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2006年12月30日

パブリック・リレーションズの認識が高まった2006年

こんにちは、井之上喬です。
いよいよ年の瀬を迎えました。あわただしい時間を過ごされている方も多いと思います。

今年は皆さんにとってどんな年だったでしょうか。

2006年の日本は、経済的には、本格的にデフレを脱却したとみられ、いざなぎ景気を超えて史上最長といわれる景気拡大に突入しました。一方、政治的には9月、5年5ヶ月ぶりに小泉政権から安倍政権へと政権が交代。新政権は「成長なくして財政再建なし」をスローガンに、「美しい日本」実現のための取り組みを示し、国民からの期待が高まった年でした。

■不祥事に始まり不祥事に終わった
しかし好景気と新政権への期待を裏切るかのように、2006年もパブリック・リレーションズの欠如が露呈した数々の不祥事に明け暮れたといえます。

政界では、タウン・ミーティングでのやらせ問題や政府税制調査会長の辞任、そして国会議員の政治団体による不適切な会計処理の発覚などにより、 安倍内閣への支持率は発足直後の63.9%から3ヶ月で40%台にまで急落。首相による今後の舵取りを不安視する声が高まっています。

官界では、防衛施設庁の官製談合事件に始まり、岐阜県庁の裏金事件、そして福島、和歌山県に続き宮崎県でも談合事件が発覚。県のトップである知事が次々と辞任に追い込まれました。

ビジネス界では、会計や監査に関する不祥事が繰り返されました。ライブドアの堀江貴文前社長や村上ファンドの村上世彰前代表が証券取引法違反容疑で逮捕。金融庁はライブドアの監査法人であった中央青山監査法人に対し、業務停止を命じました。つい一週間前には日興コーディアルグループによる不正会計問題が表面化し、首脳陣の退陣劇が繰り広げられたばかりです。

一連の不祥事は、倫理観双方向性を持ったコミュニケーションそして自己修正の欠如がその要因となっていることは疑うべくもありません。そして、これらの3つの要素を抱合するパブリック・リレーションズが根本的な問題解決には必要とされることが、少しずつ認識されるようになったことは大きな前進であったと思います。

■広報担当首相補佐官の意味
その象徴的な例が、安倍政権発足と同時に首相官邸機能の強化の一環として、首相補佐官(世耕弘成 広報担当)が設置され、広報体制が拡充されされたことです。就任演説で安倍首相自ら広報機能の重要性を訴えました。この広報担当首相補佐官の設置はメディアで大々的に報道され、 国民の広報(パブリック・リレーションズ)に対する認識はかってない高まりをみせ、その機能が注目されるようになりました。

安倍内閣の様々な不祥事発覚への対応にはいろいろな問題があるにせよ、首相就任直後、険悪な日中関係の修復に素早く動いたり、銀行からの政治献金の申し入れを断るなど、世論を反映した行動をスピード感を持っておこなおうとする意思が見られます。これらの対応姿勢は大いに評価されるべきことだと考えます。この点で、会計や監査に関する不祥事が繰り返されたために、コンプライアンスに関するルールを素早く改正したことも評価できることだと思います。

このように、パブリック・リレーションズは日本社会ではまだ機能しているとはいい難い状況にはあるものの、2006年はパブリック・リレーションズが社会に必要とされる概念であることが理解され始めた年だったといえます。

この1年のメディア報道を振り返ると、北朝鮮問題を始め、複雑化する世界における多くの問題や紛争は絶えることなく起こっています。日本国内でも数字上は好景気であるにもかかわらず、貧富の二極化やいじめに対する問題など、暗いニュースが日々伝えられていたように思います。

混迷の時代にあって、各方面からパブリック・リレーションズの必要性が叫ばれています。グローバル時代を生きるパブリック・リレーションズ実務家の役割は、 民間レベルにおいては日本企業のグローバル化を手助けする戦略やソリューションを提供し、 国家レベルでは国際社会へ向けた強力な情報発信の担い手となることにあるといえます。またプロフェッショナルとして、 内外の活動をとおして世界の平和と繁栄に貢献することも極めて重要な使命といえます。

このような大きな役割を持ったパブリック・リレーションズが更に日本で認知されるよう、来年もパブリック・リレーションズの実務家、研究者として、皆さんと一緒に見つめ考えていきたいと思います。

