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2005年08月29日

「水しぶきのなかの青春」―湘南高校との想い出―

数年前の5月、私の所属する日本パブリックリレーションズ協会のパーティで、体格のがっちりした白髪の口髭をたくわえた同年輩の紳士から「イノウエ・エースケさんですか?」と尋ねられました。 突然の「エースケ」…。私を個人的に知っている高校時代の友人や知人の間でしか使われていない、社会に出てほとんど使われることのなかったこの名前の響きに戸惑いと懐かしさを感じながら「そうですが…」と答えました。「ひょっとすると、昔、立川高校の水泳部で泳いでいたA助さんですか?」。当時、都立立川高校の水泳部には同じ学年の男子部員でイノウエ姓を持つそれぞれA、B、Cの三人の「助さん」がいたのです。私を40年前に突如タイムスリップさせてくれた、この日焼けした紳士は中島邦信さんといって、一学年下で神奈川県立湘南高校の水泳部で平泳ぎを得意としていた人だったのです。

私にとって、毎年会場を交互に使い開催される湘南高校との対抗戦は、水泳に青春を捧げた高校時代の想い出の中でも特に忘れがたいものでした。中島さんは、湘南高校水泳部で当時立川高校との水泳の対抗戦のことを懐かしそうに話してくれました。

高校一年(昭和35年)の夏に開催された対抗戦は立川で行われました。そして、二年の夏の対抗戦は湘南のプールでした。男子部員だけの私たちは、この湘南での対抗戦に大きく期待を膨らませていたのです。「湘南に行くとかわいい女子生徒が試合の後に美味しいカレ?ライスを作ってふるまってくれるよ」と先輩諸氏が、いつもカルキの匂いがする立高プールでの練習の合間に、話をしてくれていたからでした。そして純真無垢な少年たちは緊張感と熱いものを身に感じながら湘南高校へのりこみました。

海にほど近い、小高い丘の上にある高校は明るい鮮やかな緑に映え、片側に土手があるプールサイドはとても眩しくみえました。試合後の歓迎食事会は期待どおりエプロン掛けの女子生徒による心づくしのカレーが用意されていました。試合後の腹を空かした選手達にとってそれは最高のもてなしでした。

私の高校時代は水泳そのものでした。しかし社会に出た今でも心の何処かに持ちつづけるある種の不完全燃焼感があります。私は高校二年の夏頃から密かに、64年(大学二年の年)の東京オリンピックに出場する夢を抱いており、できうることならば当時山中毅を始め多くのオリンピック選手を擁していた早稲田大学に入り、よき指導者を得て、そこから出場することが最適と考えていました。

しかし、公立校でのスポーツ環境を考えると心は焦るばかり。この時間との戦いに押されるように、高校二年の三月、先輩の紹介で東伏見にある早大水泳部〈稲泳会〉の合宿所に通うことになりました。シーズン始めの合宿所はランニングをしたり、コース・ロープのない波立つ長水路(50m)プールでめいめいが自分の泳ぎをチェック。

多くのオリンピック・スイマーに囲まれての練習は胸ときめくものでしたが、この合宿所で私の自由形 (クロール)は使い物にならないものとなったのです。当時、世界のクロール泳法は、腕を水中で直線状に素早くかききるアメリカ型ピッチ泳法(当時一過性で流行った泳法)が主流。コーチに言われるまま、私の泳法は日本人には向かないその泳法に改造され泳ぎがガタガタになってしまいました。卒業後暫くして判ったことですが、私のそれは、現在世界で取り入れている泳法、つまり大きなストロークで腕を体の中心から大腿いっぱいまでかき切る泳法だったのです。

