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2006年08月25日

パブリック・リレーションズとの出会いを通して、
?前期の授業終了

こんにちは、井之上喬です。
厳しい残暑が続きますが、皆さん、いかがお過ごしですか。

7月末に、早稲田大学大学院商学研究科MBAコースの授業と同大学学際授業「パブリック・リレーションズ特論」の授業を終えました。


■上司と部下が同じ授業に
MBAでのプロフェッショナル・コースの授業は、ケーススタディを通して理論を踏まえた実践を学ぶ授業でした。社会人である院生の探究心や向上心の強さには目を見張るものがあり、より深く踏み込んだ授業を行うことができました。

少人数での授業は家族的で、日ごろ抱えている問題を皆で考えたり解決法を論じたり充実したものでした。嬉しい出来事は、受講生の一人が所属する会社の上司である部長さんが、2回に1回のペースで聴講生として参加し真剣に学んでいったことです。とてもほほえましい光景でした。
忙しい中一度も休まず、一日平均5?6時間の睡眠で授業に出席し熱心に取り組んでくださった皆さんありがとうございました。

一方「パブリック・リレーションズ特論」は2005年の後期の授業「パブリック・リレーションズ 概論」で教えた理論に基づいて実践を学ぶクラス。5?6名編成の5つのチームが、設定されたテーマに対して、パブリック・リレーションズライフサイクル・モデルに沿って作成したプランをグループごとに発表するゼミ形式の授業です。

ちなみに、「パブリック・リレーションズ概論・特論」は、今年4月に「オープン教育センター」(学部生間の学際授業)で「学生主役の動く授業」として1200ある科目のなかの6科目の一つに選ばれる栄誉を得ています。


■半年の授業に2年分のエネルギーを注いだ若者達
「特論」は隔週に行う半年間の変則授業でしたが、各グループは授業のない日もグループで教室や学校近くの仲間の下宿先に集まり、授業以外で徹夜も含め延べ50?60時間もの時間をプラン作成のために精力的に取り組んだのでした。つまり学生たちは、半年間の授業(2クレジット)に対し2年分(8クレジット)相当の時間を費やしたのです。眠たい目をこすりながら、時間に遅れないように授業に参加した受講生の姿勢には心を打たれました。パブリック・リレーションズのプランニングを知らなかった学生の目が回を重ねるごとに輝きを増し、グループの結束力が強まっていく姿は感動的でさえありました。

7月最後の週末には、総仕上げとして、一泊二日の合宿形式による授業と試験。千葉県鴨川市の山あいにある素晴らしい眺めの早稲田大学のセミナーハウスは、クリエイティブな授業には格好の場所でした。

試験内容は、通常の倍の制限時間180分(3時間)で提示された条件のなかでPRのライフサイクル・モデルに基づいてプランを作成し論述を展開するというもの。翌日に行われた最終授業では、一人ひとりの解答案へ対して良い点、改善すべき点などのコメントをつけた講評を行いました。

最後の夜は、バーベキュー・パーティ。その後、打ち上げを兼ねた飲み会を開き、時間がたつのを忘れて夜中まで様々なことを語り合いました。

授業の最後に感想レポートも提出してもいました。そこには、受講生がパブリック・リレーションズとの出会いを通して初めて味わった想いや体験などが生き生きと描かれていました。レポートを読みながら、学生の皆さんが他者と協力して何かを成し遂げる場所をこんなに強く求めていたのかという事実に驚きと感動を覚えずにはいられませんでした。

日々のビジネスに携わりながらの講義は思いのほか大変です。しかし、パブリック・リレーションズのもつ可能性や素晴らしさを全身で受け止め、自分の持てる力を最大限に発揮しようと挑戦する学生たちの姿を見て、この授業を続けて本当に良かったと思うのです。

将来彼らがバックボーンを持って、自立した個を確立させた次世代のリーダーとして、日本や世界のために役立つ人間に成長していくことを心より楽しみにしています。

学生の皆さんそしてTAの守田哲君、ありがとう!

