相互リンクはこちら
バナーをどうぞ



« 2005年11月 | メイン | 2006年1月»

2005年12月30日

テヘランでの国際シンポジウムに参加して
?驚異のパブリック・リレーションズ熱

こんにちは。井之上喬です。
明日は大晦日、2005年もあと数十時間で終わりを告げますが、皆さんいかがお過ごしですか。

先日、12月中旬に訪問したイランの出張報告を予告しましたが、今年最後のブログはそのお話しをしたいと思います。

イラン(正式名称:イラン・イスラム共和国)は西アジアに位置しトルコ、イラク、パキスタンなどに隣接する中東の国です。人口は約6900万人で宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つユニークな共和制国家です。1979年ホメイニ師によるイラン革命により、当時パーレヴィー王朝のシャー(国王)、モハンマド・レザー・パーレヴィー国王がエジプト亡命を余儀なくされたことで王朝は終焉を迎え現在の体制に移行されました。国名イランは「アーリア人の国」という意味で、言語はアラビア語ではなくペルシア語が公用語として使用されています。

今回のシンポジウムは、イランにあるパブリック・リレーションズ・リサーチ研究所が私の所属する国際PR協会(IPRA 本部:ロンドン)の協力のもとで、12月11、12日の2日間にわたり開催されました。とくに開催直前、アハマディネジャド大統領による二度目のイスラエルへの問題発言(「イスラエルは欧州へ引っ越せ…」)が世界的に大きく報道されるなかで、初めてのイラン訪問に少なからず不安感を抱きながら現地入りしました。

今年4月にオープンしたばかりの近代的なイマーム・ホメイニ空港に到着すると、世話役のイラン厚生省の役人で大会事務局次長を務めるアミール・ラステガル氏が空港まで出迎えてくれました。郊外にある空港から首都テヘランへの道のりは車で約1時間半(道路は大混雑)。人口1,000万人を超える首都テヘランはイランにおける政治、経済、文化の中心地で、イラン高原の北西部に位置する周囲を山で囲まれた谷の町です。空気の流れが悪いせいか、市内の工場からの煙や車の排気ガスがスモッグとして滞留し、地元の学校が頻繁に臨時休校するほどです。

それでも意外なことは、イラン国内には4,000メートル級の山があり、その山麗から湧き出るミネラル・ウォーターはフランス産のエビアンを彷彿とさせるマイルドな味わいで、ホテルの水が美味しかったのもうなずけました。

パブリック・リレーションズの新しい理論研究をテーマにしたこのシンポジウムでは、国際PR協会の会長で長年の友人であるチャールズ・ヴァン・デル・ストラッテン(ベルギー)を含め、イギリス、ドイツ、アイルランド、エストニア、オランダ、ノルウェイ、日本など8カ国9人の学者や実務家がスピーカーとして招待されましたが、先の大統領発言もあり全員緊張して大会に臨みました。

地元の参加者は、イラン国内の政府機関や民間企業、教育機関などのPR担当者、そしてパブリック・リレーションズを専攻している学生などで、1000人を超え、大統領の問題発言もあり会場全体は熱気に包まれていました。

私のスピーチ・テーマは“Advanced Research of Self-correction in Public Relations( パブリック・リレーションズにおける自己修正に関する研究についての最新報告)” というテーマで、目的達成のためのパブリック・リレーションズ活動における「倫理」 「双方向性コミュニケーション」 「自己修正」の3つを重要な要素とし、とりわけ「メタ認知」の概念を適用した「自己修正」の有効性について語りました。メタ認知とは、一般的に自分の思考を思考することで、自分自身(行動や考え方、知識量・特性・欠点など)を別の次元から眺め認識することです。

講演前は「必要に応じて自己の深い部分で自らを修正する」といったテーマにどこまで聴衆の理解を得られるか心配しましたが、聴衆からは強い共鳴を得られたことに嬉しい驚きを覚えました。彼らがイスラム教を信仰に持ち、会議や集会の始まりには必ず短いお祈りをして一体感を持って物事に臨むなど、神の存在を理解しているからこそ共鳴してくれたのかもしれません。そして、聴衆からパブリック・リレーションズをより掘り下げて学びたいとの熱意が伝わってきたことも新鮮でした。

講演を終えて、外国からの訪問者へ興味を持った沢山の若者たちからデジカメでの記念撮影や、サイン攻めに会いました。なかでもとても面白かったのは、サインというよりEメール・アドレスを求められたことです。また、ブルカ(女性が被るスカーフとコート)を身に纏い一見か弱そうに見える女性たちが、それぞれしっかりしていて個性豊かであったことが印象的でした。