その後、高校と大学合宿所との往復や受験期の精神的なストレスで体調を崩し、三年になって急速に水泳への情熱を失ってしまいました。

結局その夏のインターハイの関東大会へは400m個人メドレーで出場しましたが、17歳の私の夢ははかなく潰えてしまいました。

中島さんとの出会いはそんな40年前の記憶をカルキの匂いと共に蘇らせてくれたのです。彼からありがたくも、その年の8月、湘南高校水泳部の70周年の総会に招待され、プールで一緒に競泳するなど心温まる歓迎を受けました。高校時代たった一度の訪問でしたが、なだらかな丘陵にある懐かしい校舎や、そのたたずまいは、水しぶきのなかで青春を分かち合った同輩・諸兄との再会をよりノスタルジックなものにしてくれました。

現在、公共広告機構の常務理事をしている中島さんとは、以来時々お会いしては往時の懐かしい想い出を語り合っています。

個人競技の水泳は、ある意味で孤独で忍耐を必要とするスポーツです。水泳で培われた経験があってこそ、新しい分野であるパブリック・リレーションズの仕事を長年続けることができたのだと感謝しています。

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2005年08月22日

少年時代を豊かにはぐくんでくれた、弓削島。

毎年夏になると訪れる島があります。名前は「弓削(ゆげ)島」。美しい瀬戸内海に浮かぶこの島は、面積にして8,95?、島を一周しても18?という、人口4000人足らずの小さくてかわいらしい島です。

島に近づいていくと、小さな山が見えます。石灰石がむき出しになって、白いおにぎり状を山頂にかたどっている「石山」は弓削島のトレードマーク。その山からは、ふりそそぐ太陽の光で輝き映える小島が点在する、美しい瀬戸内海を眺望することができます。

多くの人にはふる里があります。私にとってのふる里は弓削島です。尾道駅で下りて、高速船で50分、広島県因島(市)の向かい側にある愛媛県の弓削島は、昨年96歳で他界した母の生まれた島で、今でも94歳と90歳の母のきょうだい(弟、妹)が健在です。二人とも90歳を過ぎていますが頭脳明晰で気丈なところは昔とあまり変わりません。今年は、お盆休みに訪れ、従弟や親戚の子供たちと小船で釣りをしたり、浜辺で泳いだり、童心に帰ったような気持ちで弓削島での3日間を過ごしました。

弓削島は奈良時代の女帝、孝謙天皇の寵愛を受けたといわれる「弓削道教」ゆかりの地として知られ、中世には、村上水軍や、三島水軍などが瀬戸内海を拠点に活躍していたことから、島の人たちは海賊の血を引くともいわれています。鎌倉時代には塩の産地として、近代には石山から切り出される石炭石で栄え、それらの生産物を運ぶための海運技術が発達しました。そのため、島の中心に商船学校(国立弓削商船高等専門学校)があり、昔から多くの船乗りをはぐくんできました。

瀬戸内海に浮かぶ小さな島なのですが、外洋船の船長や機関士など世界中をまわる人たちが多く住んでいたこともあり、常に意識は世界に向いていました。教育にも力を入れていてレベルも高く、とてもユニークな島です。

小さいころ、毎年夏休みになると、母親の実家があるこの弓削島で、叔父や叔母のお世話になりながら、兄弟とともに瀬戸内海の夏を思う存分楽しみました。戻るといつも寝泊りする叔母の家は庭続きに海があり、縁石から飛び込んだり、その深い海を器用に泳ぎまわったり、よってくる魚を銛でついたりして、豊かな自然の中で心ゆくまで遊びました。夜には絵描きをしていた伯父さんが、船ですき焼きパーティを開いてくれたり、尾道の風物詩だった海上の打ち上げ花火を船上から夜が更けるまで鑑賞したり、まだ貧しかった時代でしたが、この島からは楽しい思い出をたくさんもらいました。

毎夏、瀬戸内海で泳ぐことを楽しみにしていた私は、小さいころから泳ぐことが大好きでした。高校時代、水泳部に所属していた頃に記録が順調に伸びたのも、夏休みに流れの強い海で、遊びながら自然に鍛えられたことが大きかったかもしれません。

