魔事件のように、老人が所持金もなく、事件を起こせば生活は警察がなんとかしてくれるというおもいで凶行に走ることなどはこれまで考えてもみなかったことです。
法務省の平成19年版犯罪白書(HP)では、刑法犯認知件数で2002年には戦後最多を記録しその後は減少に転じてはいるものの、10年前(H8年)の246万件から平成18年には287万件と増加。中でも高齢者の犯罪は著しい増加を見せ、平成18年の60歳以上の新受刑者数は、同じ平成8年と比べて2倍以上に達しています。

谷川さんの指摘したもう一つの傾向は、低学歴で収入の低い若者が早婚によりたどりがちなケース。生活苦で高利貸しから借金をし、過酷な取り立てで離婚し一家離散の憂き目にあいます。若い母親はシングルマザーになりますが、低収入のためにアパート代を払うとほとんど何も残りません。生活に追われ養育に手が回らず子供は放置されたまま。その結果、子供は薬物に手を出し非行を繰り返すようです。若者の犯罪が増えている背景にはこのような事情があるのかもしれません。ちなみに、20代前半で1犯目の罪を犯した者の再犯率は41%。20台後半で1犯目の罪を犯した者の再犯率は28%(平成18年)。

■「人間力」とパブリック・リレーションズ
これらの状況に至る要因はさまざまありますが、その根底には人間力の劣化があります。日本の抱えるさまざまな問題を単に社会システムの構造的問題として捉えるだけでは無理があるからです。人間力のベースには「倫理観」があります。倫理観という言葉はよく耳にするものの、なんとなく使用されることが多く、むしろ明確な意味を持って使われることのほうが少ないかもしれません。

倫理観を誰にでも解りやすく端的に言い表すと、「人間の行為における善・悪の観念」で人間力になくてはならないものです。そして人間力をもたらすものは何かというと、それはパブリック・リレーションズ(PR)

また、人間力とは、周囲(パブリック)との関わりの中で自分の道を切り開いて生きていく力でもあります。私たち人間は本質的に「かかわる」存在です。したがって、人間の最も深い体験は他者との関係です。他者とかかわることで私たちは今の自分自身を作り上げています。パブリック・リレーションズは倫理観のある環境で、相手との情報流通が双方向状態にあり、その行為に間違いがあれば、自らを修正しなければなりません。

特に罪をおかした人が更生(自己修正による立ち直り)するとき、社会にこれを受け入れる土壌が必要となります。人間は、完全ではなく罪を犯すものであるという考えに基づいた社会でなければ、更生者が社会での居場所がなくなってしまうからです。

更生保護は、人とさまざまな社会をつなぐ仕事。心と心のふれあいを大切にし、様々な人との出会いから学び向上していくことで社会に役立つ人間を育成します。まさに人間力を強化するパブリック・リレーションズ(PR)が求められているのです。

投稿者 Inoue: 08:39 | トラックバック

2008年08月23日

水しぶきの中の青春 2

こんにちは井之上喬です。
皆さんいかがお過ごしですか?

8月8日から開催されていた北京オリンピックも閉幕しました。日本は9個の金メダルを含め計25個のメダルを獲得。その中でも2つの金メダルを手にした水泳の北島康介選手の平泳ぎ(100m、200m)は他を圧倒しました。科学的に研究され完成された泳法であったこともさることながら、北島選手の勝負にかける気迫が金メダルを引き寄せたといえます。

8月の日曜日の午後、母校立川高校のプールに3年ぶりに行きました。ちょうどTV番組で繰り返され放映される北島選手の完成された泳法を目に浮かべながら、高校時代水泳部で毎日練習に明け暮れたことが想いだされました。

■サンタクララ・スイミング・クラブの選手に圧倒される
高校時代、私の脳裏に焼き付いている一つの光景があります。それは神宮プールでのインターハイに出場した2年の時、当時来日していた、米国のサンタクララ・スイミング・クラブ(現在のシリコンバレーにある)のスイマーたちのことでした。

サンタクララ・スイミング・クラブは、当時、自由形の天才スイマーといわれ64年の東京大会で100/200m自由形で金メダルを取った、ドン・ショランダーをはじめ、その後72年のミュンヘン大会で7つの金メダルを獲得したマーク・スピッツなど、科学的トレーニングで数々の名選手を輩出した有名なクラブ。このクラブに所属するドナ・デバロナやリチャード・ロスとプールサイドで一緒になるチャンスがあったのです。