本号は2006年最後のブログとなります。この一年間ご愛読ありがとうございました。
それでは皆さん、良い年をお迎えくださいますよう。

投稿者 Inoue: 21:28 | トラックバック

2006年12月23日

私の心に残る本 その3 『マザー・テレサ 日々のことば』
?クリスマスにちなんで

こんにちは、井之上喬です。
明日はクリスマス・イヴ。25日にはクリスマスと今年も恵みの時がやってきます。
皆さん、いかがお過ごしですか。

クリスマスは、およそ2000年前にベツレヘムで生まれたイエス・キリストの誕生を祝う日です。クリスマスのスピリットは「愛」。「愛は、この世で最も偉大な贈り物なのです」と神との深い一致を通して、その愛を実践した一人の女性がいました。

彼女の名は、マザー・テレサ。

今日は、マザー・テレサが折りにふれて語った言葉を、365日にわたって、日々のことばとして一冊の本にまとめた、『マザー・テレサ 日々のことば』(2000年、女子パウロ会刊)をご紹介します。

マザー・テレサ(Mother Teresa、本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ:Agnesë Gonxhe Bojaxhiu)は、1910年8月27日、スコピア(現マケドニア)のアルバニア商人の裕福な家庭に生まれました。両親は熱心なカトリック教徒で、母親は貧しい人を食事に招き入れるほど奉仕の精神に溢れる人でした。

28年、18歳のテレサは、アイルランドのロレッタ修道会に入会しました。その後、カトリックの修道女としてインド・ダージリンへ派遣されました。そして31年、初誓願を立て、その修道名をシスター・テレサとしました。

■ たった10数円を手に一人で貧民街へ
46年、36歳の夏、シスター・テレサは黙想のためダージリンへ向かう汽車の中で神の声を聞きます。テレサは48年、「神の召命」となる貧困救済活動を行うためインド、カルカッタのスラム街に「青空教室」を開設。粗末なサリーをまとったテレサがひとり貧民街に立った時、その所持金は僅か5ルピー(現在1ルピーは約2.5円)だったといいます。

50年、テレサは「主よ、どうか私をあなたの平和の道具としてください」を信条に、 12人のシスターと共に“貧しい中の最も貧しい人に仕える修道会”「神の愛の宣教者会」を設立。総長就任と共に指導的な修道女への敬称であるマザーを用いて「マザー・テレサ」と呼ばれるようになります。

死を迎える最期の一瞬だけでも、人間らしく扱われることの重要性を知っていたマザー・テレサは52年、路上で死に瀕した人を招き入れ、愛のなかで最期を看取るための施設である、「死を待つ人々の家」(Home for Sick and Dying Destitutes)をカルカッタに開設しました。

■ 宗教を超えて人間の尊厳を守る
『マザー・テレサ 日々のことば』のなかの「11月17日」には、愛は、宗教、民族、社会的地位を超えて差し伸べられなければならないという、彼女の人間の命への尊厳と人間に対する敬愛の念を示す、次のことばが記されています。

「『死を待つ人々の家』では、…..誰にも必要とされず、愛されずに亡くなった人は一人もいません。..... 私たちはヒンズー教、イスラム教、仏教、カトリック、プロテスタント、その他どんな宗教でも、それぞれに記された規範に従って彼らが望むものは何でもしたり与えたりしています」

また「2月5日」には、「私たちが排水溝から引き上げた男性は体の半分を虫に食べられている状態でした。カリガートにある『死を待つ人々の家』に連れて来ると彼はこう言いました。『私はこれまで道端で獣のように生きてきました。それなのに今、愛され、手当てを受け、まるで天使のように死んで行きます』」

マザー・テレサの活動は世界でも高く評価され、79年にはノーベル平和賞を受賞しました。審査員の満場一致による受賞であったといわれています。その賞金は全額寄付されました。受賞のスピーチでマザーは、アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」を朗読しました。

その一部分が日々のことばの「2月24日」に記されています。
「主よ、私を平和の道具としてください。憎しみのあるところに、愛を、不当な扱いのあるところに、ゆるしを、分裂のあるところに和解を、誤りのあるところに真実を、疑いのあるところに信頼を、絶望のあるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみのあるところに喜びをもたらしますように」