月曜日の午前中に講演を終えた私は、英国人のスピーカーと2人で、午後からのイラン国内で活動する金融機関のPR部門で働く管理職約40人が参加するフォーラムに参加しました。イランのファイナンシャル・セクターは一昔前の日本のそれに似ており、国の強い規制下で如何に他の国とりわけ湾岸諸国の金融機関との競争で差別化を図るべきかに神経を尖らせていました。そして、こうした状況の中ではどのようなパブリック・リレーションズが展開されるべきかが真剣に議論されました。

私の彼らへのアドバイスのなかで特に強調したことは、グローバル競争に打ち勝つ前提となる政府の規制緩和実現のための、パブリック・リレーションズの積極的活用の必要性でした。

その晩には、シンポジウムのスポンサーでもあるイラン最大の乳製品メーカー、イラン・デイリー・インダストリーズ社からプレゼンテーションを受けました(祈りで始まる)。考えられるPR手法を最大限使ったプログラムの紹介の後、驚きと共に知らされたことは、この会社のPR体制がトップに直結した実に強固なもので、PR責任者が経営コミッティ(委員会)、研究開発委員会、マーケティング委員会など、社内にある全ての委員会にメンバーとして加わり細部にわたって関わっていたことでした。

先入観を持って言うならば、イランのような国でパブリック・リレーションズが、完全な形ではないにせよ組織体に導入され、機能しているとは夢にも思いませんでした。まさに衝撃的な体験でした。

驚いたことにこのシンポジウム開催のつい1カ月前に、同じくテヘランで別のPR団体主催による国際会議(1000人規模)が開催されていたのです。ちなみに関係者の話によるとイランのパブリック・リレーションズに従事している実務家は6万人、そのうち約5千人は大学・大学院でパブリック・リレーションズの専門教育を受けているそうです。

ひるがえって日本では、私の個人的な調査によると、パブリック・リレーションズ(広報・広聴など)に従事する人の数は3万人弱。しかもそのほとんどが未経験者で、専門教育も受けていません。政府関連機関について言えば、広報担当者は2年から3年で他部門への異動のため離れてしまうのが実情です。このような構造的問題も日本におけるPRの発展の障害になっています。

また高等教育でのPR教育導入の必要性はもとより、日本のパブリック・リレーションズ普及の普及が遅れている要因のひとつには、PRやパブリシティ、広報など、パブリック・リレーションズを意味する言葉の乱立があるのではないかということです。パブリック・リレーションズが登場・発展したアメリカ以外の国々でも、パブリック・リレーションズが社会に浸透する上で何が源流(つまりPR)であるかが学問的に明確に理解されており、このような混乱はほとんど見られません。

いつの時代も、政治的に形成される国のイメージと、その国に住む人々の暮らしや生の声をとおして抱くイメージとは必ずしも同一ではないことを過去の歴史は証明しています。しかし今回の出張では、訪問前に抱いていたイランのイメージと実際の姿との乖離の大きさに驚くばかりでした。双方が偏りなく対等に情報流通を行う、対称性の双方向コミュニケーションの必要性も痛感することになりました。

イランでのPRの定着のための取り組みやその熱意を目の当たりにして、改めて日本における真のパブリック・リレーションズ普及へのシステム作りが急務であると痛感し帰国したのでした。


さて、本号は今年最後のブログとなりました。来年もパブリック・リレーションズの実務家、研究者としてさまざまな事柄を皆さんと共に見つめていきたいと考えております。ありがとうございました。

それでは皆さん、良い年をお迎えくださいますよう。

投稿者 Inoue: 20:00 | トラックバック

2005年12月24日

クリスマス・イヴの夜話『ヨシュア』 ? 自由と解放をもたらすひと

皆さんこんにちは。
                               
今日はクリスマス・イヴです。今から約2000年前にユダヤのベツレヘムという村の「馬小屋」で生れた、イエス・キリストの誕生日(25日)の前夜をクリスマス・イヴといいます。

今日はクリスマスにちなんで米国で1983年に刊行されベストセラーとなった本『ヨシュア』のご紹介をしたいと思います。作者はカトリック司祭のジョーゼフ・F・ガーゾーンで、発売以来今日に至るまで推定約4000万人以上の人びとに読まれている本です。

『ヨシュア』は、日常の喧騒と葛藤の複雑な社会に生きる私たち読者に対し、精神的な安らぎと共に不思議な時間と空間を与えてくれます。

アメリカの片田舎のオーバーンという古い村にヨシュアとい名の若い男性が何処からともなくやってきます。彼は村のはずれの牧草と動物たちに囲まれた、古い小さな家に住み始めます。職業は木工で、村人や教会から頼まれるとたとえ小さなものでも丁寧にこなし、質素な生活をしています。接する人には誰にでも親切で、困っている人には心から手助けをし、謙遜のうちに人々の日常の些細な問題や相談事に誠実に応えます。