なかでもリチャード・ロスと並んだとき、彼の180cmを超える身長と太い腕をみて圧倒されたのでした。その少年はまだ中学3年生。彼は3年後の東京オリンピックでは400m個人メドレーで金メダル(デバロナは女子の同種目で金、400メドレーリレーで金)を取りましたが、彼らを目のあたりにしたときに、肉体的に優れていないと世界では勝てないのではないかと衝撃を受けたのです。それ以来、水泳で頑張ろうと思っていた私の頭の中で肉体的なハンディがトラウマになったのです。

■山中毅さんとの出会い
山中毅の名前は、年配者でその名を知らない人はいません。彼は石川県輪島高校の2年生のときメルボルン・オリンピックにデビュー。1960年のメルボルン大会では、豪州のマレー・ローズらと競い、400mと1500m自由形で日本に銀メダルと銅メダルをもたらした人。その後、200m/400m自由形で世界記録を作るなど古橋広之進以来の日本水泳界のヒーローで、水泳に青春をかけた私にとってはあこがれの人でした。

私が立川高校2年の春休みから、東伏見にある早大(稲泳会)の合宿所に通い出した頃は、山中さんが社会人として大洋漁業に行き先が決まり早大を卒業するとき。そこで直接会うことはありませんでした。それから40年ほど経った数年前、偶然にご本人と初めてお会いする機会を得たのです。

私の目の前に立つ山中さんは、体を患い痩せていたこともありましたが、かつてTVで観た、世界新記録を何回も塗り替えた筋骨たくましい山中毅のイメージからほど遠い、私より小柄で身長170cmに満たない人だったのです。この体の人が世界と闘っていたとは。肉体的なハンディを乗り越えてクロールで世界の頂点に上り詰めた山中さんとあの頃東伏見のプールで出会っていたら、神宮プールでの衝撃に臆することなく、そして伏見の合宿で自分の泳法を変えられたぐらいで意気消沈することなく、リスクをとってでも勝負していたかもしれません。

それだけに176cmの北島選手が肉体的なハンディを乗り越え2大会続いて世界新で金メダルを取ったことはまさに驚異的だったと思うのです。
久しぶりの母校のプールサイドで先輩や後輩と交わるなか、ふとそんなことを考え、往時のことや仲間たちと過ごした45年前に思いを馳せたのでした。

投稿者 Inoue: 08:34 | トラックバック

2008年08月16日

夏、癒しの空間「弓削島」






こんにちは井之上喬です。
お盆も終わり、朝晩ほんのすこし涼しさが感じられるようになりました。
皆さんいかがお過ごしですか?

今年もお盆休みを利用して母のふる里、弓削島(愛媛県上島町)を訪問しました。瀬戸内海に浮かぶこの島は、面積にして8,95?、島を一周しても18?という、人口4,000人足らずの小さくてかわいらしい島(写真上:弓削ロッジから松原海岸と石山を望む)。この10数年間、毎年訪れる私にとっては帰郷とおなじ。

今年は尾道から高速船を利用せず、1時間に1本の割合で「のぞみ」が停車する福山駅からバスで1時間ほどすると終点の因島の土生港。そこから小型フェリー「青丸」で15分。太陽に光り輝く弓削島に到着します。「瀬戸内しまなみ海道」(広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ)からはずれた弓削島には昔ながらの自然が沢山あります。

以前にも述べましたが、パブリック・リレーションズ(PR)の仕事は、インター・メディエイターとしての役割を果たし、WIN-WINを実現させる仕事。弓削島の自然の中で培われた開放的でポジティブ気質は現在の仕事に大いに生かされていると思います。

■都会で忘れられた「ぬくもり」
今年も94歳の母の妹やいとこたちが温かく迎えてくれました。昨年96歳で亡くなった叔父の姿が見られないのは残念でしたが、その子供たちにも何十年ぶりかで会うことができました。叔父のお墓は、道鏡禅師(弓削道鏡)を祀っている島の中央にある「海江山自性寺」にあり、海を見渡せる白い砂と松の木のすぐ下にある明るい場所。

戦後、満州の大連から引き揚げてきた私たち家族は、役人をしていた父の赴任先が決まるまでの間、何ヵ月かを弓削の母の実家に身を寄せていたことがあります。以来、高校の途中まで毎年夏には弓削島に戻っていました。今年もいとこ達やその家族、子供たちと松原海水浴場で泳いだり、隣島の佐島(さしま)(写真右:プライベート・ビーチ風の砂浜)で釣りをしたりして4日間をのんびり満喫。
              