受賞後も彼女は、愛の担い手として以前と変わりなく朝4時に起床しシスター達と一緒に、最貧の人々を救済する活動に専念したといいます。

97年9月5日、マザー・テレサは「もう息ができない」の言葉を最後に帰天しました。87歳でした。その8日後、インドで国葬が行われました。国家の要職についたわけでもない人のために国葬が行われるのは異例のことでした。如何にインドの人々が彼女を深く敬愛していたかを物語っています。

彼女の死から約6年後の2003年10月、マザー・テレサは教皇ヨハネ・パウロ2世によって異例のスピードで列福されました。

マザー・テレサが一人で始めた活動は、現在では世界120カ国へと広がり、6000人ものシスターやブラザーによって支えられています。そして、彼女が毎日座っていたカリガートのある祈りの部屋には、彼女の棺とともにあの小さく華奢な身体をした、座って祈りを捧げる模像が置かれています。私のマザー・テレサとの出会いは、何年か前にカルカッタの本部を訪問した際のことでした。精緻にできたその模像から、彼女の息づかいが聞こえてくるようでした。

『マザー・テレサ 日々のことば』は彼女の深い愛に満ちたことばを通して、喜び、平和、愛、希望という私たちの中にある大切なものをもう一度気づかせてくれる、そんな本です。一度手にとってみてはいかがでしょうか。その日の日付のページを読むのもいいですし、ふと気になったページを開いてみても、きっと皆さんの求める言葉に出会えると思います。

この本が、皆さんに素晴らしい一日をもたらしますように。

最後にクリスマスの日に選ばれたマザー・テレサのことばを紹介します。

「12月25日」
クリスマスの日、
私たちは、
か弱く、貧しく、
幼い乳飲み子としてのイエス様を見ます。
彼は、愛し、愛されるために来られました。
私たちは今日の世界で、どのようにして
イエス様を愛することができるのでしょうか?
私の夫に、私の妻に、
私の子供たちに、
私の兄弟や姉妹に、
私の周りの人たちに、
そして貧しい人たちの中におられるイエス様を、
愛することによってできているのです。
さあ、ベツレヘムの
貧しい飼い葉おけの周りに集いましょう。
そして、私たちが日々出会う
全ての人の中におられるイエス様を
愛することを固く決心しましょう。

メリー・クリスマス!

投稿者 Inoue: 12:31 | トラックバック

2006年12月16日

Aflac、がん保険のパイオニア、大竹美喜さんを講師に迎えて
?他者との関わり中で人生を拓いてきた天性のPRパーソン

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

「アフラック、アフラック」と鳴くアヒルのコマーシャルを皆さんも一度はご覧になったことがあると思います。1974年、日本で初めて「がん保険」を取り扱い始めた米国系生命保険会社、アメリカンファミリー生命保険(Aflac)です。 現在では、日本における外資系生保では最大規模。総資産およそ5兆円、米国親会社の3倍の収益を誇るまで成長しました。

その立役者が、日本社創業者・最高顧問である大竹美喜さんです。「人間は関わりを持って生きている」といえますが、大竹さんはまさに他の人との関わりのなかで、自分の人生を切り開き、成功を収めたユニークな企業経営者でありPRパーソンといえます。今回は、その大竹さんを「パブリック・リレーションズ概論」に講師としてお迎えし、「アフラックとPR?ビジネスと社会的使命」についてお話いただきました。

大竹さんとの出会いは、10数年前、大竹さんがAFLACの会長をしておられたとき、たまたま同じ団体のメンバーとして紹介を受けご挨拶したことに始まります。大竹さんとはビジネスにおける考え方や姿勢に共感する部分が多く、以来親しくお付き合いさせていただいています。

■ 求めれば必ず天職に巡り合える
授業の中で大竹さんは、「求めれば必ず天職に巡り合える」として、ご自身が32歳でAflacのがん保険とであうまでの軌跡を語ってくれました。

大竹さんは大学卒業後、農業技術者を目指して渡米。米国でキリスト教を受洗し、牧師として アフリカのコンゴでの布教を志しますが、コンゴ動乱で挫折。その後、政治家の秘書などいくつかの職業を経験した後、72年にAflacのがん保険と運命の出会いをします。

