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2005年12月10日

パブリック・リレーションズの巨星たち
2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891?1995)、「教育者としてのバーネイズ」

こんにちは、井之上喬です。
皆さん、いかがお過ごしですか。

今週は、エドワード・バーネイズについての最後のお話しです。ここではパブリック・リレーションズの実務家バーネイズのもうひとつの顔、「教育者としてのバーネイズ」を見ていきたいと思います。

バーネイズは、それまでアイビー・リーなどが自らの職業の呼称としていた「パブリシスト」を初めて「パブリック・リレーションズ・カウンセラー」と名づけました。そして組織体とそれを取り巻くパブリックの諸関係(リレーションズ)についてアドバイスを行う実務家として、範囲と役割を明確にし、その技法を理論的に体系化したのです。またパブリック・リレーションズの重要性に早くから気づいていたバーネイズは、初めて学術的地位を確保し、その普及・発展のための教育に積極的に関わりました。

バーネイズは1923年、米国で最初のパブリック・リレーションズのコースで教鞭をとりました。同年に出版した『世論の覚醒化』('Crystallizing Public Opinion')のプロモーションも兼ねて大学で教鞭をとることを考え、ニューヨーク大学のジャーナリズム学部長のジェームズ・リーにコース新設を説得しました。度重なる説得の末、ニューヨーク大学で米国初の「パブリック・リレーションズ」のコースが誕生しました。伯父の心理学者フロイトを世に送り出したといわれるバーネイズならではの着想であったかもしれません。

また47年、ボストン大学で米国初のパブリック・リレーションズ学部をスタートさせました。61年にケンブリッジに自宅を構えてからもバーネイズは同大学でたびたび講演し、その活動は晩年まで続いたといいます。更に同大学に奨学金基金(The Edward L. Bernays Foundation Primus Inter Pares Award)を創設し大学院生の教育を支援しました。現在も毎年大学院生を対象に奨学金が提供されています。この努力が後に評価され、同大学から名誉博士号を贈られました。

バーネイズは、パブリック・リレーションズの質の向上には協会を設立し、実務家に求められる明確な職業規範を確立する必要があると考えていました。そこで27年にアイビー・リーを含む13人で協会設立のための委員会を発足させますが、実現に至らずその委員会は解散してしまいます。


その後、36年にニューヨークを拠点とする実務家たちにより設立されたNAAPD(National Association of Accredited Publicity Directors)と、39年カルフォルニアでレックス・ハーロウ(Rex Harlow)により設立されたACPR(American Council on Public Relations)が48年に併合され現在のPRSA(The Public Relations Society of America:米国パブリック・リレーションズ協会)が誕生しました。しかしメンバーの質を重視のバーネイズの考えは、会員数優先のPRSAの方針と相容れず参加することはありませんでした。


しかし40年後の76年、バーネイズによるパブリック・リレーションズへの貢献が高く評価され、彼はPRSAからPRSAの最高賞である「Gold Anvil」を授与されると共に、PRSA認定の実務家資格のAPR(Accredited in Public relations)のタイトルも授与されました。そして90年には同協会の功労者としてAPRフェローの称号も授与されています。

またバーネイズはパブリック・リレーションズの普及のため、執筆活動も積極的に行いました。23年出版の『世論の覚醒化』や28年に出版された『プロパガンダ』など、時代と共に進化するパブリック・リレーションズを考察した本や出版物を時代の節目ごとに発表しています。

なかでも52年に出版された『パブリック・リレーションズ』(‘Public Relations’)では、パブリック・リレーションズの登場・発展の歴史を紹介・考察すると共に、彼の関わったプログラムをケース・スタディとして取り上げ、分析・評価方法を示し、読者が型にはまることなくこれらのケース・スタディを応用し、積極的に活用することを勧めています。

またバーネイズは、専門家にふさわしい高度な技術と人格を持つ実務家を確保するためには資格制度が必要であると考えていました。そのために医師や弁護士と同等な公的資格制度の実施を訴え、92年、法案として議会に提出しましたが廃案となってしまいました。その後も法案提出を試みましたが結局機会を得ることなくこの世を去ります。

ちなみに米国では現在、PRSAが64年から独自に実施してきた民間の認定制度(APR=Accredited in Public Relation)は、98年にPRSAをはじめとする10の団体が参加する「ユニバーサル認定プログラム(Universal Accreditation program)」へと形態を変え、パブリック・リレーションズのプロフェッション獲得者としてAPRの称号を贈られています。

パブリック・リレーションズを専門領域として確立させたいとのバーネイズの長年の熱意は、彼のプロフェショナルとしてのパブリック・リレーションズの実践面における輝かしい業績に支えられた自負と、結果を出すことのできるパブリック・リレーションズに対する強い信頼と誇りの表れであったといえるかもしれません。「明確な調査・分析と豊かな発想力で取り組めば、どのような困難な問題も解決に導くことができる」とパブリック・リレーションズの黎明期からその普遍性に着目していたのです。

これまで過去5回にわたり(10月31日11月4日11月11日11月18日12月2日)エドワード・バーネイズのパブリック・リレーションズにかけたその生涯を見てきました。バーネイズは1910年代から活動し始め、103歳のその生涯を終えるまで実に80年以上にわたりパブリック・リレーションズの世界に影響を与え続けました。その功績は多岐にわたって計り知れないものがあります。