彼と接する人々は、その何かを超越した、寛容で神秘的な人柄に興味を持ちながら次第に引き込まれていきます。信仰について質問があれば、形ではなく如何に自由意志をもって信仰生活を日々の生活の中に活かすことが大切か、神と人間の関係を規則や規律で形づけるべきでないことなどを語りかけます。彼が人々にもたらす数々の奇跡や小さな愛の行為は人々の心をとらえ、村人にとって大切な存在となっていきます。

神を礼拝するところなら、プロテスタント、ユダヤ教、カトリックの教会と分け隔てなく出かけていきます。やがて、2000年も前にイエスがファリサイ派の人々に批判されたときのように、教会の指導者の批判の対象になっていきます。読者はヨシュアがいつもキリストと同じような目線を持っていることを感じます。

この本はとかく気ぜわしい日常生活を送りがちな私たちに、特別な空間を与えてくれます。もし「イエス・キリストのような人が現代を生きていれば、どのような行動をとるのだろうか、またどのように過ごしたのだろうか?」をイメージさせてくれます。それ故、読者はヨシュアに強く惹かれていくのかもしれません。

ストーリー内容はこれ以上ご紹介できませんが、本書は米国のキリスト教をテーマにした読み物ですが、人間の本質を丁寧に描いた傑作といえます。400頁に及ぶ読み応えのある『ヨシュア』は、忙しく毎日を送っている人には、食後のくつろぎのときや就寝前などを利用して少しずつ読むことをお勧めします。不思議な心の安らぎを感じると思います。

訳者の山崎高司さんは、原作者のガーゾーン神父との運命的な出会いをとおして、仕事の傍ら時間を見つけては翻訳されたとのこと。大蔵省〈現財務省〉で若かりし頃、英国留学中にスコットランドでプロテスタントの受洗をされた方で、私とはある縁でご本人が中心的な役割を果たす、毎月定期的に行われる朝食会でご一緒させて頂いています。

ちなみにギリシャ語の「イエス・キリスト」の「イエス」は名前にあたり、「キリスト」は「油を注がれたもの」を指します。そして、「イエス」はヘブライ語で「ヨシュア」の意味です。

最後にこの本の中で、山崎さんもまたこの私も、心に深く刻みこまれた箇所をご紹介したいと思います。それはヨシュアが少年マイケルに起こした奇跡的な出来事への医師の質問に対するものです。「日々の営みはすべて果てしない奇跡に満ちています。ただそれがあまりにもごく自然によどみなく日常的に流れていくので、(私たちは)つい当たり前のことと考えてしまう。しかし、小さな出来事の一つひとつ、時の流れの一瞬一瞬は創造の奇跡なのです」(353頁)。 

メリー・クリスマス。

投稿者 Inoue: 13:00 | トラックバック

2005年12月23日

稲畑産業前社長、故稲畑武雄さんを偲んで

去る12月1日、稲畑産業株式会社の前代表取締役社長であった稲畑武雄さんが、今春からの闘病の末、肺がんのためこの世を去りました。享年67歳でした。

稲畑さんとの出会いは今から7年前、赤坂にあったジャズ・クラブ「ボッカチオ」に置いていた私のヴァイブラフォーン(ヴァイブ)が、同店の銀座移転に伴い、移動されたのを機に久しぶりにその楽器に会いに、はじめて銀座・ボッカチオに行った時のことでした。

お店に入ったとき、あるジャズ・バンドが演奏していました。小柄で痩身に大きなバリトン・サックスを抱え込むようにして吹いている人に目がいきました。その奏者が稲畑さんでした。そのジャズコンボは、ビックバンドとして6大学で名を馳せた慶応大学ライトミュージック・ソサエティ(俗称:ライト)のOB仲間で結成されたバンドで、毎週火曜日の夜にそのジャズ・クラブで演奏していたのでした。

その夜、ヴォッカチォで稲畑さんを初めて紹介されたのですが、「稲畑産業、稲畑武雄」の名刺をいただいたときはとても驚きました。それは以前、稲畑さんの従弟にあたるNPO団体、地球ボランティア協会(GVS)専務理事の稲畑誠三さんの紹介で、武雄さんのお兄様で、稲畑産業社長(現会長)をやっておられた稲畑勝雄さんとお会いしていたからでした。ペルーの日本大使館人質事件で仲裁人をしていたシプリアーニ大司教来日の際、滞在中の世話役をしていたGVSの依頼で同大司教に同行し、大阪で紹介されたのです。そんな関係で、武雄さんとは初対面でしたが、共通の話題で時間の経つのも忘れるほどでした。