Aflacの創業は1955年。本社は米国ジョージア州、コロンバスにあります。フロリダ大学に学び大学を出た弁護士であったジョン・エイモス氏が弟のポール・エイモス氏と共に創業しました。2人は癌に苦しむ父親をみて、58年「がん保険」を開発・販売を開始。73年にはニューヨーク市場に上場しました。同社は世界での販売を目指し、大竹さんに日本支社創立への協力を要請してきたのでした。

しかし当時の日本では、外国生保会社に対する認可は皆無。「がんは不治の病」とする固定観念もあり、なかなか受け入れられず、認可取得までに2年半もかかったといいます。当時の大蔵省や厚生省と交渉を重ねる苦悩の日々。そんな大竹さんを支えたのは、この仕事が「自分の使命」であるとの使命感と好きでたまらない気持ちであったと話してくれました。

74年10月1日、同社は日本で念願の事業免許を取得。日本におけるがん保険が誕生しました。大竹さんは、それ以来さまざまなパブリック・リレーションズを通して、生命保険でも損害保険でもない「生きるための保険」として、癌とがん保険の認知活動を積極的に行った経緯を話してくれました。

その根底にあるのは、公共性と新たな価値の創造。ビジネスは利益追求だけでなく、愛と正義を追求すべきとして、良き企業市民として倫理観に沿った社会貢献に力を注ぐと共に、誰もやっていない未到の領域に常に挑戦していると語ってくれました。その内容は、「芸術・文化、社会的貢献、コーポレート・ガバナンス、コンプライアンス、社会的責任投資、環境、地域貢献」。その成果は現在同社が推し進めている「公益信託 アフラックがん遺児奨学基金」「アフラックペアレンツハウス」などのCSR活動や1985年、世界初の痴ほう介護保険の販売に見られます。

また、Aflacのスピリットを伝える愛の伝道師として、トップが自らPRパーソンとなり、自己修正をしながら目標を達成していくことが極めて重要であるとしました。トップの役割を、「企業理念の浸透」や「ビジョンを描き、ステークホルダーからの共感を呼ぶ」ようにすることとし、また、「社会的使命を果たし、リスクを請け負う」ことだと語りました。

様々なリレーションズの中でも、多くのターゲットに到達できるメデイアやメディアのトップと良好な関係性の構築・維持の重要性を述べ、そのためには、自ら話題づくりに努力すること、常に明確なメッセージを頭に描くこと、相手(双方向)の視点を持つことなどを挙げました。

■ 自分との対話から信念や志が生まれる
Aflacの驚異的ともいえる成功は何処から来たのでしょうか。大竹さんはその要因を大竹流4つの経営哲学として簡潔に語ってくれました。

1. 卓越した何かを持つ
2.うわさに惑わされず、確実な情報をつかめる?真実を見極める目
3.失敗から学ぶ、失敗を恐れない
4.人を選ぶ?企業は人なり

加えて、次世代のリーダーには「個の確立」が必須であると強調されました。それには、自分との対話の時間を持つこと。物事を掘り下げて考える方法を学ぶことであるとしました。自問自答を繰り返す中で、本当に大切なものを見極められるようになり、しっかりとした志が内側に育っていくと語り、「高い志を持って、一人ひとりが光る存在になって欲しい」と次世代を担う人への強い期待感を示しました。

講義の後の質疑応答も活発に行われ、真実を率直に語る大竹さんの講義に学生の皆さんも引き込まれてしまった様子でした。

大学卒業後の10年間、挫折を繰り返す中で彼を支えたものは、「必ず天職に出会えるとの思い」だけだったといいます。「32歳で天職に出会えたことは、遠回りに見えて、実は近道であった」、つまり「目標達成に向かって困難に遭遇しても諦めずに目標を実現していくことが結局は最短距離で目標を達成することになる」との言葉は、様々な人との関わりの中で自らを高め、夢を実現してきたひとりの人間の言葉として深く印象に残りました。

広島の山村に生まれ、雨の日も、風の日も、雪の日も、小学校を毎日往復4時間かけて歩き続けた大竹少年。その自問自答の人生は大輪の花を咲かせました。「自分のあるべき姿や夢を思い描き、常に目的意識を強く持ってその夢を実現していく」。大竹さんが講義のなかで幾度となく繰り返していたこの言葉は、PRパーソンはもとより、次世代を担うリーダーに最も必要とされる、人生に対する姿勢であるといえます。