広島県、岡山県、愛媛県、徳島県などの瀬戸内海沿岸に広がる瀬戸内文化圏は、海に囲まれ、温暖な気候の下に育まれた地域で、そこに住む人々は平和的で、暖かく、朗らかな中にも芯を貫く強さがあります。

現在、井之上パブリック リレーションズの特別顧問として一緒に仕事をしている福田清介(元電通PR常務)さんとは20年以上前に国際PR協会 (IPRA)の活動を通して知り合いました。彼の出身が、弓削島から2つほど隣の生口(いくち)島(広島県瀬戸田町)だということで意気投合したのも、瀬戸内文化圏の気質を互いに共有していたからかもしれません。

パブリック・リレーションズの仕事は、インター・メディエイター(媒介者)としての役割を果たし、WIN-WINの形を実現していく仕事です。幼少のときに培われた開放的でポジティブな気質はこの仕事に大きくプラスに働いていると思います。

弓削は1999年5月に開通した、広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ「瀬戸内しまなみ海道」から逸れたために、一見不便に見えますが、島には癒しの空間とすばらしい昔ながらの風情が残っています。

近頃、この島でも高齢化が進み、活気のある若者の数が減ってきているのが残念です。また、汚れた海をきれいにし、島の中央部にある松原海岸や、あちこちにあるプライベート・ビーチのような海辺に白砂をいれて開発すれば、自然を生かしたリゾートとして生まれ変わるのではないかとつい考えてしまいます。瀬戸内の美しさは、言葉ではいい表すことのできないものがあり、夏のイメージを持った弓削島をもっと多くの人に知ってもらえたらといつも思っています。

東京に帰る最後の朝、叔母に「来年もまた来るから」といって肩を寄せ合うと、年を取った叔母は、これが最後の別れになるのではと、目に涙をいっぱいに浮かべ私にしがみついてきました。少年時代に心と体を豊かに育んでくれた叔父、叔母と弓削島に感謝して、この人たちが生きている限り、思い出いっぱいの弓削島に毎年かえってきたいと思っています。

尾道行きの船に乗り、船が桟橋から離れ、島から遠ざかって見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。叔父さん叔母さん来年もまた戻ってきます。

投稿者 Inoue: 13:00 | トラックバック

2005年08月15日

終戦60年、世界の持続的安定と平和のために
 ?もしあの時パブリック・リレーションズを知っていたら

60年前の8月15日の今日、日本の降伏により第二次世界大戦が終結しました。広島、長崎への原子爆弾投下を受けての無条件降伏でした。

日本が引き起こした太平洋戦争は、周辺諸国に甚大な被害と悲しみを与えました。明治維新以降、欧米列強からの支配をのがれ、彼らに追いつこうとした結果がもたらした大戦の結末でした。

アジア周辺諸国では約2000万人、日本では310万人といわれる犠牲者(軍人も含まれる)の数(http://www.asahi-net.or.jp/~pb6m-ogr/ans074.htmhttp://www.parc-jp.org/oda_watch/kisochishiki/baisyo.html)は戦争が如何に悲惨で、非生産的かを物語っています。兵士は無論のこと一般市民に異常な体験を強いた戦争の狂気と、指導者(リーダー)の責任の重大性を考えずにはいられません。

戦後新しい国家として再生のスタートを切った日本は、1952年のサンフランシスコ講和条約発効によって、戦後賠償による過去の清算を行い、国際社会に復帰しました。

しかしながら戦後60年を経た今なお、韓国、中国を初めとするアジアの国々には日本に対する不信感や警戒心が根強く横たわっています。いったいこれらは何処から来るのでしょか?

