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2005年06月27日

インベスター・リレーションズ(IR)を成功させる4つのポイント

先週から今週にかけて株主総会が本番を迎えています。バブル期を越える史上最高益を上げる企業が続出し、3月期決算企業の配当総額も過去最高を更新しています。経済産業省の発表によれば、2005年1-3月期の実質GDP成長率は前期比年率で4.9%を示しており、日本経済もやっと出口が見え始めている感があります。

近年、国内でも、インベスター・リレ?ションズ(Investor Relations: IR)活動の重要性が大きく叫ばれるようになりました。時価会計の導入、M&A(企業の買収・合併)の活発化、株式保有比率が20%を超える外国人投資家の台頭、間接金融から直接金融への資金調達先の変化などにより、株主価値重視経営への転換が大きく作用しています。

パブリック・リレーションズとは最短距離で目的を達成するリレーションズ活動で、投資家=インベスターとの関わりをインベスター・リレーションズといい日本では投資家向け広報(IR広報)としています。IRの目的は、インベスターとの相互理解を深め、適正な株価を形成し、企業価値・株主価値を高めることです。投資家に有効な判断基準を提供し、インベスターとの友好な関係を築いていく活動といえます。その実践におけるIR担当者の役割は非常に大きく、その取り組み方次第で結果に大きな差をもたらします。

インベスター・リレーションズについて、米国のPRのバイブル書といわれる『エフェクティブPR』の著者、スコット・カトリップがその書のなかで「IRとは、上場企業で行われるパブリック・リレーションズの一分野であり、株主の信頼を増加させ、個人投資家や金融アナリスト、機関投資家の興味を引くようにすることによって株価を押し上げ資本コストを下げる役割を果たす」とし、「コーポレートPRの専門活動領域として株主や金融コミュニティ関係者との良好な相互関係を構築し維持する活動である」と定義しています。

一方、全米IR協会(NIRI)は、「インベスター・リレーションズ (IR) は、企業、金融コミュニティおよびその他の利害関係者間での最も有効な双方向性コミュニケーションを可能にし、財務やコミュニケーション、マーケティング、そして証券関係法の下でのコンプライアンスなどの諸活動を統合した戦略的経営上の責務であり、結果として企業の証券の公正な評価に貢献するものである(2003年3月、NIRI理事会で採択))」と定義しています。
http://www.niri.org/about/mission.cfm

NYの金融界の最先端に長年身を置く何人かの友人に、成功するIRの秘訣を聞いたとき異口同音に戻ってくる答えは、「一に戦略、二に戦略、三に戦略」と経営トップによる企業の将来の方向性やビジョンを示す経営戦略の重要性を強調していますが、パブリック・リレーションズの専門家としてIRを捉えた場合、成功させるためには以下の4つのポイントがあると思います。


1.何よりもまずは明確な経営戦略。将来の成長性をアピールする
インベスターは企業の価値創造力に投資します。その理解を得るには、将来へ向けたビジョン、経営戦略、それを実現するプロセスを明示しなければなりません。また、その戦略内容が明確であることはもちろん、投資家をひきつける魅力をもち、納得できるものでなければなりません。企業の最前線で市場と関わるIR担当者は、経営サイドと極めて近いところに位置する必要があります。


2.透明性のある情報開示で投資家に明確な判断基準を提供する
明確な経営戦略と実行プロセスと共に重要な判断基準となるのが、証券取引法などで規定される法定開示や東京証券取引所などで規定される適宜開示など、過去そして現在の業績や将来の業績見通しを示す企業情報です。IR関連の法令や規則を理解し、遵守しながら、投資判断に必要な企業情報を正確にしかもタイムリーに開示することが求められます。


3.双方向性コミュニケーションをとおして市場の声を聞く
魅力ある戦略と透明性のある正確な情報をタイムリーに発信し、インベスターの信任を得るには、IRの知識に加え、コミュニケーションに関する高い技術が必要となります。市場との積極的な双方向性コミュニケーションをとおして市場の声を聞くことが、継続的な企業価値創造力を高める好循環を生み出すからです。企業と市場の橋渡し役であるIR担当者の役割は、社外に対しては企業をアピールし、社内、特に経営サイドに対しては市場の声を届けることです。市場の反応をフィードバックとして捉え、速やかに経営戦略に反映する努力は、互いの信頼関係を促進すると同時に、企業の価値創造力を高める結果にもつながります。