稲畑さんとはボッカチオや、その後移動した六本木のジャズ・クラブ「ファースト・ステージ」などで顔を合わせる機会があえば、ライトOBバンドに私のヴァイブを加えてセッションをやらせていただくなど楽しませていただきました。

ご本人とは高校(甲南高校)時代のスポーツ(野球:ピッチャー)の経験や音楽、また社会的価値観などで共有できるものを多く感じていました。

最初にお会いしてから暫くして、稲畑さんから「井之上さん、うちの会社で是非パブリック・リレーションズを採り入れたい」と相談を受けました。日本の上場企業の社長の口から「広報」ではなく「パブリック・リレーションズ」という言葉をはじめて耳にしたとき、大きな驚きを覚えたものです。それ以来、お仕事をとおしてのお付き合いもさせていただき、稲畑産業の新しい企業創造のためにPRの専門家としていろいろと関わらせていただきました。どれもこれも今は懐かしく想い起こされます。

稲畑産業株式会社は、創業明治23年(1890年)、115年の歴史をもつ東証一部上場の商社です。現在の従業員数は約2,500人、世界の約50の地域を拠点に事業を展開しています。稲畑武雄さんは5代目の社長として1998年に就任し、亡くなるまで現職にありました。

創立者である御爺様の稲畑勝太郎翁は明治時代のフランス留学時に出会った映写機シネマトグラフ(1895年フランスのオギュースト・リュミエール、ルイス・リュミエール兄弟により発明)を日本に初めて輸入紹介した人として知られています。1897年、この映写機で日本初の映画上映をしたのも勝太郎翁でした。

稲畑さんの経営手法はアメリカのCEOを彷彿とさせるもので、重要案件には本人が直接かかわり、強いリーダーシップでビジネスを推進するといったものでした。社長在任中はきたるべくグローバル化に備え海外事業やIT事業に傾注し、そのリーダーシップを遺憾なく発揮されました。また人材も、日本人従業員だけではなく国籍、皮膚の色、男女、年齢、宗教のわけ隔てなく新しい「稲畑人」を養成し積極的なビジネスを展開されました。

最後にお話したのは9月の終わりでした。ご自身のご病気についてあまり深刻にお話しされる様子もなく、「いずれ回復したら食事をしましょう」と交した言葉が最後でした。お会いできるのを楽しみにしていた矢先の突然の訃報は衝撃でした。遣り残していることがまだまだあったのに本当に残念です。会社は新社長の稲畑勝太郎さんのもとで、武雄さんの敷かれた路線を立派に引き継いでいかれることでしょう。

数年前の夏に、稲畑さんは治子夫人と同伴で私の学生時代の音楽クラブ、「ナレオ」恒例のディナー・ショーに来ていただき共に学生時代に戻り往時を懐かしんだものです。

稲畑さんはとてもまじめで誠実な人でした。告別式は12月6日、四谷のカトリック「聖イグナチオ教会」で行われました。棺の前で最後のお別れをしたとき、その透き通った御顔はまるで眠っているかのようにとても安らかでした。

稲畑さんとお仕事をすることができ幸せでした。オフィスで冷静沈着に行動するその姿と、ジャズ・クラブで、テナーとバリトン・サックスを器用に持ち替えて演奏を楽しむ姿がいまでも瞼に強く焼きついています。

稲畑武雄さん、いろいろありがとうございました。安らかに神様のみもとに行かれますように…。

* 明日はクリスマス・イヴです。クリスマスにちなんで特別号を発行します。

投稿者 Inoue: 15:18 | トラックバック

2005年12月16日

「マニフェスト」を推進する北川正恭さんを講師に迎えて

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか?先週末から今週半ばまでイランのテヘランに行ってきました。テヘランにあるパブリック・リレーションズ・リサーチ研究所主催のシンポジウムのスピーカーとして招かれたものです。近々にその体験をこのブログでご報告しますので楽しみにしてください。

さて、12月の第一週目の「パブリック・リレーションズ概論」の授業には、前三重県知事、現早稲田大学大学院教授の北川正恭さんをゲストスピーカーにお迎えして、「パブリック・リレーションズと政府・自治体」についてお話していただきました。北川さんとは、三重県知事時代の2001年に私の編著の『入門・パブリックリレーションズ』をお贈りしてからのお付き合いですが、その際立ったご活躍にはいつも目を見張っていました。また同じ商学部の卒業生で、私の学生時代、演奏旅行で三重県四日市を訪問したときに会場に偶然演奏を聞きにきてくださっていたようで、歩んできた道は異なっていても、同じ時代を生きてきた仲間として身近に感じさせてくれる方です。