これにはいくつかの理由があると思われますが、最も大きな理由はこれら周辺諸国へのしっかりしたパブリック・リレーションズが不足していたことにあるといえます。相互理解による友好関係の醸成は、パブリック・リレーションズの基本ともいえますが、その不在が近隣諸国との真の和解を阻んでいるのではないでしょうか。

日本国民に対しても同様で、大戦の歴史的総括をあいまいにしていることが、国民の歴史認識の浅さにつながっているといえないでしょうか。先の大戦は他国が自分の国に攻めてきた戦争でなく、自分(日本)が相手領土で起こした戦争であるという認識に立ち、あの大戦が如何に周辺諸国に惨禍をもたらしたか、考える環境や情報を十分に得ていたでしょうか。

正確で客観的な歴史認識を持たない私たち日本人が、被害者意識を持つ周辺諸国の人たちの、被害を受けたもののみが抱く心の傷に、相手側の立場に立って、思いを馳せてきたでしょうか。これらの国々との感情的対立の根底に、双方向性コミュニケーションの不在を見ることができます。

先週、私の所属する日本広報学会で日中関係をテーマにした国際シンポジウム(http://www.edogawa-u.ac.jp/~hamada/expo/)が開催されました。パネルディスカッションで、中国のパネリストが今後の日中関係でもっとも重要なことは「心」であるとアドバイスしたことに強い印象を持ちました。

私たちが常に忘れてはならないのは、我々は太平洋戦争の加害者であるということです。謝罪と反省の「心」をベースに、その気持ちを形にし、パブリック・リレーションズの活用をとおしてきちんと相手に伝えていくことで、真の和解が成立するのではないでしょうか。

一方パブリック・リレーションズ不足に起因しているのか、日本の戦後賠償やODAにしても、国家としてアジア諸国に対し多大な資金を投じていることは、今の日本の若年層にはもちろんのことアジア諸国民にもあまり知られていません。日本がどのように取り組んできたのか、ただ一方的な情報発信で終わるのではなく、相手国家のレベルから一般社会レベルまで、発信された内容がターゲットとする相手にどう受け止められているかを知るためのフィードバック作業が重要となります。

そのフィードバックをもとに修正を加え最適化した情報を発信すれば、「心」は着実に形となって伝わっていくのではないでしょうか。

また、毎年8月は人類史上初めて広島・長崎へ原子爆弾が投下された月でもあります。原爆の投下は避けて通れなかったのでしょうか?

ここで太平洋戦争のきっかけとなった真珠湾攻撃について、パブリック・リレーションズの視点で考えてみたいと思います。

太平洋戦争のきっかけを作ったのは、44年12月8日の真珠湾に対する奇襲攻撃でした。94年11月21日付の朝日新聞の朝刊一面には、「真珠湾攻撃に先立って米国への開戦通告の遅れたのは、当時の在米日本大使館の情勢認識の甘さと職務怠慢からだったとする報告書を敗戦直後の46年外務省がまとめていたことが、20日付で公表された外交文書で明らかになった、しかし関係者の明確な責任追及や処分は行われなかった」ことを大きくスクープしています。つまり在米日本大使館内部の開戦通告の遅れにより、結果として、国際法を無視した米国への宣戦布告なしの奇襲攻撃となったのです。

日本政府は米政府への開戦通告の遅れが内部的ミスであったことが発覚した時点で、直ちにその事実を国際社会に明らかにすべきでした。しかし、現実にはオープンされることなく、それまで、ためらっていた米国に格好な口実を与え、米国の第二次世界大戦への参戦を決定づけました。しかも、戦後50年以上にわたり、日本のイメージは「卑怯でずるい日本(Sneaky Jap)」として、その後の日米関係において数々の経済摩擦と絡み、米国民の対日不信感の奥底に深く刻まれていったのです。

パブリック・リレーションズの基本ともいえるオープン性が、このような国家イメージを傷つけかねない危機的状況のなかでもまったくみられません。第一次、第二次世界大戦で米国が、戦費調達や民主主義を守るためにとったパブリック・リレーションズ手法を考えると、双方のあまりの違いに、悲しささえ禁じえません。
 
いつの時代も戦争は悲惨なものです。米国による原爆投下の背景にはいろいろあるようですが、真珠湾奇襲を受け、国論が沸騰した米国が、「Sneaky Jap」のレッテルが貼られた日本に対し、自分たちと同じ価値観や文化をもった人間でないとして、原爆投下に踏み切ったことを誰が否定できるでしょうか?
 