パブリック・リレーションズの専門家としてもう少し詳しく述べると:
●ターゲットとしては、既存の株主と潜在株主、機関投資家、一般投資家、証券アナリスト、ファンド・マネジャー、投資顧問、財務省、証券取引委員会、証券取引所などが上げられます。また近年、企業統合やM&Aなどにより激変する経営環境の中で、従業員に対するコミュニケーションも重要視されるようになっています。

●とりわけ、一般投資家へ分析情報を提供するアナリストやファンド・マネジャーとのコミュニケーションは特に重要です。彼らの本来の役割が、情報の分析や評価による市場での適切な株価形成を促すことからも、できるだけ多く直接対話を行う機会をもち彼らの理解を得る必要があります。

●また、ターゲットへのコミュニケーション・チャンネル(情報媒介者)となるメディアとの良好なリレーションズ作りにも積極的に取り組む必要があります。IR活動をメディア・リレーションズと連動させることで、発信する情報やメッセージをタイムリーかつ広範囲に伝えることができます。


4.危機管理システムの導入により万全な体制を整える
ネット社会にあって、どんなに素晴らしいIRを行っていても、危機発生時の対応を誤るとすべて無に帰すことは雪印事件の例を見るまでもありません。イッシュ・マネジメント、リスク・マネジメント、クライシス・マネジメントといった3つの概念を統合する危機管理システムの企業導入により、リスク情報の開示はもとより、リスク・ファクターを明確化し危機への備えを、外部専門家も加え万全なものにしなければなりません。
特に、上場企業にとって、危機発生時の対応はメディアへの対応を意味します。ひとたび不祥事を起こした場合、メディアへの対応いかんによっては、資本市場からの退場を求められるからです。


IRを成功に導く4つの要件は、企業の経営努力そのものに他なりません。

IRへの努力が、経営そのものに磨きをかけ、真の意味での企業価値を高めることにつながります。つまり、好循環を実現しているIRは、コーポレートPRやブランディングにも大きく貢献するということです。最近は、CSR(企業の社会的責任)などへの関心の高まりから、企業を評価する基準として、財務諸表以外での取り組みにも注目が集まっています。

ニューズウィーク日本版の6月15日号で興味深い記事を見つけました。企業の財務力(50%)+CSR評価(50%)を判定基準に、企業をランク付けしようと試みた特集記事でした。

今後、こうした傾向が強まっていく中、CSRにどう対応していくかといったこともIRにおいて重要な要素になってくることと思います。IRは、急速に進む資本市場のグローバル化のなかで、その変化に対応するため、迅速かつ着実に行なう継続的な活動であり、今後、IR担当者に課せられた責任と役割はますます高まっていくものと考えます。

投稿者 Inoue: 11:00 | トラックバック

2005年06月20日

日中関係をPRの視点で捉えてみる

小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐって日中関係が急速に冷え込んできています。双方とも改善への糸口を模索していますが予断を許さない状態にあります。ことの発端は、小泉首相による参拝継続に関連する問題で、今年4月参拝の意向を示唆した国会答弁がきっかけとなり、それまで抑制されていた中国側の対応が一転して強硬路線に変わってきたことです。現体制下で、中国国内で起きた反日運動をどう捉えるか議論があるところですが、世論の感情的な高まりは表面的に収まっているようには見えるものの、一触即発といった見方をすることもできます。

パブリック・リレーションズ(PR)は最短距離で目的を達成するリレーションズ活動です。今日は、膠着状態にある両国の関係を打破するためにどうすべきかを、パブリック・リレーションズのベースとなる「倫理観」 「双方向性コミュニケーション」 「自己修正」の視点で考えてみたいと思います。