北川さんは、三重県県議会議員、衆議院議員を歴任後、95年4月から2期8年にわたり三重県知事を務められ、真の住民のための地方行政を目指し数々の革新的な改革を実現されました。私の知る限り、国内で始めて政治行政に経営手法を採り入れた方です。2003年に知事職を退任されてからは日本の政治を変えるため、選挙の公約「マニフェスト」(1834年に英国で登場したとされている)導入による政治・行政改革を推進し、9月の衆議院選挙でもマニフェストを公約に掲げ政党や多くの候補者が選挙戦に挑みました。

「北京で一羽の蝶々がはばたくと、ニューヨークでハリケーンが生じる」というカオス理論、複雑系の理論があります。これは、イリヤ・プリゴジン(Ilya Prigogine 1917~, 77年ノーベル化学賞受賞)が唱えた理論で、「一羽の蝶々の小さな羽ばたきでも連鎖反応を起こして世界を席巻する大きなうねりになり得る」という意味で、いわゆる化学の世界でいうバタフライ・エフェクト(蝶の効果)を示す例え話です。

講義のなかでは、北川さんが三重県知事在任中、この「ミクロの“ゆらぎ”がマクロを制する」との共鳴理論を一歩進めた「情報共有が共鳴を生み、その揺らぎが大きな変革をもたらす」という理論を用いて、いかに自己責任に基づく内発的な行政改革を実現していったかを話されました。ひとり一人の力は小さいけれど、お互いが共鳴しあって大きな渦になれば、途方もない力を発揮できるとしています。そして、この共鳴の理論をマネジメントするシステムこそがパブリック・リレーションズであるとその重要性を語られました。

具体的には、知事としての職務時間の80%を費やし、職員とのダイアログ(対話・双方向性コミュニケーション)を徹底して行い情報や問題を共有し、お互いの「納得」をベースに諸改革を実施したこと。また、明確な理念と目標(ゴール)を掲げ、トップ自らにその達成責任を課し、責任の所在を明確にすることで、かかわる人々の自己責任における自発的な取り組みを促したこと。

そして、説明責任の対象(ターゲット)を「国」から「県民」に移し『生活者起点』をキー・コンセプト(理念)に統治主体である県民の参加を促したこと。さらには既存の広報課を「政策広聴広報課」と改め、広聴→政策立案→広報の順で、県民の声を聴き、それをもとに政策立案をおこない、内外に広報をおこなったのでした。つまり県民との対話を促し、そこから得られたフィードバックでより良い政策づくりをおこない、積極的に情報提供をおこなうといった、行政運営にパブリック・リレーションズの手法を見事に採り入れたといえます。ここではご紹介し切れないほど数々の改革の成果を披瀝されました。

また「自己修正」の大切さにも触れて、同郷の松尾芭蕉による「不易流行(変化こそ普遍)」という言葉を引用して、常に自らを変化させられるもの、つまり自己修正を行えるものだけが生き残れると語ってくれました。そのためにはパブリック・リレーションズの手法である双方向性コミュニケーションによる情報収集をとおして全体を俯瞰し、自ら気づき修正させることで常に変化に対応できる「学習する個人や組織体」を育てることが重要であり、そうすれば変化の激しいこのIT社会を乗り切っていけるのではないかと示してくれました。

最後に、ITの発達により、1989年まで東西を分断していたベルリンの壁を突き抜けた情報が民衆を動かし、その力が鉄の壁を崩壊させたように、ひとり一人の気づきが大きな変革を起こせると自覚して「気づいたら飛べや」つまり「いいと思ったら先ずは一匹目の羽ばたく蝶々に自らなってみることが大切」と個人単位での行動力に期待するメッセージをいただきました。

質疑応答の中で、いまや伝統化しつつある政治腐敗に関する質問に対しては、「議員は立法という尊い仕事に携われる素晴らしい職務なので、信頼回復のためにも明確な『マニフェスト』に基づく政策実施を推進し、日本の政治の向上をはかっていきたい」。そして、将来を担っていく学生に対して、「主権在民における統治主体である市民が、政治への自己責任を果たしていくことで政治改革が実現するよう協力してほしい」と呼びかけました。学生にとってとても刺激的な授業だったと思います。