多くの尊い命が一瞬にして失われた広島や3日後に落とされた長崎への原爆投下は、もし真珠湾の卑怯な攻撃の真実が国際社会にオープンに発せられていたなら、起こりえなかったことかも知れません。少なくとも長崎への投下は避けられたかもしれません。また、66都市に対する、原爆投下を含めた無差別爆撃で40万人を超える犠牲者をもたらした日本焦土作戦も、これほど凄まじい結果にはならなかったのではないかと思います。

このように日本が被った精神的、経済的損失、またその後の日本民族のイメージに与えたダメージの大きさは計り知れません。戦前の軍国主義の日本では「オープン」で「フェア」「スピーディ」なパブリック・リレーションズの基本姿勢が、存在すべくもなかったことかもしれません。しかし、将来、日本で同じような過ちが起きない保障はどこにもありません。だからパブリック・リレーションズに真剣に取り組む必要があると思うのです。
  
20世紀は激変の時代でした。今世紀に再びあのような戦争が起きればこの地球はどうなってしまうのでしょうか。いま私たちが生きている地球は、ひょっとすると後100年も持たないのではないか、ふと感じることがあります。

相手を理解し、違いを受け入れあうことができれば、世の中は確実に変わっていきます。争いのない世界を築くには、パブリック・リレーションズ力を身につけ、ひとり一人が考え、勇気を持って平和を訴え、行動していかなければならないと思うのです。


2005年8月15日 終戦記念日に

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2005年08月08日

パブリック・リレーションズの巨星たち
1.PRの父、アイビー・リー(1877?1934)

8月も二週目に入り、皆さんお盆休みを如何お過ごしですか?

久しぶりに郷里に帰りゆっくりご家族と過ごされている方。そして夏休みの空いたのんびりした時間に新しい知識を吸収しようと張り切っている方、それぞれの夏を満喫していることと思います。今日は皆さんと一緒に、「パブリック・リレーションズの巨星たち」と題して、偉大なPRの先駆者の横顔をのぞいてみたいと思います。

現代的意味でのパブリック・リレーションズは20世紀初頭に米国で登場したといわれています。第一回目は、その黎明期に活躍し、後に「PRの父」と呼ばれる米国の実務家、アイビー・リー(Ivy Lee)を紹介します。  

アイビー・リーは、透明性のある、正確な情報をわかりやすい言葉でパブリックに発信した最初の実務家で、コミュニケーションを通してパブリック(一般社会)との相互理解を醸成する、双方向性コミュニケーションの概念をいち早く実践した人です。この概念は、現代のパブリック・リレーションズの根幹をなす重要なもので彼の功績の大きさを物語っています。

アイビー・リーは、1877年7月16日、ジョージア州シーダータウンで、プロテスタント、メソジスト派の牧師の家に生まれました。幅広い知識と社会に強い関心を持つ家庭に育ち、父からは愛、勤勉そして道徳心や和解の技術を学び、母からは知的探究心を受け継ぎました。彼は、プリンストン大学へと進み、卒業後、New York American で警察担当記者としてスタートし、その後New York Timesthe New York World 紙でウォール街担当の記者をつとめました。

1900年代初頭は、巨大化した企業が、醜聞特だねを追いかけ暴露記事を書くジャーナリスト=マックレーカーズ(Muckrakers)や政府の規制措置から、自らの利益を守ろうと動き出した時期でした。これらの企業は、多くの場合、パブリック・リレーションズを自分たちの主張を前面に出し世論を味方につけるための手段や、企業活動に対する政治的規制強化など政府の政策変更を未然に防ぐ手段として積極的に活用しようとしていました。