弓削には小さい頃からの想い出がたくさん詰まっています。毎年夏に尾道祭りで行われた海上花火大会もその中の一つ。小学校5-6年生の頃、当時因島にあった日立造船に勤めていた叔父(叔母の夫)が、親戚のために貸し切った小型遊覧船の中で用意された氷で冷やした空の酒樽に入っているビールを5,6本ひとりで飲み、大人が花火を楽しむのをよそに、兄弟やいとこ達と存分に騒ぎ楽しんだこと。また、弓削島の反対側にあった小さな入り江の段々畑で、スイカを好きなだけ採りリヤカーに乗せて運び、叔母の家の井戸で冷やした後、みんなで舌鼓をうったことなどです。

いまは、大型タンカーを建造していた因島の日立造船も立ち退き、弓削小学校も1学年で200名近くいた児童が20名に満たない数に減少し、過疎化が進んでいます。

そんな弓削島にも最近新しい動きを感じます。それは幼い子供をつれた家族が弓削に帰ってきていることです。休みを利用して新しい配偶者とともにこの島に連れ戻っていることです。弓削に生まれ育った祖父母が都会に出て子供をもうけ、さらにかれらの孫が弓削に戻ってきているといった感じです。

■注目を浴びる弓削商船
弓削には多くの外洋航路の船長や一等機関士を輩出した弓削商船(国立弓削商船高等専門学校)があります。最近、海運業界の環境の変化に伴い船乗り志願者は激減。電子機械工学や情報工学などのIT系の学生が主流になりつつあるようです。

そんな弓削商船に関する記事が偶然、日経ビジネス8月18日発売号に掲載されています。日本のこれまでの「6・3・3・4制」の枠組みから離れた高等専門学校に焦点を当てた特集。「鉄は熱いうちに打て‐12歳からの英才教育」(36?37頁)の中で全国高専(61校)対象に毎年開催されている「プログラミングコンテスト(プロコン)」で昨年も優勝した同校が開発したプログラムに「マイクロソフトが熱視線」と弓削商船のソフトウエア技術開発力について紹介されています。弓削の持つ豊かな自然環境に創造性が育まれ、こうした成果が生まれているのかも知れません。

行政改革の流れの中で将来、全国5か所にある高等商船専門学校の統廃合で、広島商船、大島商船、弓削商船の3校が1校に統合される話を聞き、弓削商船の将来が心配されています。日経ビジネスの記事は、こうした心配を吹き飛ばしてくれる明るいニュースでした。

今回島で初めて、2人のフランス人観光客に会いました。瀬戸内海に浮かぶ小さな島、弓削島。弓削島やその周辺の島々には史跡も多くみられます。人は瀬戸内海が抱合する、多彩な歴史と文化に魅せられて弓削島に惹きつけられるのでしょうか。

94歳の叔母は最近、歩くときに杖を使うようになりました。あまりに暑いので桟橋での見送りをひかえてもらい彼女の自宅で別れを惜しみました。「来年まで元気にしていてください。また戻ってきます」。桟橋から遠ざかる船から、遠方に見える叔母の自宅へ向かって最後の別れを惜しみました。

投稿者 Inoue: 08:25 | トラックバック

2008年08月09日

私の心に残る本 18
白銀竜吉法師の『1000人になった人類』

1000人になった人類

こんにちは井之上喬です。
北京オリンピックがいよいよ開幕。
皆さんいかがお過ごしですか?

8月は毎年、広島(8月6日)、長崎(8月9日)の原爆の日に続き、15日の終戦記念日とお盆休み。「戦争と平和」そして「生と死」がテーマの月です。戦争で犠牲になった死者に思いをはせながらひと夏を過ごすことも、私たちにとって「命」や「人生」を考える上で大切なことのように思えます。

今回は、白銀竜吉法師著『1000人になった人類』(さんが出版:2005年)をご紹介します。愛・地球博「アースデイ」第1回環境大賞受賞作品で、人類の愚かさで引き起こした核戦争によって、わずかに生き残った人々のお話です。