北川教授のお話を伺って、「マニフェスト」導入がカオス理論によって政治行政に変革をもたらし最終的に日本全体が変わっていくのではないかとの期待感を強く持ちました。パブリック・リレーションズも、一羽の蝶々から連鎖反応で日本の国中に広がってくれたらと願わずにはおられません。

北川さんの今後のますますのご活躍をお祈りしています。どうもありがとうございました。

投稿者 Inoue: 14:00 | トラックバック

2005年12月10日

パブリック・リレーションズの巨星たち
2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891?1995)、「教育者としてのバーネイズ」

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

今週は、エドワード・バーネイズについての最後のお話しです。ここではパブリック・リレーションズの実務家バーネイズのもうひとつの顔、「教育者としてのバーネイズ」を見ていきたいと思います。

バーネイズは、それまでアイビー・リーなどが自らの職業の呼称としていた「パブリシスト」を初めて「パブリック・リレーションズ・カウンセラー」と名づけました。そして組織体とそれを取り巻くパブリックの諸関係(リレーションズ)についてアドバイスを行う実務家として、範囲と役割を明確にし、その技法を理論的に体系化したのです。またパブリック・リレーションズの重要性に早くから気づいていたバーネイズは、初めて学術的地位を確保し、その普及・発展のための教育に積極的に関わりました。

バーネイズは1923年、米国で最初のパブリック・リレーションズのコースで教鞭をとりました。同年に出版した『世論の覚醒化』('Crystallizing Public Opinion')のプロモーションも兼ねて大学で教鞭をとることを考え、ニューヨーク大学のジャーナリズム学部長のジェームズ・リーにコース新設を説得しました。度重なる説得の末、ニューヨーク大学で米国初の「パブリック・リレーションズ」のコースが誕生しました。伯父の心理学者フロイトを世に送り出したといわれるバーネイズならではの着想であったかもしれません。

また47年、ボストン大学で米国初のパブリック・リレーションズ学部をスタートさせました。61年にケンブリッジに自宅を構えてからもバーネイズは同大学でたびたび講演し、その活動は晩年まで続いたといいます。更に同大学に奨学金基金(The Edward L. Bernays Foundation Primus Inter Pares Award)を創設し大学院生の教育を支援しました。現在も毎年大学院生を対象に奨学金が提供されています。この努力が後に評価され、同大学から名誉博士号を贈られました。

バーネイズは、パブリック・リレーションズの質の向上には協会を設立し、実務家に求められる明確な職業規範を確立する必要があると考えていました。そこで27年にアイビー・リーを含む13人で協会設立のための委員会を発足させますが、実現に至らずその委員会は解散してしまいます。


その後、36年にニューヨークを拠点とする実務家たちにより設立されたNAAPD(National Association of Accredited Publicity Directors)と、39年カルフォルニアでレックス・ハーロウ(Rex Harlow)により設立されたACPR(American Council on Public Relations)が48年に併合され現在のPRSA(The Public Relations Society of America:米国パブリック・リレーションズ協会)が誕生しました。しかしメンバーの質を重視のバーネイズの考えは、会員数優先のPRSAの方針と相容れず参加することはありませんでした。


しかし40年後の76年、バーネイズによるパブリック・リレーションズへの貢献が高く評価され、彼はPRSAからPRSAの最高賞である「Gold Anvil」を授与されると共に、PRSA認定の実務家資格のAPR(Accredited in Public relations)のタイトルも授与されました。そして90年には同協会の功労者としてAPRフェローの称号も授与されています。

またバーネイズはパブリック・リレーションズの普及のため、執筆活動も積極的に行いました。23年出版の『世論の覚醒化』や28年に出版された『プロパガンダ』など、時代と共に進化するパブリック・リレーションズを考察した本や出版物を時代の節目ごとに発表しています。

なかでも52年に出版された『パブリック・リレーションズ』(‘Public Relations’)では、パブリック・リレーションズの登場・発展の歴史を紹介・考察すると共に、彼の関わったプログラムをケース・スタディとして取り上げ、分析・評価方法を示し、読者が型にはまることなくこれらのケース・スタディを応用し、積極的に活用することを勧めています。

またバーネイズは、専門家にふさわしい高度な技術と人格を持つ実務家を確保するためには資格制度が必要であると考えていました。そのために医師や弁護士と同等な公的資格制度の実施を訴え、92年、法案として議会に提出しましたが廃案となってしまいました。その後も法案提出を試みましたが結局機会を得ることなくこの世を去ります。

ちなみに米国では現在、PRSAが64年から独自に実施してきた民間の認定制度(APR=Accredited in Public Relation)は、98年にPRSAをはじめとする10の団体が参加する「ユニバーサル認定プログラム(Universal Accreditation program)」へと形態を変え、パブリック・リレーションズのプロフェッション獲得者としてAPRの称号を贈られています。