大竹美喜さん、どうも有難うございました。

投稿者 Inoue: 12:38 | トラックバック

2006年12月08日

真珠湾攻撃から65年。奇襲攻撃で日本が背負ったもの。

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

■内部ミスで「奇襲攻撃」となった
今から65年前の今日、1941年12月8日、真珠湾攻撃が行われました。この真珠湾攻撃開始に際し日本政府は、事前に宣戦布告書を米国政府に手交する予定でいました。しかし、実際に宣戦布告書となる「対米覚書」が野村吉三郎在米日本大使と来栖三郎特使によりハル国務長官に手渡されたのは真珠湾攻撃開始の一時間後のことでした。

私は1988年、メルボルンで行なわれた国際PR協会(IPRA)世界大会で講演する機会を得ました。テーマは「日本人から見た異文化コミュニケーション:Cross Cultural Communication--A Japanese Viewpoint」で、日本固有の文化的背景の説明をくわえて日本のコミュニケーション能力の脆弱さについて述べました。

80年代、経済超大国にのし上がった日本は一方で、農業問題、半導体摩擦など、国際社会における様々な問題を抱えていました。ジャパン・バッシングという言葉が世界中を駆け巡り、ひとり勝ちをする日本が一方的に悪者として扱われた時期でした。

前述の講演の中で私は、これらの問題は日本におけるパブリック・リレーションズが機能していないことに起因していると結論付けました。つまり、国際社会における日本を取り巻くパブリック(ターゲット)は、諸外国の政府機関であり産業界であり、国民・市民です。日本がパブリックの視点に立ち、双方向の対話(コミュニケーション)を通した相互理解による合意や譲歩を醸成できないことが問題の深刻化を招いていると考えたのです。

その事例として第二次世界大戦における真珠湾攻撃が、ワシントンの日本大使館の不手際によって奇襲攻撃となってしまったケースを挙げました。つまり事前に手渡すべき宣戦布告書が在米日本大使館の内部ミスによって遅れた事実を明らかにしたのです。真珠湾攻撃がなぜ奇襲攻撃となったのかに関しては、6年後朝日新聞がスクープ記事として大きく取り上げました。1994年11月20日、外務省による1946年調査の公文書、『「対米覚書」伝達遅延事情に関する記録』が公開されたのを受け、同紙が翌日11月21日付け朝刊の一面と社会面のトップで大々的に報じたのです。そして朝日新聞はこのような大失態のなかでも、誰も責任を取らなかったことを記述しています。

国際法(ハーグ条約)違反である予告なしの攻撃に、米国内はもとより国際社会からは日本政府に対して激しい非難が浴びせられました。しかしこのような重大な危機が発生した時点でも日本政府は、外務省内のミスを認め、国際社会にその事実を明らかにする行動をとりませんでした。まさに「オープン」「フェア」「スピード」といったパブリック・リレーションズにおける危機管理に求められる対応姿勢が、ことごとく欠如した結果となったのです。この失態は米国の憤りに油を注ぐ結果となりました。そして真珠湾攻撃は米国への宣戦布告なしの卑劣な奇襲攻撃(Sneak Attack)であるとされ、米国の参戦を決定付けたのです。

このような日本政府の稚拙な対応の背景には、当時の日本が軍国主義路線を歩んでいたこともさることながら、日本固有の文化的特性にあるといえます。失敗を犯した際に言い訳を潔しとしない文化。間違いを犯した時にその事実を外に知らしめることを是としない「恥」(人前で辱められること)の文化。また古来から息づいている「和」といった日本文化をベースにした、権威に服従しがちな組織内のヒエラルキー意識。そして国際的な利益より国内の利益あるいは仲間(身内)をかばい、自分の帰属する組織の利益を優先させる文化的価値観。これらの要素が大きく影響していたと考えられます。

■民主主義社会で活かされるパブリック・リレーションズ
太平洋戦争突入時の日本社会は自由主義体制になく、現在の民主主義国家とは異なる条件下で起きた戦争でしたが、内部的な不手際やその対応の誤りは、戦後50年以上にわたり「卑怯な日本人」というイメージが国際社会に根付き、日本国民に多大な損害を与えてきたといえます。