■情熱と好奇心に溢れた受講生のレポート
今回提出していただいた受講生の感想レポートは、どれもが豊かな個性とエネルギーに満ちた素晴らしいものでした。その中で今回は授業の様子がみずみずしく描かれている、法学部3年生横澤俊之君のレポートをご紹介します。


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PR特論レポート  早稲田大学法学部3年 横澤俊之

この授業、とにかくアツかった。お酒も飲まず、朝まで発表の為に語りあかす。漫画の中でしか有り得ないだろうなって思っていたことが普通に現実で起こる。
中途半端な気持ちで終わらせたくない。そんな思いがみんなの中で凄く強かったのだろう。それ程この授業にのめり込んでいたのだ。

今まで企画というのは一人が奇抜なアイディアを出して、それに基づいて意見を出し合って修正していく形が一番なのだと思っていた。だからうちの班では企画会議から始まったし、その形式は各自が自分の早稲田をPRするのに面白そうなプログラムを持ちより、そこから厳選していくという形だった。今までの僕だったら実際最後までそのままそう進行していただろう。

しかし、それではおそらく「オーダーメイド授業」というプログラムは世に存在していなかった、もしくは存在していたとしても、今ほど重層的ではなかっただろうと思う。

数回の会議を重ねるうちに、PRプログラムを厳選していく企画ありきの姿勢ではなく、ライフサイクル・モデルに基づいて一から、やっていこうという方向性が生まれた。確認はしたものの、僕自身なかなかそのやり方を肯定しきれなかった。企画は一人で作れるものだと思っていたから。

全てのきっかけはあの日だった。そんな考えが崩れ去っていったのは。
最初のプレゼン前夜。詳細が煮詰まらない現状を打破するため、僕らは夜通し会議をすることを決めた。冒頭でも述べた“漫画みたいな世界の話”が現実となった瞬間だった。
どんな些細な考えでも共有しあった。どんな細かいところでも確認しあった。
『ここが一番の根底であり、僕らにとって一番大事なところだから』
9時間に及ぶ会議が終わり、朝を迎えたその時。

部屋一面に張られた模造紙を見た。

アイディアが膨らんでいく様子が鮮やかに表現されている。僕らが共有している全てがここにある。その瞬間痛感した。

写真は社会科学部4年 杉崎豪紀(たけのり)君


一人だけで作る企画じゃ、こんなものには到底勝てない。と。

答えのある課題じゃないだけに、自分達の力でいくらでも発展させられる。無限の可能性が広がっているのだ。そしてそれに立ち向かうのは刺激し合えるメンバー。最高に面白いと思った。

このメンバーとだったら、何だってやってやれる。
「オレたちには限界なんてない」なんてウソだって分かってるけど 、それでも「限界なんてねぇぜ」って胸張って強がる僕がいる。それくらい奮い立った。

PPTやビデオに関してもほぼ無知な状態からのスタートだったけど、それでも挑戦してやろうと思えた。それはみんなで一つのものを作っているという思いがあったから。絶対に逃げないと決めていたから。先生のPRに対する熱い想いを感じたから。他の班の頑張りも凄かったから。全てが刺激となり、僕らの力になった。

そこから先も様々なことを感じた。
ライフサイクル・モデルに対する絶対的な信頼。会議を通して知る、教科書の大事さ。会議の進行の難しさetc…

それらの全てを発揮した、最後のプレゼンを終えた時、僕は不思議なことに全く達成感がなかった。頭に浮かぶのは、もうしなくてもいいのに、次の会議いつやろう、とか、もっとここをこうしたらとか、PRのことばかり。その度に、あっもう終わったんだったと気づく。そう、最初に襲ってきた感覚は寂しさだった。

授業が終わって寂しい。そんな感覚を持てる授業が他にあっただろうか?そして今後、そんな授業に出会えるだろうか?