このような時期、アイビー・リーはニューヨークでジョージ・パーカーと共に「パーカー&リー社」を開設しました。当時、米国で今日的なPR会社の先駆けとなったパブリシティ会社として、1900年にジャーナリストだったジョージ・ミカレス(George Michaelis)と他の2名により設立された、「パブリシティ・ビューロー社」、そして、1902年にワシントンD.C.でウイリアム・スミス(William Smith)と彼のパートナーによる、「スミス&ウオルマー社」が設立されました。「パーカー&リー社」はこれらに続いて三番目で、ニューヨークでは初めてのパブリシティ会社でした。

リーは、19世紀中ごろに活躍した、P・バーナム(Barnum)のような奇を衒った創作により新聞に面白おかしく取り上げさせるプレス・エージェントとは違った立場をとり、正確性、信頼性、顧客の利益をモットーにパブリシティ業務を行ったのでした。

アイビー・リーをパブリック・リレーションズの歴史に名をとどめるきっかけを作ったその主張は、「行動規範宣言(Declaration of Principles)」とよばれ、1906年のペンシルバニアで起こった炭坑ストライキに携わった際、専門家として信頼性を高めるための職業宣言ともいえる誓約文でした。彼はこの誓約文をメディアに配布し、「自ら提供するニュースは迅速・正確そしてオープンで透明性が高い」ものとしました。

リーの主張は、”The public be damned”( =パブリックの意見は関係ない)とした企業経営者ヴァンダービルドに代表される、利益至上でパブリックを無視した企業経営が一般的であった時代におけるパブリック・リレーションズの登場を促し、新たな時代の幕開けとなったのです。

米国のPR学者であるスコット・カトリップによると、リーの行動規範宣言はこの時代としては革命的なもので、パブリック・リレーションズの発展史のなかでの大きなできごとだと述べています。
 
その信条は、「ペンシルバニア鉄道会社」 (Pennsylvania Railroad)のケースでも生かされました。列車事故の事実をひた隠す従来の企業姿勢を改め、記者たちを企業負担で事故現場に招き、企業側にマイナスとなる事実情報をも積極的に開示し必要な情報の提供に努めました。当初この方針には経営サイドからの強い反発があったものの、メディアとの関係が改善され企業に対する評価が高まるにつれ、経営者側も理解を示すようになります。

これによりリーは1912年、ペンシルバニア鉄道会社のエグゼクティブ・アシスタントとして迎えられ、PRの実務家として初めて経営に直接かかわるポジションを得ることになりました。

当時、米国企業には、事業の拡大発展過程で生ずる独占性が大きな問題となっていました。1870年、ジョン・ロックフェラー(John D. Rockefeller, 1839-1937)によって設立されたスタンダード・オイル・トラスト社(後のエクソン)に代表される巨大資本は、市場の独占を狙っており、ジャーナリズムはこうした大資本の行動を非難していました。

1914年、ペンシルベニア鉄道会社でのリーの功績をみていたジョン・ロックフェラー・ジュニアは、コロラド・フューエル・アンド・オイル社で起きていたストライキのメディア対応をリーに依頼しました。その翌年、ジョン・ロックフェラー・シニアとの契約も結び、ロックフェラー・ファミリーへのカウンセラーとして活躍することになります。

ロックフェラーでのリーの役割は、単なるメディアとのやり取りだけでなく、今日的な意味のダメージ・コントロールといわれる労働問題の解決や、新しいプラント建設地の選定、サプライヤーやベンダーとの契約締結など、経営に関する政策立案から実施まで広範囲に及んでいました。

この頃から、リーは、パブリックの信頼を得るには、事実に基づいた迅速なパブリシティ活動にとどまらず、企業や組織体がパブリックに有益な活動を行う必要性を考えるようになりました。