日本のその後の運命を決定付けたとも言える真珠湾攻撃から65年。朝日の記事が示しているように、問題発生に際し「誰も責任を取らない」状況は変わることなく、今も日本では、企業や官界、政界で不祥事がとどまることなく繰り返されています。まさに日本社会に、パブリック・リレーションズが機能していないことを示しています。

戦争が人類にもたらすものは、苦悩と悲しみだけです。このような過ちを二度と繰り返してはなりません。そのソリューションが「倫理観に支えられた自己修正能力を伴った双方向のコミュニケーション」で目的を達成するパブリック・リレーションズです。

相手の視点に立った絶え間ない双方向のコミュニケーションを通して、倫理観をベースとした自らの修正を可能にする手法が、多様性を抱合して幸福を追求する機会を平等に与え、人々が輝くことのできる社会の実現に求められているのだと思うのです。

投稿者 Inoue: 20:22 | トラックバック

2006年12月02日

NYからヘッジファンドの鬼才、
デビッド・シーゲル氏を講師に迎えて
?コンピュータ・サイエンティストの軌跡

こんにちは、井之上喬です。
今年もいよいよ師走を迎えましたが、皆さん、いかがお過ごしですか。

皆さんヘッジファンドが何かご存知ですか?ヘッジファンドは公募によってではなく、私募によって少数の投資家から私的に大規模な資金を集めて運用する投資団体のことで、投資リスクをヘッジするために投資対象を分散させ、株式、債券、商品、為替などを扱います。

ヘッジファンドの活動は1970年代から徐々に始まり、1990年代にはその投資手法を巡り世界の金融市場で大きな話題となりました。今やヘッジファンドの数は全世界で5000社を超え、その市場規模は100兆円を超えるといわれています。

■ヘッジファンドで世界の最先端を行く会社
今回は、ヘッジファンドで急成長するTwo Sigma Investmentsの会長、デビッド・シーゲル氏を「パブリックリレーションズ概論」の講師として迎え、「ヘッジファンドにおけるパブリック・リレーションズ」についてお話いただきました。

デビッド・シーゲル氏は、マサチューセッツ工科大学人工知能研究所で研究生活を送り、そこでコンピュータサイエンスの博士号を取得しました。その後ニューヨークで多くのコンピュータ・サイエンティストを抱え、ハイテク投資銀行として知られるD・E・ショー (D.E. Shaw &Co.)に入社、プリンストン大学の同窓で同僚でもあった、アマゾン・ドットコムの現CEO、ジェフ・ベゾス氏などと幅広い活躍をしました。

シーゲルさんはD.E.ショーで世界初のWeb上での株式売買決済システムを開発。Web上の個人向け証券取引会社のD.E. Shaw & Co’s Far Sight Financial Servicesを創業。

その後、ヘッジファンドの大手、Tudor Investment CorporationにCIOとして加わり、平行して1999年同社が関係する登録者のブックマーク管理会社、ブリンク・ドットコムを設立。またTudor Investmentの日本での事業部門、Accelerator(米国ベンチャー企業の日本進出支援VC)でマネージング・ディレクターを兼務。

2001年、シーゲルさんはNYのSOHOで、コンピュータとファイナンスを組み合わせた新しいビジネスを始めたいと考え、アマゾン・ドットコム出身のJohn Overdeckと共にTwo Sigma Investments (TSI:http://www.twosigma.com/)を立ち上げ、わずか5年で数10億ドルのファンドに仕立て、社員130名を擁する中堅ヘッジファンド会社へと成長させました。平均10名前後で運営されるこの業界ではまさに急成長企業であり、その急成長をもたらせた大きな要因として、何よりもシーゲルさんの卓越したコンピュータ技術が挙げられます。

シーゲルさんとの出会いは1999年、D.E.ショーの日本進出を支援した私たちに、元D.E.ショーの彼がブリンク・ドットコムの日本進出のためのパブリック・リレーションズのカウンセリングを求めてきたときのことです。以来彼とは、本人のMIT時代の友人と、1980年代に私がMITの人工知能研究所と交流を深めていた頃の友人(シーモア・パパート人工知能研究所所長や後に並列処理スーパー・コンピュータ会社、シンキング・マシーンズを興した、ダニエル・ヒリス氏など)が共通であったこともあり、意気投合し友人でありビジネスパートナーとしての関係にあります。