この授業は受講して本当によかったと心から思える講座だった。

この講座を開講してくださった井之上先生を始め、全体をサポートしていただいた守田さん(TA)、そしてPR特論の受講生のみんな。全ての人に心から感謝しています!

本当にありがとうございました!!


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投稿者 Inoue: 19:58 | トラックバック

2006年08月18日

瀬戸内海のまんなかに浮かぶ癒しの空間 弓削島

瀬戸内海のほぼ中央に浮かぶ弓削島。弓削島は幼少時代に毎夏滞在し、心と体の基礎を築いてくれた私のふるさとです。今年もお盆休みを利用して、母が生れ育ったこの島に住む95才と91才の叔父・叔母に会うために訪れました。島から見る瀬戸内海は、夏霞に太陽をいっぱい浴びて幻想的に輝いていました。この癒し空間で4日間、つかの間の休暇を楽しみました。

■松原海岸が日本の海水浴場の100選に
環境庁が今年初めて選定した日本の快適な「快水浴場百選」に、弓削島の松原海岸が愛媛県で唯一選ばれました。美しさはもちろんのこと安全性や環境への配慮が高く評価されての受賞。またNHKがその100箇所をくまなく歩き、最終的に3箇所の特色のある海水浴場を選びました。なんと松原海岸はその一つに入っているのです。

そして先日NHKで、弓削島の地元ボランティアにより行われている環境保全プロジェクトが紹介されました。「NPOゆげ夢ランドの会(代表:村瀬忍さん)」が3年ほど前から行っているEM菌(有用微生物群)を使った水質浄化プロジェクトです。島内の8箇所の砂浜にEM菌を使った土団子(テニスボール大)を投げ入れるもので、そのおかげもあってか島の水には透明感が戻ってきました。嬉しいことに、海岸にはいつもよりタコが採れるようになったり、10数年ぶりにカニが戻ってきたようです。

瀬戸内海は、年間平均気温が15度から16度と温暖でマイルドな気候に恵まれています。
海の波もおだやかで海水浴に最適の海岸が他にもたくさんあります。そして瀬戸内の島々の美しさは「魂にふれる」という言葉がぴったりくる、人の心を癒す神秘的なところにあります。

■瀬戸内の歴史と文化が身近に
この豊かな自然のほかに、弓削島の周辺にはさまざまな史跡や瀬戸内文化を醸成したゆかりの場所があります。北の対岸に浮かぶ因島(広島県)は、室町時代から戦国時代に隆盛を誇った村上水軍の本拠地があった島で、1983年には因島水軍城が再建されました。そこには資料館が併設され、彼らの活躍の歴史を学ぶことができます。

その西隣の生口(いくち)島(広島県瀬戸田町)には、高来寺や地元瀬戸田出身の画家である平山郁夫の美術館があります。その洗練されたデザインの美術館では、「私の原点は瀬戸内の風土である」と語っている画伯の繊細で感性あふれる絵を存分に楽しむことができます。

さらに生口島の西隣にある大三島(愛媛県)には、推古天皇により摂津(現在の大阪府)から同地に移された(594年)大山祗(おおやまづみ)神社があります。「山の神」「海の神」「戦いの神」として朝廷や武将から崇められていたこの神社には、平安初期の日本最古の鎧や源頼朝、源義経(鎧もある)が使っていた名刀を初め日本の国宝・重要文化財の約6割を占める刀剣類や鎧が納められています。ちなみに、ここでご紹介した島々は弓削島を除いて、尾道市と今治市を10の橋で結ぶ自動車道「しまなみ海道」沿いにあります。

瀬戸内文化が生んだ多彩な歴史と美しい自然をもつ島々。しかし、これらの島にも過疎化や高齢化など、日本の地方が直面する問題を抱えています。私は、地元の歴史・文化に根ざした街づくりと、インターネットのインフラ整備によるIT企業、とりわけソフト企業の誘致に同時並行で取り組めば、瀬戸内の豊かな自然を維持しながらの経済的な繁栄の実現も可能であると、つい考えてしまいます。