まさに彼は、さまざまなパブリックとのリレーションズ活動である現代のパブリック・リレーションズを、100年前に予見していたといえます。

アイビー・リーは、ツーウエイ・コンセプトを自ら実践し、自ら語っていましたが、それを理論体系化したのは、後に登場するエドワード・バーネーズ(Edward Bernays)でした。

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2005年08月01日

「千の風」になった高崎望さんを偲んで。
 ?偉大な戦略家との25年

昨年7月24日に亡くなられた高崎望さんの一周忌をむかえ、7月23日土曜日に偲ぶ会がひそやかに開かれました。

高崎絢子夫人から杉並区久我山にあるご自宅に招かれた人たちは、学生時代の友人で日本電信電話公社(NTT)で同期生だった元NTTドコモ社長の大星公二さん、同じく学生時代からの友人でNTTの同期生、現在中央大学教授の浦山重郎さん、神田外語大学名誉教授の古田暁さん、そして私の4人で、生前の高崎さんとのいろいろな思い出を語り合いました。

高崎さんは、とても一途な人でした。東京大学時代に、法学部の全学連のリーダー的役割を果たしたことがある情熱家で、思いついたら昼も夜も関係なく24時間集中して、エネルギッシュに仕事を進めていく、そんな人でした。

物事を組み立てていく上での戦略的思考には目を見張るものがあり、その高い見識に加え、情報収集・分析力、洞察力、緻密なシナリオ作成力、そしてフレキシビリティと危機管理能力など戦略家としての必要な要件をすべて兼ね備えた人といえます。一回り以上も年の離れた私にとっては、良き友人であり、先輩、そして何よりもパブリック・リレーションズの良き理解者でした。
  
駐日大使をしていたエドウィン・ライシャワー(ハーバード大教授)さんとは、高崎さんの母上の代から親戚づきあいをしており、そこから得られた米国知日家の人脈は相当なものでした。また、NTT時代にマサチュセッツ工科大学(MIT)への留学経験がある高崎さんは国際通で、日本と諸外国との間に横たわる問題に精通したきわめてユニークな情報通信の専門家でした。

高崎さんとの最初の出会いは、1980年、高崎さんがNTTから電気通信総合研究所へ出向していた当時、私がアメリカの国内衛星や地域衛星の情報に明るいということで面会を求められたのがきっかけでした。高崎さん、49才、私が36才のときでした。以来、高崎さんとは実に多くのプロジェクトを共にすることになります。

知り合った頃の高崎さんは、後に第三次中曽根政権の外務大臣になる倉成正さんの筆頭ブレーンとして情報通信分野で活躍していました。大型通信衛星を利用した衛星通信の導入の推進役を担っていて、1980年、当時の米国情報通信局局長のジョン・イエーガー氏と共に、電気通信の普及拡大を目指したNGO組織、PTCを設立(太平洋電気通信協議会、本部:ホノルルhttp://www.ptc.org)し副理事長に就任していました。私も高崎さんの勧めでその創生期にPR業界からは異例の参加で、彼と共に、80年代前半、日本の大型通信衛星による衛星通信の導入に向けて仕事をしました。

高崎さんは、通信市場の規制緩和と国際化のうねりの中で、日米折衝の最前線に身を置き、80年代初頭における日本の通信政策の実質的なドラフトを描いた人でもあります。

日米の経済関係が逆転した80年代前半、アメリカは強烈な対日プレッシャーをかけてきました。対日貿易不均衡のなかで激化する日米通信摩擦では、当時、離島や災害対策用の通信衛星(重量:数百kg)しか導入していない日本に対して、アメリカは大型通信衛星の購入を要求してきました。ロビーレベルでの折衝をおこなっていた高崎さんは、難色を示す日本政府に通信市場の開放と大型衛星導入を強く迫った、米国のオルマー商務次官と気魄せまるやり取りをし、もはや高崎さんなしには通信政策は語れないほどになっていきました。