「人類はたった1000人になっていました。あんなにたくさんいた人類が、わずか1000人になってしまいました...」で始まる同書は、大きめの活字でレイアウトされ、半分が著者自身の挿絵で構成された絵本のようなショートストーリー。3年前の出版当時とくらべ地球環境がさらに悪化し、核戦争の脅威が増すいまこそ読むのにふさわしい本といえます。皆さんにより深く味わっていただくために、今回は解説を加えず、本文を抜粋したものをそのままご紹介します。



人類はたった1000人になってしまいました。
あんなにたくさんいた人類が、わずか1000人になってしまいました。
100万年かけて70億人にまで増えた人類が、たった1年で
1000人になってしまいました。

人類は核戦争でほとんど死んでしまいました。
お金持ちも貧しい人も、ほとんど死んでしまいました。

人間は核爆弾が良くないことを知っていたのに行きがかりじょう仕方なく使ってしまいました。

人類は最初2000人だけ生き残りました。

地球のほとんどの地域は放射能で住めません。
2000人のうち1000人が放射能による白血病で死にました。

人類はたった1000人になっていました。
残った1000人は放射能の少ない小さな島に移住しました。

生き残った1000人のうち、本当に健康な人はいませんでした。
顔をやけどした人がいました。
顔だけでなく全身にちかいくらい、やけどをした人がいました。
全身の痛みで、体の震えが止まらない人がたくさんいました。
ほとんどの人の心が病んでいました。
ほとんどの人の心の中は絶望と憎しみでいっぱいでした。

みんな空気も水もほとんど汚染されている気がしました。
水を飲むこと空気を吸うことも怖い、生き残った人類でした。

全員が死に向かっている人類は、本当の幸せとは何かを真剣に考えました。

一年の月日がたつと島では毎月子供が生まれました。
地球が汚染されているのに子供は生まれます。
身体に障害を持った子供たちをケアする医療設備はありません。
身体に障害を持った子供たちは死んでゆきます。
みんな思いました。
なぜ地球が破壊される前に、医療設備がなくて困っていた人々を
助けなかったのだろう!
みんな後悔で苦しみました。

みんなで話し合って安全な場所を探しました。
残された人々は苦難に立ち向かうために、
みんなが一つになろうとしていました。

みんな森の中で安心して暮らすことができるようになると
毎晩、議論するようになりました。
みんな、なぜ世界が核戦争になってしまったのか話し合いました。

人類は石油を奪い合うために戦争をしました。
何度もしました。
石油が出る国はいろいろな理由をつけられて、
順番に戦争に巻き込まれてゆきました。

お金持ちは、お金持ちでいるために石油を奪い続ける必要がありました。
石油が欲しいために戦争を起こし
石油を支配するために石油が出る国を占領し
反発する人々を殺し続けました。

何も悪いことをしていないのに、巻き添えでたくさんの人々が死にました。
家族を殺された人々は殺した人を憎み続けます。
人は人を憎み続けると不健康になります。
憎まれる人のほうは恐怖を感じます。
こうした憎しみと恐怖が、世界大戦争を起こしました。
そうして地球のいたるところで核爆弾が使われました。

絶望している老人が最後に言いました。「戦争の最大の原因は、人間が生きてゆくうえでの
恐怖なんじゃよ!恐怖が争いをつくるんじゃよ!」
経験豊かな老人たちは口をそろえていいました。
「今というときを助け合うことじゃよ!困っている人がいたらみんなで力を合わせて助け
てあげることがみんなから恐怖をなくすことになるんじゃ!」

子供たちは経験豊かな老人たちの話を聞いて、一つのことに気がつきました。
そして、子供たちは素晴らしい行動を始めました。
子供たちみんなが始めました。
ちいさな子供たちも始めました。

子供たちに感動して、大人も始めるようになりました。
大人たちもみんな始めました。
何かが変わり始めました。

人類が島に来てから5年の月日がたちました。
男たちは一生懸命畑仕事をしていました。
突然、若い青年が叫びました。
「みんなこれを見てくれ!」
彼らが見つけたものはたくさんのミミズでした。
「おお?っ!これはすごいぞ!ミミズがこんなにいれば土をもっと豊かにしてくれるぞ!」

それから5年の月日がたちました。
その島の岩場がいつの間にか草原になっていました。
草原にはいろいろな動物がいました。

大人たちはそれぞれ自分の得意なことを一生懸命みんなのためにやりました。
大人たちは他人の話をよく聞くようになっていました。
みんながひとの悩みをわがことのようにおもうようになりました。
大人たちはみんな一つの素晴らしい考え方に気がついていたのでした。