ひょっとしたら、日本を代表する一大癒し空間になるのではないかと思ってしまうほど瀬戸内の島々には不思議な魅力があるのです。

今年も叔父・叔母そして従姉弟や、彼らの子供たちと共に釣りや会話を楽しみ、幼少のころと変わらない海草の香りのする潮風をたくさん受けて、心と体を癒しました。

東京に帰る日、叔父と叔母には来年また戻ってくることを約束しました。目に泪を浮かべ、船上の私の姿が見えなくなるまで、桟橋から両手を力いっぱい振って見送ってくれた叔母の姿が私の目に焼きついています。

投稿者 Inoue: 19:07 | トラックバック

2006年08月11日

この国の新しいかたち
  ?パブリック・リレーションズでもう一度日本を輝かそう
    第1回「国家のグランド・デザイン」とは

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、お盆のシーズンをいかがお過ごしですか。

1945年8月15日に日本が第二次世界大戦の終戦を迎えてから、61年の年月が流れました。
国民が「復興と発展」という明確な目標へ心をひとつにして戦後の荒廃から立ち上がり、西欧先進国を手本に近代工業化社会を実現し、80年初頭には世界の頂点に立った日本。その頃の日本は、確かにある種の輝きを放っていました。

今年でバブル経済崩壊から15年。この10月には57ヶ月にわたる「いざなぎ景気」の記録を超え、2002年2月から始まった景気の拡大は戦後最長記録を更新することになりそうです。

■輝きを失った日本
しかし現在の日本を見ていると、街を歩いている人々の目には輝きがなく、日本全体に喪失感にも似た虚脱感が漂っているように感じられます。

なぜなのでしょうか。

戦後、物質的な豊かさをベースにした経済発展を推し進めてきた日本は、経済大国として先進国を凌駕する存在になりました。そのことは同時に経済至上主義を国家目標に掲げてきた日本にとって次に達成すべき目標を失ったことを意味していました。

そしてその発展の中で日本は、個人や社会における真の強さや幸福をもたらす精神性を養うことを怠ってきました。

国民はその時、再び共有できる新しい目標を渇望していました。しかし社会システムの中に、個人や社会のバックボーンとなる倫理観や冷静に自己を見つめる客観性を育んでこなかったため、新しい目標の創出ができないまま迷走状態に陥ってしまったのです。

バブル崩壊後93年に誕生した細川政権以来、実に6つの政権が新しい時代に対応したシステムの構築に向けて取り組んできました。2001年に誕生した小泉政権においては、公共事業削減や不良債権処理など、ある意味これまで野党が掲げてきた政策を積極的に取り入れ、日本の構造改革を推し進めてきました。しかし今なお、これらの模索から統合的で明確な国家の在り方が描かれるまでに至っていません。

そこで当ブログでは新しいシリーズとして、「この国の新しいかたち」と題し、パブリック・リレーションズの視点を通して政治、経済、社会など各方面から日本の現状を俯瞰し、日本の行く末を考察していきたいと思います。

第一回目は「国家のグランド・デザイン」について考えます。


■過去現在を認識して未来を描く
グランド・デザインとは、全体を長期的、創造的に見渡した構想を意味し、国家の行く末を示す全体像です。

国家のグランド・デザインを描くための前提条件は何でしょうか。私はグローバルな視点で現在の日本をとりまく状況を見据えたとき、まず過去の歴史認識を明確に持ち、現状をよく知ることだと考えています。

また国内では国を運営する側を情報発信者として捉えれば、そのパブリックは納税者・有権者である国民と彼らが帰属する組織体です。国民一人ひとりの人生を抱合する要素を多角的な視点で抽出し、国家経営上重要と思われる分野を明確にします。そして分野ごとに情報発信者とそれを取り巻くパブリックを特定し、両者の間に良好な双方向のコミュニケーション環境を創り出していくのです。