パブリック・リレーションズを専門領域として確立させたいとのバーネイズの長年の熱意は、彼のプロフェショナルとしてのパブリック・リレーションズの実践面における輝かしい業績に支えられた自負と、結果を出すことのできるパブリック・リレーションズに対する強い信頼と誇りの表れであったといえるかもしれません。「明確な調査・分析と豊かな発想力で取り組めば、どのような困難な問題も解決に導くことができる」とパブリック・リレーションズの黎明期からその普遍性に着目していたのです。

これまで過去5回にわたり(10月31日11月4日11月11日11月18日12月2日)エドワード・バーネイズのパブリック・リレーションズにかけたその生涯を見てきました。バーネイズは1910年代から活動し始め、103歳のその生涯を終えるまで実に80年以上にわたりパブリック・リレーションズの世界に影響を与え続けました。その功績は多岐にわたって計り知れないものがあります。

今回のシリーズで彼を知るにつれ、35年間パブリック・リレーションズ実務家として様々な問題に取り組んできた私自身の考えが幾度となくそこに投影されていることに、同じ道を歩むものとして深い感銘を受けます。

95年、人生に幕を閉じる3年前AEJMC( Association for Education in Journalism and Mass Communication)での講演で、バーネイズは次のような言葉を残しています。「私は黎明期から米国社会で大きな役割を果たすようになったパブリック・リレーションズの今日まで、この仕事にかかわってこられたことを幸運に思います。私はこの職務とパブリック・リレーションズが民主主義社会に多大な貢献を果たしたことに高い誇りを持っています。パブリック・リレーションズには世論の同意を得る手法が用いられています。そのベースにあるのは『真の民主主義社会において、全ては民意によらなければならない』というトーマス・ジェファーソンが示した民主主義の原則です」。

投稿者 Inoue: 21:00 | トラックバック

2005年12月02日

パブリック・リレーションズの巨星たち
2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891?1995)、「ゲッベルス ?プロパガンダの恐ろしさ」

こんにちは、井之上喬です。

月日の経つのは早いものでもう師走になりました。皆さん如何お過ごしですか?

今日は、再びエドワード・バーネイズのお話しに戻ります。バーネイズの影響を受けたナチス・ドイツの宣伝担当相ヨゼフ・ゲッべルスと、彼がナチスのキャンペーンで導入した「プロパガンダ」についてお話したいと思います。

プロパガンダの現代的な意味は、情報流通が一方向で、情報発信者が自己を正当化し他人の意見に影響を及ぼすための活動であり、公共の利益と必ずしも結びつかず、時には自己利益との混同も見られます。多くの場合、発信者側に好ましい世論形成にマイナスとなる事実は隠蔽されたり、歪められて発信され、倫理観を欠いたコミュニケーション活動で、パブリック・リレーションズとは対極にあるものです。

しかし、本来は崇高な目的をもった活動を意味するものでした。プロパガンダという言葉の成立は1622年、当時のローマ法王グレゴリー15世により’Congregatio de propaganda fide’ が世界中で行われていた伝道活動の監督役として設置されたことに由来します。そこには虚偽や欺瞞などの悪いイメージは一切なく、むしろ教会活動などをとおして信仰や教義、主義などを普及させる良いイメージをもつ言葉でした。

プロパガンダに対する悪いイメージが確立されてしまったのは、その後約300年を経た第一次世界大戦以降のことです。大戦後のアメリカでは戦勝国になったものの多くの兵士の命が奪われました。このため参戦への正当性を巡って、アメリカ政府(CPI)により戦時中展開された「参戦に大義名分をもたせるための世論形成活動」に対する批判が噴出しました。当時の批評家やジャーナリストたちが、政府や大企業にとって望ましい世論形成を強引におこなう活動としての「プロパガンダ」を記事の中に用いだしたのです。

また20年代のビジネス界では、バーネイズやカール・ボイヤーなどCPIのメンバーが戦争キャンペーンで培った世論形成手法を用いてパブリック・リレーションズ実務家として企業への貢献をおこなっていました。戦後の好景気でますます巨大化する企業への懸念が叫ばれた時代とも重なって、これら批評家やジャーナリストによる「プロパガンダ」批判となったのです。

その一方で、プロパガンダに対するイメージ回復への試みも行われました。そのひとつに、バーネイズによる『プロパガンダ』の執筆があります。28年に出版されたこの本の中でバーネイズは、パブリック・リレーションズを新しいプロパガンダとして位置づけ、世論形成の手法を紛争解決や民主主義運営をスムーズなものにするための手法として用いることで、社会の向上や平和の維持を可能とすることができると説きました。