「倫理観」に支えられた行動を
両国にまたがる問題は、尖閣諸島の領有権問題、東シナ海のエネルギー開発問題などいろいろありますが、その根底にあるのは歴史認識の問題だと思います。

その意味では、4月22日ジャカルタで開催された、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)50周年記念首脳会議における小泉首相のスピーチは、1995年(戦後50年)の当時の村山富一首相談話に基づく歴史認識を改めて強調し、植民地支配と侵略によって多大な損害や苦痛を与えたアジアの周辺諸国に、「痛切な反省と心からのおわび」を公式に表明し、日本が今後も「平和国家」として歩んでいく姿勢を強調しました。

戦後生まれが大多数を占める日本社会がよく理解しておくべきことは1930、1940年代に多くのアジア諸国を巻き込んだ戦争は、その舞台(戦場)が日本国内ではなく相手国内であったということです。善悪の基準を表す「倫理観」に照らし合わせてみれば、先の第二次大戦は、誤った戦争であったとの認識を持つことが極めて健全です。そうであれば、フォルカー・フルート弘前大助教授の「一歩踏み出すのは加害者から」(2005年6月18日朝日新聞朝刊17面)という言葉どおり、日本側から歩み寄りの姿勢を示すことが和解の第一歩になると考えます。

一方中国には、その体制の特異性ゆえ、民主主義社会に住む私たちにとっては理解できない事柄が多く存在しているのも否めません。倫理観の視点で捉えた場合、中国側のこれまでの行き過ぎた反日教育に問題が無かったと考えることには無理があります。中国政府はこれまで、どのくらい、戦後の日本の歩みを自国民に伝えてきたのでしょうか。つまり、日本が戦争を放棄し、平和憲法の下でその道を歩み、中国をも含めた途上国へのODA援助をたゆまず行ってきことを伝えてきたのかどうか、多くの日本人にとっては不透明に感じる部分も少なくありません。中国には、あくまでも事実に基づいた歴史教育の実施が求められているのです。

同じように、日本の中等教育における近現代史(明治維新以降)の不十分な学習上の問題は、21世紀を生きる日本人にとって憂慮されるべき問題です。アジアの世紀といわれる時代を生きぬく子供たちにとって、自国の歴史についての理解は尊敬される国際人としての要件であり、とりわけ周辺諸国と関わりのある近現代史への正しい歴史認識は極めて重要とされるからです。


「双方向性コミュニケーション」を通して両国のリレーションズづくりに努める
日本と中国の関係を修復し、友好関係を維持する目的を達成するには、双方向性コミュニケーションつまり相互の交流・対話を、リレーションズ活動として、政府間レベルはもちろんのこと、ビジネス、民間、草の根など、あらゆるレベルで活発に行われなければなりません。中国の特異性を考えたときには極めて必要になってくると考えます。

中でも客観的な視点を持つ学者の交流は非常に重要です。学者の目線で、歴史に関する事実を調査・検証し、その上で、双方が事実に基づいた歴史をしっかりと受け入れ、そこから互いに何が必要で、何ができるのかを見据えて対話を進めていくことに大きな意義があるのだと思います。

日韓問題を例にとると、小泉首相が2001年訪韓し金大中大統領と首脳会談した際、歴史教科書問題の日韓共同研究について合意しました。翌年5月、日韓歴史共同研究委員会(日韓各11人の研究者で構成)が発足し、今月10日、第一期の報告書が公表されました。歴史認識をめぐる見解は割れたものの、共同作業は、「双方の違いと共通点を確認し」溝を埋める第一歩になったと、その成果が大きく評価されています。インターネット上で報告書を公開し、日韓両国民ひとり一人が研究成果に直接アクセスできるように考慮されています。

日中間には、2000年以上にわたる交流を通して、漢字文化や仏教、儒教思想など多くの共通の文化が存在します。近年では、ポップ・カルチャーなど民間レベルでの文化交流も活発に行われています。特にここ数年の日本企業の中国進出は目覚しく、進出企業数は2003年12月時点で18,136社(中国対外経済統計年鑑2004年版)を数えていますが、政府の明確な対中政策を基盤としたリーダー・シップなしには、多様なレベルでの交流や対話を両国の友好関係に十分に活かすことはできません。被害を受けた側の苦しみや悲しみに思いを馳せ、つまり相手の視点に立ち、過去に対する態度と決別し、和解に向けたビィジョンに基づく一貫したメッセージを積極的かつ継続的に打ち出していくことが求められていると思います。