一方、国外に目を向けた場合、パブリックは外国の政府機関、国民、組織体などで、日本にとって重要と思われる分野を明確にし、同様に分野ごとの情報発信者とパブリックの特定を行い、良好な双方向コミュニケーション環境を創出していきます。

国家のグランド・デザインを考える上で必要な要素は、経済はもとより、農業、労働・雇用、安全保障、文化・社会、教育など、いわば国民一人ひとりの生活に関わりをもっているもので、その分野は多岐にわたります。従って、ある特定の分野での問題解決に偏っていては、国民全体が広く幸福を追求できる機会をもたらす社会の実現は困難であるといえます。

多角的な複数の視点を持ち、それらを同時並行で総合的にプランニングを行うことが国家のグランド・デザインを考え実施する上では極めて重要になります。

日本には、財政赤字、雇用、少子・高齢化問題、不安定なアジア外交、地球温暖化など、一筋縄では解決できない内外の問題が山積しています。しかし、各分野における優れた戦略を統合的に機能させることができれば、これらの問題への解決策を見い出し、活力ある揺るぎない国家として日本を再生させることは可能だと思うのです。

そのためには自立した個を確立し、高い倫理観と覚醒された人間性に基づいたリーダーの養成は喫急の課題となります。

少し先になりますが、回を分け、パブリック・リレーションズの視点を通して、もう一度日本を輝かすためにはどの分野でどのような取り組みが必要とされるのかに焦点を絞ってお話をしたいと思います。

投稿者 Inoue: 17:41 | トラックバック

2006年08月04日

広島原爆投下のプレス・リリースを書いたPRの実務家
アーサー・ペイジ(Arthur W. Page,1883-1960)

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、この暑さの中いかがお過ごしですか。

日本時間1945年8月7日午前零時「16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地、広島に一発の爆弾を投下した」との文で始まる声明文が発表されました。広島の原爆投下を知らせる声明文です。この文章は20世紀を代表するパブリック・リレーションズの実務家、アーサー・ペイジ(Arthur W. Page,1883-1960)によって作成されました。今回は、アメリカでは英雄視される彼の人生を追います。


■ハーバード時代から編集長
アーサー・ペイジは、1883年9月10日、ウォルター・ペイジとウィリア・ペイジの次男としてアメリカ合衆国ノース・カロライナ州アバディーンに生まれました。1885年、家族はニューヨークへと移り住みましたが、毎年夏にはノース・カロライナに住む父方の祖父の家で母たちと過ごし、南部の和やかな気質を醸成していったようです。

1899年プリンストン大学の付属高校に入学。3年生の時、ディベート大会で優勝し、その後、優秀な成績で卒業。父親や兄に倣って1901年、アーサー・ペイジはハーバード大学に入学。歴史を専攻し、アメリカやヨーロッパの歴史を学びました。大学2年から寄稿を始めた学内機関紙、Harvard Advocateでは4年生で編集長となり精力的に活動しました。

大学卒業後の翌年06年、アーサー・ペイジの父ウォルターと彼の友人が創業したDoubleday, Page and Co.を親会社に持つ雑誌社、World's Work Magazineに校正者として入社。ペイジはほどなく記者となり、政治やビジネスに関する記事を数多く手がけ「パブリック(一般社会)を動かすものは何かを理解し、その手法を駆使して記事を書くこと」を学びました。

プライベートでは12年にモリー・ホールと結婚。翌年には長女モリー・ジュニアが、15年には長男ウォルター2世、17年には次男アーサー・ジュニア、20年には三男ジョンが誕生しました。