しかし皮肉にも彼の世論形成のための構築理論はナチスの宣伝担当相ヨゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbeles, 1897-1945)に悪用されることになってしまいます。ゲッベルスはバーネイズの著書『世論の覚醒化』('Crystallizing Public Opinion'  23年出版)に書かれていた世論を味方につけるための理論を実践し、プロパガンダを展開して世論を扇動したといわれています。

20年に結成された国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首にアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)が就任したのは翌年の21年。28年に初めて国会に進出し、12議席を獲得後わずか5年で230議席にまで伸ばし、ドイツ第一党を獲得しました。その達成の裏にはゲッベルス主導による選挙戦術があったといわれています。

ゲッベルスは1897年ラインラント地方にある中都市リートでカトリックの中流家庭に生まれました。ハイデルベルク大学に進みロマン派文学を専攻。卒業後ジャーナリストを目指しますが挫折し、失業状態にあった25年にナチ党に入党。ヒトラーは彼の弁舌の才能を高く評価し、26年にはベルリン・ブランデンベルグ大管区指導者に抜擢。それ以降ゲッベルスは選挙活動を任せられるようになりました。

彼の戦術は理性ではなく大衆の感情に訴えかけるもので、わかり易いスローガンを強烈にしかも繰り返すことで人々の脳裏に焼き付けて人心を捉えました。また、明確な攻撃対象を設定してネガティブ・キャンペーンを展開し「同じ敵を持つ者の間に仲間意識が生まれる」と民衆のなかにナショナリズムを醸成していきました。

たとえば、ヒトラーの弁舌の巧みさを利用して演説で人びとを魅了し、ラジオでは政見放送を活発に行い、街を埋め尽くすほどのビラやポスターを配布するなど、視覚や聴覚に訴えるキャンペーンをあらゆるメディアを動員して徹底的に行ったのです。

こうして33年ドイツの第一党に躍進すると、「わが民族の精神的、意思的な一致」を実現するための「国民革命」と称し、ナチスの基準に政治制度や国民生活を均一化させる運動を断行しました。政治組織を改変し党の組織をあらゆる生活の場に浸透させ、労働・教育・余暇などすべてをナチズムによって支配することで、瞬く間に独裁国家を作り上げ「ユダヤ人排斥運動」を展開していったのです。

独裁国家となってからは「嘘も百回繰り返せば真実になる」として党に有利な情報のみを一方的に発信する徹底した情報統制と、ゲシュタポ(ナチスの国家秘密警察)による厳格な世論統制を行い、システムの構築と集団心理を巧みに操るハードとソフトの両面から世論をコントロールしていきました。

ヒトラー自決の翌日となる45年5月1日、ゲッベルスは6人の子供を毒殺し、妻のマグダと共に拳銃で自らの命を絶ちヒトラーの後を追ったといわれています。ヒトラーに忠誠を尽くし続けた彼にとっては当然の帰結であったといえるかもしれません。

ゲッべルスの死後、彼の机の引き出しからバーネイズの著書『世論の覚醒化』が発見されたと知り、バーネイズは、「知る由もなく、どうしようもないことだ」とコメントしています。バーネイズがオーストリアから移住したユダヤ系移民であったことを考えると、運命の悲劇としかいいようがありません。

ホロコーストで失われたユダヤ人の命は600万人以上にのぼるといわれています。社会向上に利用すれば戦争回避にも役立てることができる技法を、自己利益のため主義・主張を正当化し一方的に民衆に押し付ける道具として悪用した結果の惨劇でした。

第二次大戦後もアメリカではパブリック・リレーションズは進化し、世界の平和と安全を守るため、政府による民主主義の普及に貢献してきましたが、最近のイラク戦争の報道を見る限りでは、本来のパブリック・リレーションズからプロパガンダ的な方向に向かっているところが垣間見え、とても残念です。

「戦時中と平和時における世論説得の手法は、ただその意図や目的が違うだけであり、両者の技法そのものは同じである」とのバーネイズの言葉どおり、パブリック・リレーションズは絶大な力を発揮することが可能であり、ひとたび使い方を誤ると恐ろしい結果を招いてしまう可能性をはらんでいます。まさに「デモクレスの剣」といえます。

ですからパブリック・リレーションズの実務家は、いつでもプロパガンディストになり得ることを心に銘じ、確固たる倫理観に基づいた双方向のコミュニケーションを実践し、職責を果たしていかなければなりません。

投稿者 Inoue: 19:00 | トラックバック