「自己修正」
1985年、終戦記念日に公式参拝した中曽根首相(当時)が、国内世論や野党からの批判だけでなく、中国からの非難を受けて、翌年の86年に「公式参拝は行わない」との政府発表を行いました。国内外からの批判をフィードバックとして捉え、「国益」を優先し、中国をはじめとした近隣諸国への気遣いを表すことにより修正を加えたとみることができます。端的に言い表すならば、日本の繁栄と国民の幸福のために、国益を守ることを目的とする一国の宰相として、その遂行のために必要な決断をしたといえます。

2001年、小泉首相は首相就任前の自民党総裁選で、日本遺族会に対し首相になれば靖国神社を参拝する意向を示し、その後の「公約」にしてきましたが、今回の問題を巨視的に捉えるならば、遺族会に対する「義」を取るのか、アジア全体の平和と繁栄を考えた上での「国益」を取るのか、GDP世界第二位の日本国最高責任者として、とるべき行動は自ずと見えてくるのではないでしょうか。


今回の問題はある意味で、PRの実務家にとって専門家としてのとるべき行動がどのようなものであるかを考えるいい機会であったと思います。

この問題における相手国側の過剰ともいえる反応は、基本的なところでの相互信頼関係が未だ構築されていないことを露呈しています。何故相手国がこのような強い疑心を持っているのか、その大半は、PR不足からきていると見ることができます。私たちは、戦後、どのくらい日本が変わったのか自らPRしてきたのでしょうか、相手の国民は現在の日本について殆ど情報を持っていなかったと考えたほうが自然かもしれません。勿論、体制の異なる国への広報活動には難しい問題が横たわっていますが、互いを知らないまま、不信感だけで相手となじり合うことほど不幸なことはありません。

企業体が行うパブリック・リレーションズの場合は、ひとつの情報発信者(企業体:本社、事業部)が複数のターゲットに対して様々なリレーションズ活動を行います。一方、国家間で行うリレーションズ活動は、時として政府間交渉に止まらず、民間やNPO、草の根個人など、幅広い複数の情報発信者が複数のターゲットに対し行動をとり、向かうべき流れを明確にし全体を加速させます。近年、中国、韓国の10代の若者層に親日家が増えてきていることを見ても、国家間のリレーションズ活動においても文化的(ソフトパワー)交流が如何に重要かを示しています。

昨年中国(香港を含む)は、日本の対外貿易相手国として始めて米国を抜き第一位になりました。21世紀の日中関係が相互依存型で不可欠の存在になっていることを再確認させてくれたといえます。だからこそ、日中間の交流を妨げる要因があれば、双方が叡智を結集して問題解決に向かって協動することが大切なのではないでしょうか。

国内に多くの問題を抱えた中国が、価値観の異なる国であることを十分にわきまえて対話を進めなければなりません。

時として、反省や謝罪にはそれに見合った行動が求められます。首相の靖国参拝問題は私たちに、日本が他のアジア諸国と今後どのように関わっていくべきか、より明確で戦略的な国家ビィジョンの策定の必要性を提示しているといえます。

投稿者 Inoue: 16:00 | トラックバック

2005年06月13日

個性豊かな人生を自らの選択でかたち作ってきた、宮川秀之さんを囲んで

先週金曜日の夜、イタリアから戻ってきていた宮川秀之さんのために、知人の小河原正己さんの呼びかけで「宮川さんを囲む会」が開かれました。芝の大門にある焼肉屋さんでの会は私にとって半年振りの再会でした。