アーサー・ペイジの父が駐英米国大使としてロンドンへわたった13年、ペイジは同雑誌社の編集者へ昇格。続いて16年にはその親会社Doubleday, Page and Co.のノンフィクション担当副社長に抜擢されました。ペイジはこの2つの役職を通してハーバード・クラブやセンチュリー・クラブなど数々の社交クラブに所属し、政界や財界に多大な影響力を持つ人との人脈を広げました。メンバーには、32代米国大統領のハーバート・フーバーや33代米国大統領フランクリン・ルーズベルトなど名だたる顔ぶれでした。

■米国初のPR担当副社長の誕生
しかしながら27年、Doubleday, Page and Coの経営方針で経営トップと折り合いがつかず、同社を退社することになります。そんなペイジに大きな転機が訪れました。当時AT&T社長であったハーバード時代の同窓生、ウォルター・ギフォード(Walter Gifford)に請われ、それまでの責任者であったジェームス・エルスワース(James Ellsworth)の後任としてアメリカ初のパブリック・リレーションズ担当副社長に就任したのです。

アーサー・ペイジは単なるパブリシストやプロパガンディストであることを望まず、企業の政策立案担当者として役割を果たそうとしました。そして47年に退職するまでの20年間、自らの哲学をもって当時アメリカ最大の企業、AT&Tにおけるパブリック・リレーションズの管理システムを確立しました。

その成果は27年10月20日テキサス州ダラスで開催された、the National Association of Railroad and Utilities CommissionersでのAT&T社長によるスピーチにも表れています。ここでAT&T社は「顧客に対して最良のサービスをできる限り低価格で提供する」とした現在のAT&T社における経営哲学の礎となる方針を明確に打ち出したのです。

ペイジはこの頃から、「公益を重んじた経営によって企業とパブリックの双方が利益を得、企業は効率的な活動を展開できる自由を確保する」と考えていました。また彼はPRを「コミュニケーションを通して組織体や個人が理解を促進するための、広告やパブリシティより効果的な手法」として捉え、そのコンセプトを「ペイジの7つの原則」として提唱しました。その原則とは次のとおりです。

1.真実を語ること
2.言行一致
3.顧客の声を聞くこと
4.将来を見据えたマネジメントを実践すること
5.企業の本質は従業員の行いに表れると理解する
6.社運はパブリック・リレーションズの成否にかかっているとの意識で活動に取り組むこと
7.常に冷静で忍耐強く、そしてユーモアを忘れずに取り組むこと

この原則にみられる彼のPRコンセプトは、双方向の思想が芽生えたばかりの20年代、30年代の米国におけるPRの歴史的背景を考えると、極めて進歩的でその核心を突いた鋭い感性には目を見張るものがあります。

41年に勃発した太平洋戦争を受けて、ペイジはAT&Tの副社長の傍ら政府との関係性を強めていきます。ここでも彼は上記の原則を基に、パブリック・セクターにおけるパブリック・リレーションズのシステムの確立を行いました。

■マンハッタン計画への関与
きっかけは第二次世界大戦中 陸軍長官を務めていた友人のヘンリー・スティムソンでした。父親の仕事の関係もあり人脈に恵まれていたアーサー・ペイジは、後に大統領となるドワイト・アイゼンハワーやカーネギー・コーポレーション社長のフレデリック・ケッペルなど米国を代表するリーダー達と親交を持っていました。特にスティムソンや時の大統領F・ルーズベルトとは家も近く家族ぐるみで付き合う間柄でした。

ある日スティムソンに請われたペイジは米国陸軍省のスペシャル・コンサルタントを務めることになったのです。彼は海軍や陸軍におけるPR機能をシステム化し、世界に配置されたアメリカ兵士のモラル維持のためのPRプログラムを構築しました。また、ノルマンディ上陸作戦における情報戦略にもアドバイスしたといわれています。