それは常に「与えることを優先する」という考えでした。
みんな、人が喜ぶことをいつも考えるようになっていました。

島の中で何かが確かに変わり始めたのです。

人間がこの「新しい考え方」に気づいたときから
何かとてつもない大きな変化が始まり出したのでした。
与えることを優先する考え方が、生き残った全人類の考え方になりました。
与えることを優先すれば、すべての人類が豊かに暮らせる!
すべての人類がそう思えた瞬間!
人類の意識が進化したのでした。

それは自分を優先するのではなく
自分だけを守ることを考えるのではなく
他の人に対して、まず与えることを考える生き方でした。
そして、それがみんなに「思えば叶う!」ということを
強く信じさせてくれるようになりました。

みんな思えば叶うと本当に思い始めていました。
思えば叶うとみんなが本当に信じるようになりました。
すべての人類が祈りました。

「すべての人類が幸せになりますように!」

それが朝になった瞬間!
ほとんど波のない穏やかな、放射能で汚染されたはずの海に
奇跡がおこっている瞬間でした。
そこには信じられない光景が神によって描かれているようでした。
それはイルカでした。

「海が回復しだしているぞ?!」
若い男が大声で叫びました。

大人たちの声に振り返った子供たちが言いました。
子供たちのみんなが静かにしみじみ言いました。
「わぁ?!なんて奇麗なんだろう!」
子供たちはみんなその美しさに見惚れて立ちすくんでいました。

森が光っていました。
島の森が大きくなっていました。
森の木々の一本一本が輝いていました。

朝日を吸収している森の姿は、まるで一つの生命のようでした。
それはまるで森全体が虹のかたまりのように七色に輝いていました。
それは新しく生まれ変わった人類の希望の虹のようでした。

それは地球が自らの偉大な浄化と蘇生の力を、人類に教えてくれた瞬間でした。

投稿者 Inoue: 08:46 | トラックバック

2008年08月02日

『体系パブリック・リレーションズ』出版まぢか
 ?Effective Public Relations日本語版

こんにちは井之上喬です。
夏休みもいよいよ佳境に入ってきました。
皆さんいかがお過ごしですか?

昨年2月、井之上ブログの100回記念として、パブリック・リレーションズ登場・発展の地、米国で、最も多くの人に読まれているパブリック・リレーションズの名著 Effective Public Relations (以下EPR: Prentice Hall Business Publishing)を紹介しました。
EPRは1952年の初版刊行以来、半世紀以上にわたり愛読され毎年、数万部もの売上げを記録する大ロングセラー。2006年には第9版(大判全486頁)が刊行。日本では30年以上前に、第4版が『PRハンドブック』の題名で日刊工業新聞社から出版(松尾光晏・訳:1974年)されています。

いよいよ、そのEPR日本語版が来月(9月)上旬に全国の大手書店に並ぶ運びとなりました。邦題は『体系パブリック・リレーションズ』(日本広報学会・監修、ピアソン・エデュケーション)です。今回はEPR日本語版の発刊を前に、出版にいたる経緯や同書の構成、そして私が訳者として担当した第3章:組織体構築と第7章:理論的基盤・調整と適応、第16章:政府とパブリック・アフェアーズについてその内容をほんの少しご紹介します。

■パブリック・リレーションズの「バイブル」
EPRの日本語版発刊を提唱し、監修した日本広報学会(会長:張富士夫、トヨタ自動車代表取締役会長/理事長:境忠宏、淑徳大学教授・学長特別補)は、「経営体の広報・コミュニケーション活動全般について、学術的かつ実践的研究を行うこと」、そして「社会に開かれた経営体のあるべき姿を 洞察し、必要とされる施策の内容を検討し、展開の方法および技法の開発に努める」ことを趣旨として 1995 年に設立されました(日本広報学会HPより抜粋)。
このプロジェクトは、同学会設立10周年を迎えた2006年、記念事業の一環としてパブリック・リレーションズ(PR)に関する世界的な文献を翻訳・出版するために立ち上げられました。その第一弾として選定されたのが、ERP。
 
スコット・カトリップ、アラン・センター、グレンブルームの3名の共著によるEPRは、米国の300以上の大学で教科書として採用され、中国やイタリア、韓国、ラトビア、ロシア、スペインなどでも翻訳・出版され、世界でパブリック・リレーションズを学ぶ標準的な教科書として高い評価を得ています。また豊富な情報を満載しパブリック・リレーションズを多角的に捉えた同書は、学生だけでなく、パブリック・リレーションズの実務家や企業経営者、研究者など幅広い人々に愛読されています。