宮川さんは、世界的なカー・デザイナーであるジウジアーロと共に、イタリア・カーデザインの世界で新しい道を切り拓き、日伊の産業交流に長く貢献された人です。

今回の来日は、宮川さんが経営するスポーツ・マネージメント会社コンパクト社が手がけるイタリアの名門サッカー・チームで今季のセリエ・Aで優勝した「ユベントス」の日本での親善試合開催のためで、2人の息子さんと総勢40名を超えるチームの責任者として東京に滞在されました。

宮川さんと初めてお会したのは昨年12月で、今回の囲む会の世話役で元NHKプロデューサーの小河原正己さんにご紹介いただいたのがきっかけでした。

最初に小河原さんから、「ジウジアーロと長くパートナーを組んできた人」として紹介されたとき、70年代の日本のスーパーカー・ブームを思い出しました。なぜなら、ジウジアーロはその時代日本で大流行した、ランボルギーニ、フェラーリ、マセラッティ、ポルシェなどのスーパーカー・ブームの中心にいた著名なカー・デザイナーだったからです。そしてそのパートナーがなんと日本人の宮川さんであったことを知りとても驚きました。車好きだった私にとって、そんな宮川さんに個人的に興味を持ちました。

宮川さんの歩んだ人生は大変興味深いもので、早稲田大学在学中の1960年、中学時代から好きだったオートバイで世界一周旅行へ飛び出し、途中立ち寄ったイタリア、トリノでマリーザさんという女性と恋に落ち、そのままイタリアに住みついてしまいました。

運命的な出会いをしたマリーザさんとの結婚後、1965年にカー・デザイナーであったジウジアーロと知り合い意気投合。宮川さんは、1967年にはイタルデザイン社の前身となるイタル・スタイリング社を設立し、それ以来、ランボルギーニ、マセラーティやアルファロメオ、また日本車では当時話題を呼んだいすゞ117クーペなど数々の名車を世に出しました。

その後、前にも紹介したように、2人の息子さんと一緒にスポーツ選手を中心としたマネージメント会社コンパクト社を設立し、サッカー・チームや選手のマネージメントを行っています。今回来日のユベントスやキャプテンのデル・ピエロ、F1ドライバーのジャン・アレジなどのマネージメントを、総勢90人を超える社員が手がけています。

福祉活動にも積極的で、2003年の暮れに急逝された奥様のマリーザさんとともに、カトリック精神にもとづき、愛のある大家族をめざして、数々のすばらしい活動をされてきました。4人の実のお子供さんの他に、韓国やインドなどから4人の子どもを養子、里子として受入れ育て上げたことや、ザンビアのハンセン病患者の子供4人を里子にして養育費を送ることなどもその考えに基づくものです。

1994年からは、毎年、日本の不登校やひきこもりの子供たちを自分たちの農園に40日間預かり、自然の中で、仲間たちと共に働き、学び、生きる喜びを知ることで個々の自立を促すプログラム「ニュー・スタート・プロジェクト」を提供していました。

20年前、トスカーナの10万坪の水辺のある土地に、ワイン農園(ブリケッラ農園)を開き、有機農法による最高品質のワイン作りにも力を注いでおられます。一昨年の秋から娘さんの志づ子さんが日本に常駐し、自分たちが作ったイタリア・ワインの日本での紹介に努めています。

宮川さんの家族の間で一番大切にしているのは、お互いのコミュニケーション。毎日一度は家族同士で電話しあい、互いの所在や状態を確認する。問題が起こったときにはお互いが率直に対話して結論をだす。このようなオープンで双方向のコミュニケーションを通して、家族の絆がより深まっていくのだといいます。

この信頼関係が基盤にあるからこそ、「古い世代の親が自分の考えを子に押し付けるのではなく、新しい世代の子供が自分なりのアンテナで考え、最終的に自己責任により自らの行動をとる」といった人間教育が成り立つのかもしれません。

こうした宮川さんの、個としての人間の素晴らしさを深く理解し、個の中に既にある豊かな人間性を引き出すことに情熱を持って取り組む姿勢に深く感銘を覚えます。

宮川さんの生き方には共感する部分が多くあります。私が、現在大学で教鞭をとっているのも、健全な社会の発展には、個がしっかりしたバックボーンとパワーを持つことが極めて重要ですし、そのための教育が不可欠だと信じているからです。