スティムソンはまた、42年に始まった米国の原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」の総責任者でもありました。スティムソンは原爆に関する協議を行う暫定委員会を設置しましたが、ペイジはその会合に出席していたとされています。ペイジの伝記を書いたノエル・グリース(Noel L. Griese)によれば、ペイジは原爆使用に関する最終勧告が作成された5月31日の会合にも出席しており、この会合には後の国務長官ジョージ・マーシャルや原爆製造研究チームを主導した物理学者、ロバート・オッペンハイマーの顔もあったようです。

広島原爆投下の声明文は当初、軍部の職員やニューヨーク・タイムズのウィリアム・ローレンス(William L. Laurence)により7500ワードに及ぶドラフトが作成されました。しかし納得のいく文章は生まれず、ペイジが担当することになりました。ペイジの作成した文章は1160ワードで、インパクトを保ちながらも抑制の効いた簡潔なものでした。45年4月12日に急逝したルーズベルト大統領の後を継いで33代米国大統領に就任したハリー・トルーマンによる文章の訂正は、ほんの数箇所であったといいます。

その声明文は米国東部標準時の6日午前11時(日本時間7日午前零時)、ホワイトハウスからトルーマン米大統領の名前でイーベン・エアーズ(Eben Ayers)報道官代理により発表されました。その時トルーマン大統領はポツダム会談を終えて巡洋艦「オーガスタ」で帰路の途中でした。

「16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地、広島に一発の爆弾を投下した。
この爆弾の威力はTNT2万トンを上回るものである。これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのグランドスラム爆弾と比べても、2000倍の破壊力がある。(中略)つまり原子爆弾である。」

後にペイジはアメリカ政府から戦時中の功績を讃えられ、Medal of Merit賞を授与されています。

47年にAT&T社を退職し60年に亡くなるまで、ペイジは政府や多くの企業のコンサルタントを務めました。

当時の国務長官であったジョージ・マーシャルにより提唱された欧州復興計画、マーシャル・プラン採択のためのロビー活動を展開したり、共産圏となった東欧諸国への支援活動に関わるなど、世界に自由と民主主義を広めるための活動に奔走しました。他にもフィランソロピーのためにカーネギー財団やハーバード大学の理事を務めるなど、慈善事業団体のためのカウンセリングを行いました。彼のパブリック・リレーションズの理念は、その後1983年に設立されたペイジ・ソサエティに継承されています。

■彼を「巨星」と呼ばない理由
アーサー・ペイジが生きた時代背景を考えれば、熱狂的な愛国者として自由と民主主義を広めるためにとった彼の行動は一概に否定できるものではありません。しかし、原子爆弾という恐ろしい破壊力を持った兵器が使用されたことで、人類の戦いの質が永遠に変化してしまったのも事実です。原爆使用の最終決定は当時のトルーマン大統領によるものであったことは確かです。しかしペイジはアメリカがこの未知の核兵器に対してどう対応すべきかについてアドバイスを行っていたといわれます。

世界で唯一の被爆国である日本に生れた私は、原爆使用における彼の思考や行動が本当に「正しかったのか」と彼に問いただしたい気持ちを禁じえません。

これまで紹介したように、アーサー・ペイジは早くからパブリック・リレーションズの本質を捉えこれを実践しました。彼はまぎれもなく、世界恐慌や大企業への規制強化の時代にAT&Tで活躍し、同社を幾度となく危機から救い、パブリック・サービスにも積極的に取り組んだ米国のPR発展史に名を残す優れた実務家です。しかし今回、私は彼を敢えて「巨星」とはいわず、米国で活躍した1人のPRの実務家として紹介しました。

さまざまな要因が重なったにせよ、日本には広島、長崎と2つもの原爆が落とされ30万人以上の尊い命が奪われました。あの夏から61年、世界は今も核の脅威にさらされ続けています。あの恐ろしい惨劇が二度とこの地球上で繰り返されてはなりません。この思いを強く胸に、犠牲となった人々のご冥福を心よりお祈りします。

投稿者 Inoue: 19:39 | トラックバック