講義の中でシーゲルさんは、一般的に企業イメージの構築に関心が薄いヘッジファンドの業界でブランド・イメージを明確に打ち出すことの意義と手法について語ってくれました。

TSIのブランド・イメージは“Excellence & Exclusivity”。このブランド・イメージ確立のために「質の高い人材の確保。職場環境の整備。信用と信頼の構築。口コミでのプロモーション展開」という4つの方針を掲げました。

米国のヘッジファンドにはSECへの登録企業と未登録企業があり、登録企業は政府からの規制を受け入れる代わりにビジネス用のホームページをつくることが許されているようです。一方未登録の企業はプロモーション目的でのサイト構築が禁止されています。

規制のない自由な投資活動を選択しているTSIは未登録企業です。そこで考えたのが、採用のためのサイト構築。グーグルが欲しいと思うような最先端のコンピュータ技術を持つ最高レベルの人材を採用したい。そんな想いもあって、楽しく充実したサイト構築に知恵を絞ったといいます。

ヘッジファンドの業界は狭く、ひとりを納得させることができれば口コミの効果を大いに期待できる。これを知っていたシーゲルさんは、顧客からの信頼を築くためには控えめな目標を設定してその目標を常に達成することに努力を傾注したといいます。そして、一対一のコミュニケーションをしっかりと築き、TSIを深く正確に理解してもらうことにつとめました。いまではその努力が実り、実績に裏付けられた信用・信頼を築くことができ現在の成功につながったと語っています。

公式なビジネスのプロモーションが規制されているヘッジファンド。シーゲルさんは、仕組みの解かり難いビジネスの理解を得るには、事実を判りやすく語ることが極めて重要であると述べました。そしてターゲットとの良好な関係構築・維持の手法として、パブリック・リレーションズがとても重要な役割を担っていると語ってくれました。

■ビジネスの3つの心構え
将来社会人となる学生へのビジネスにおける心構えとして彼は3つ挙げました。 一つは、「現実離れしない楽観主義が極めて大切である」。起業や組織運営は予期しない問題発生の連続。悲観的では問題処理に疲弊し、その重圧に押しつぶされてしまいます。楽観主義で問題を軽やかに捉える一方で、現実レベルで問題を把握して的確に対処するバランス。この絶妙なバランスがビジネスの成功には必須であるとしています。

二つ目は、「失敗の経験を活かす」。直面した問題を乗り越えていくことは、よい経験をしたときと同じくらいの価値を持つとして、失敗を恐れず勇気を持ってビジネスを行うことが重要であることを強調。ひとつの分野である程度の期間経験することにより、そこで得られた技術や能力は蓄積され、一貫性を持つようになる。それが更なる挑戦へのモチベーションの源泉となると語っています。

最後に忍耐力。早急に結果を求めすぎると、結局チャンスを逃してしまうとして、忍耐強く、目標に一歩一歩近づく努力を惜しまないことが大切だと述べ、「忍耐力が結局は目標達成への一番の早道」であることを強調しました。2001年前後、私がAccelerator事業で彼と一緒に仕事をしていたとき、私は彼の忍耐強さに何度も感心させられたことがあります。動きの早い業界で生き抜いてきた人からの言葉として、「忍耐力」は重みを感じさせてくれます。

また今後のビジネスの展望については、「日本や米国のような先進国においてモノづくりの時代は終焉しつつあり、製造業は安い賃金を求めて中国、インドにシフトしている。これから私達は多くのアイデアを考案し付加価値を生むビジネスを展開していかなければならない。その意味において、知的財産(IP)の創出と運用は将来極めて重要なものとなるだろう」と語ってくれました。

シーゲルさんの講義は全て英語。ゆっくりかみ締めながら語る言葉には重厚な説得力を感じさせてくれました。講義後も受講生から英語でいくつも質問が飛び出し、瞬く間に90分が過ぎてしまう活気に溢れたものとなりました。

「成功の秘訣は、心から愛する分野で夢を実現するために忍耐強く取り組むこと」
14歳からコンピュータのプログラミングを始めて30年余り経過した今でも、コンピュータをこよなく愛し事業に取り組むシーゲルさんのこの言葉がとても印象に残りました。

投稿者 Inoue: 13:19 | トラックバック