宮川さんのこれまでの長い人生をとおして出来上がった確固としたモットーは、「プロセスを楽しむ(process-enjoying)こと」。つまり、「人生は山あり谷あり。けれども、志を持って臨めば、深い谷にいるときにもそれを受け入れることでプロセスそのものを楽しむことができるようになる。そしていつか必ず山に登ることができる」。

これからも、宮川ファミリーの日本とイタリアを繋ぐ橋渡し役としての活躍を楽しみにしています。

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2005年06月06日

私の歩んできた道 生立ち編
  6年間で転校6回、異文化にとけこむスキルを培った小学校時代
    ?全てはパブリック・リレーションズに繋がっていた

1944年(昭和19年)11月20日、旧満州国大連市生まれです。父、井之上理吉(1903年生れ)と母、ツルヱ(1908年生れ)の間に7人兄弟(男4人、女3人)の6番目の子として誕生しました。

1947年(昭和22年)、家族は日本へ引揚げ、ひとまず母の実家のある瀬戸内海に浮かぶ島で、広島県因島の真向かいの弓削島(愛媛県)に身を寄せました。

父は中央官庁の役人で、香川県高松市でGHQのもとで経済復興のための仕事をしていましたが、途中で家族も合流し、市内の香西寺というお寺にしばらくお世話になり寺の境内で遊んだことを覚えています。

その後、市内の鉄砲場というところに新しくできた公務員官舎に移りました。初めての小学校は地元の亀岡小学校で、昭和26年4月に入学しました。しかし父親の転勤で亀岡小は一学期だけで終わり、その夏に家族9人は広島市に移りました。

広島では1年の二学期から比治山小学校に転校。その後も、父の仕事の関係でほぼ毎年転校を繰り返し、小学校の6年間で実に6度の転校を経験しました。

2年生の一学期からは住居移転のため広島市内の白島小学校へ転入。ここは原爆の爆心地に近く、やけどを負った児童などがいたのを思い出します。

2年の夏には九州の福岡市上出来町(現博多区)に移り住み、二学期から4度目の学校、御供所小学校に通い始めました。

その後4年の夏に同市内に引っ越し、二学期から平和台球場や黒田城に近い赤坂小学校に転校しました。

福岡での2年間は、たくさんの友達に囲まれて、とても楽しく過ごしたことを覚えています。福岡は私にとって第二の故郷といえるほど、懐かしい思い出がいっぱい詰まった場所です。この頃、笑い方がうまいということで、NHK福岡児童放送劇団の試験を一度でパスし、いろいろと活動しました。

6度目となる最後の小学校は東京新宿区にある戸山小学校でした。福岡から5年の夏休みに多くの友人に見送られて上京し、卒業するまで過ごしました。

小学1年生の頃は転校先の学校に馴染めず、寂しがり屋で弱虫な少年でした。いつも父親の姿を求めて泣いてばかり。しかし福岡に転校した3年頃から、クラスの級長に選ばれるなど活発に活動する少年に変わっていきました。この頃水泳と駆けっこ、特にマラソンは、どの転校先でも学年で一番だったので、比較的早く新しい環境に順応することができたのだと思います。好奇心の強さに加えて勝気な性格と、得意なスポーツに支えられていたのかも知れません。

振り返ってみると、小学校6年間で6度も転校を繰り返し、小さいうちに人との出会いや別れを体験したせいか、相手の気持ちを人より敏感に感じ取れるようになったように感じます。

また、日本国内ではあったにせよ、方言も習慣も違う異文化のなかで、自分を主張しながら相手を知り、互いの理解を深め、人とうまくやっていくコミュニケーション・スキルを自然に身につけていった気がします。

パブリック・リレーションズにとってコミュニケーション能力はベースとなるもので、小学校時代のこれらの体験は私にとって大変貴重なものだったといえます。

ひょっとしてこのブログを読まれている方の中にも同窓生がいらっしゃるかも知れません。今回は学校名も紹介させていただきました。

投稿者 Inoue: 13:00 | トラックバック