2000年に他界した、S・カトリップのために捧げられたEPR第9版は、著者の一人であるグレン・ブルーム(Glen Broom,1940? )が序文で識者の言葉を引用して「パブリック・リレーションズに関する基礎的教科書のすべてがこの本の基準に照らして評価される」と述べています。まさにパブリック・リレーションズのバイブルといえます。

■起源から最先端までを網羅
『体系パブリック・リレーションズ』は全体を4部17章で構成。どの章もパブリック・リレーションズに関わる私たちにとって、PR戦略を新たに構築するうえで、またPR戦略を見直すうえで極めて示唆に富む内容となっています。第1部ではパブリック・リレーションズの起源とその変遷を発展段階にわけて概観。それぞれの時代に活躍した実務家や研究者のストーリーを交えながら説明。第2部では倫理やコミュニケーションなど、PRの理論を支える基盤や原則を解説。さらに第3、4部ではその理論に基づいて、企業や政府におけるパブリック・リレーションズの実際や実践に役立つプロセスや最新の手法を紹介しています。

第1部 概念・実務家・コンンテクスト・起源
 1章:現代パブリック・リレーションズの概念
 2章:パブリック・リレーションズの実務家
 3章:組織体構築
 4章:パブリック・リレーションズの歴史的発展
第2部 基本要件
 5章:倫理とプロフェッショナリズム
 6章:法的考察
 7章:理論的基盤・調整と適応
 8章:コミュニケーションと世論
 9章:インターナル・リレーションズとエンプロイー・コミュニケーション
 10章:メディアとメディア・リレーションズ
第3部 マネジメント・プロセス
 11章:ステップ1パブリック・リレーションズの問題点の明確化
 12章:ステップ2計画立案とプログラム作成
 13章:ステップ3実施とコミュニケーション活動
 14章:ステップ4プログラムの評価
第4部 実践
 15章:事業および企業におけるパブリック・リレーションズ
 16章:政府とパブリック・アフェアーズ
 17章:非営利団体(NPO)、業界団体、非政府団体(NGO)

『体系パブリック・リレーションズ』は、広報学会のメンバー6名により翻訳されています。私が担当した第3章の組織体構築では、さまざまな組織体におけるパブリック・リレーションズの導入経緯とその重要性、そして経営トップの影響力などについて言及されています。また、多くの組織体ではPRがなぜスタッフ職務なのか、組織体におけるPRへのニーズを果たすうえで、組織内部門とPR会社を利用する場合を比較し、その長所と短所を説明しています。さらには、クライアントに対するPR会社のサービス料金についても触れています。

第7章の理論的基盤・調整と適応では、パブリック・リレーションズの理論モデルを提示し、その論理的基盤として調整と適応について論じていています。システムを定義し、パブリック・リレーションズにとって調整と適応が如何に重要であるかを説明し、システム理論がどのように役に立つかを探っています。オープンシステムとクローズドシステムの違い、対応型、積極型パブリック・リレーションズの概念も説明しており、理論研究の上で興味深い内容になっています。

そして第16章の政府とパブリック・アフェアーズでは、歴史的な経緯にもふれながら、パブリック・アフェアーズ・プログラムの主要な7項目のゴール(目的)をリストアップして解説を加えています。また、政府の効果的はパブリック・リレーションズに立ちふさがる3項目の障害にも触れています。そして、米国ならではの、軍事におけるパブリック・リレーションズの役割にも言及されていて興味を引く内容となっています。

いずれの章も、充実した内容となっていますが、個人的には「自己修正」を研究テーマにしている私にとっては7章に最も関心が高く、できるかぎり平易な翻訳につとめました。

これまで日本で、PRや広報の実務書は数多く出版されていますが、理論を体系化した書籍はほとんどありません。この翻訳プロジェクトを通して、パブリック・リレーションズ(PR)の幅広さと奥行きの深さが改めて認識できました。皆さん9月上旬の発刊をぜひ楽しみにしてください。

日々本業で多忙を極める中、莫大な時間を費やし翻訳にあたった他の5名の先生方そして、3名のワーキング・グループの方々、本当におつかれさまでした。

投稿者 Inoue: 09:10 | トラックバック