そんな中、高崎さんは、NTTが推進する光ファイバー主体のISDN構想に対し、日本の経済発展を鑑み、大型通信衛星導入(重量:2?4トン)による国内・国際通信ネットワークの必要性を唱え、その実現に奔走したのでした。この頃の高崎さんはもっとも輝いていたといえます。

1982年に起きた日立IBM事件では、彼と親交の深かったIBMの中興の祖、トム・ワトソン・ジュニア(ケネディ時代の駐ソ大使でもあった人)や当時のIBMオペル会長に対し、日本の立場を擁護しつつ適切なアドバイスを行ったり、通信業界の人脈を生かし、翌年の両社和解へ向かう布石を打ちました。通信の世界のネットワーク力は通常のビジネス分野のそれより強固なもので、高崎さんの持つ世界的で豊富な人脈には目を見張るものがありました。

日米半導体摩擦、自動車摩擦のときに、私がアメリカ側のパブリック・リレーションズのコンサルタントとして関わっていたときに多面的なアドバイスをくれたのも高崎さんでした。

考えついたら深夜の2ー3時、明け方の4ー5時、まさに夜討ち朝駆けでよく自宅に電話があったものです。一度、問題にとり組んだら驚異的な集中力でその解決のために考え、奔走する高崎さん、それもこれも今は懐かしく思い出されます。

NTTの後、三菱電機に移籍し、宇宙通信事業部の責任者として進藤貞和会長へのアドバイスや、FSX(次期支援戦闘機)などで三菱グループのワシントンにおける対米ロビーイングに関わるなど、戦略家高崎望は縦横な働きをしました。

その後三菱総研顧問を経て、いくつかの大学で教鞭をとっていましたが、最後の大学は、神田外語大学でした。同大学の異文化コミュニケーション所長、古田暁さんの取りはからいで学生に慕われる名教授として、定年までその指導にあたりました。高崎さんの招きでたびたび授業でパブリック・リレーションズを教えたものです。

一昨年の秋に急に体調を崩し、病院で急性白血病と診断された時の高崎さんの精神的ダメージは相当なものでした。周囲の人もみな驚き、高崎さんの病気を知ったハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲルさんや中曽根元首相など近しい方々も心配のあまり、無菌状態の高崎さんの病室を訪ねるほどでした。

亡くなる前の4ヶ月間、私は毎週末、駒沢にある病院にお見舞いにいきました。ちょうど早稲田大学で教鞭をとり始めた頃のことで、大学での授業の話をすると、どんなに辛くてもいつも嬉しそうに聞いてくれました。早稲田大学で教えることが決まったときに真っ先に喜んでくれたのも高崎さんでした。

幼少のころから、高知の桂が浜で太平洋の彼方を望んで立つ坂本竜馬の銅像をみて育った高崎さんは、自由奔放で少年のような心を持った人でした。亡くなる前には、高校まで過ごした郷里にたびたび思いを馳せていました。

後にも先にも、高崎さんのようなグローバル・スケールの戦略家に出会ったことはありません。

そんな高崎さんと25年間親しくお付き合いできたことをとてもしあわせに思います。

山桜が満開だった今年の4月、西多摩霊園で高崎さんの納骨式がありました。太陽が桜の花びらにきらきらと光り、眩いばかりの空のもと、親戚の方々と生前親しかった友人たちが集まりました。

納骨式では、プロテスタントの信者であった高崎さんの所属教会(長老派)の牧師さんが故人への永遠の霊魂のためのお祈りを捧げました。そのときに読み上げてくださった一編の詩「千の風になって」をきいたとき、高崎さんとの四半世紀にわたる数々の想いが一気にこみ上げてきました。

最後に、皆さんとシェアするために、その詩をご紹介したいと思います。




千の風になって
a thousand winds
作者不明 日本語詩 新井満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています

あの 大きな空を 吹きわたっています




高崎さん、天国で安らかにありますように─。

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