今回のシリーズで彼を知るにつれ、35年間パブリック・リレーションズ実務家として様々な問題に取り組んできた私自身の考えが幾度となくそこに投影されていることに、同じ道を歩むものとして深い感銘を受けます。

95年、人生に幕を閉じる3年前AEJMC( Association for Education in Journalism and Mass Communication)での講演で、バーネイズは次のような言葉を残しています。「私は黎明期から米国社会で大きな役割を果たすようになったパブリック・リレーションズの今日まで、この仕事にかかわってこられたことを幸運に思います。私はこの職務とパブリック・リレーションズが民主主義社会に多大な貢献を果たしたことに高い誇りを持っています。パブリック・リレーションズには世論の同意を得る手法が用いられています。そのベースにあるのは『真の民主主義社会において、全ては民意によらなければならない』というトーマス・ジェファーソンが示した民主主義の原則です」。

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2005年12月02日

パブリック・リレーションズの巨星たち
2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891?1995)、「ゲッベルス ?プロパガンダの恐ろしさ」

こんにちは、井之上喬です。

月日の経つのは早いものでもう師走になりました。皆さん如何お過ごしですか?

今日は、再びエドワード・バーネイズのお話しに戻ります。バーネイズの影響を受けたナチス・ドイツの宣伝担当相ヨゼフ・ゲッべルスと、彼がナチスのキャンペーンで導入した「プロパガンダ」についてお話したいと思います。

プロパガンダの現代的な意味は、情報流通が一方向で、情報発信者が自己を正当化し他人の意見に影響を及ぼすための活動であり、公共の利益と必ずしも結びつかず、時には自己利益との混同も見られます。多くの場合、発信者側に好ましい世論形成にマイナスとなる事実は隠蔽されたり、歪められて発信され、倫理観を欠いたコミュニケーション活動で、パブリック・リレーションズとは対極にあるものです。

しかし、本来は崇高な目的をもった活動を意味するものでした。プロパガンダという言葉の成立は1622年、当時のローマ法王グレゴリー15世により’Congregatio de propaganda fide’ が世界中で行われていた伝道活動の監督役として設置されたことに由来します。そこには虚偽や欺瞞などの悪いイメージは一切なく、むしろ教会活動などをとおして信仰や教義、主義などを普及させる良いイメージをもつ言葉でした。

プロパガンダに対する悪いイメージが確立されてしまったのは、その後約300年を経た第一次世界大戦以降のことです。大戦後のアメリカでは戦勝国になったものの多くの兵士の命が奪われました。このため参戦への正当性を巡って、アメリカ政府(CPI)により戦時中展開された「参戦に大義名分をもたせるための世論形成活動」に対する批判が噴出しました。当時の批評家やジャーナリストたちが、政府や大企業にとって望ましい世論形成を強引におこなう活動としての「プロパガンダ」を記事の中に用いだしたのです。

また20年代のビジネス界では、バーネイズやカール・ボイヤーなどCPIのメンバーが戦争キャンペーンで培った世論形成手法を用いてパブリック・リレーションズ実務家として企業への貢献をおこなっていました。戦後の好景気でますます巨大化する企業への懸念が叫ばれた時代とも重なって、これら批評家やジャーナリストによる「プロパガンダ」批判となったのです。

その一方で、プロパガンダに対するイメージ回復への試みも行われました。そのひとつに、バーネイズによる『プロパガンダ』の執筆があります。28年に出版されたこの本の中でバーネイズは、パブリック・リレーションズを新しいプロパガンダとして位置づけ、世論形成の手法を紛争解決や民主主義運営をスムーズなものにするための手法として用いることで、社会の向上や平和の維持を可能とすることができると説きました。

しかし皮肉にも彼の世論形成のための構築理論はナチスの宣伝担当相ヨゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbeles, 1897-1945)に悪用されることになってしまいます。ゲッベルスはバーネイズの著書『世論の覚醒化』('Crystallizing Public Opinion'  23年出版)に書かれていた世論を味方につけるための理論を実践し、プロパガンダを展開して世論を扇動したといわれています。

20年に結成された国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首にアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)が就任したのは翌年の21年。28年に初めて国会に進出し、12議席を獲得後わずか5年で230議席にまで伸ばし、ドイツ第一党を獲得しました。その達成の裏にはゲッベルス主導による選挙戦術があったといわれています。

ゲッベルスは1897年ラインラント地方にある中都市リートでカトリックの中流家庭に生まれました。ハイデルベルク大学に進みロマン派文学を専攻。卒業後ジャーナリストを目指しますが挫折し、失業状態にあった25年にナチ党に入党。ヒトラーは彼の弁舌の才能を高く評価し、26年にはベルリン・ブランデンベルグ大管区指導者に抜擢。それ以降ゲッベルスは選挙活動を任せられるようになりました。

彼の戦術は理性ではなく大衆の感情に訴えかけるもので、わかり易いスローガンを強烈にしかも繰り返すことで人々の脳裏に焼き付けて人心を捉えました。また、明確な攻撃対象を設定してネガティブ・キャンペーンを展開し「同じ敵を持つ者の間に仲間意識が生まれる」と民衆のなかにナショナリズムを醸成していきました。

たとえば、ヒトラーの弁舌の巧みさを利用して演説で人びとを魅了し、ラジオでは政見放送を活発に行い、街を埋め尽くすほどのビラやポスターを配布するなど、視覚や聴覚に訴えるキャンペーンをあらゆるメディアを動員して徹底的に行ったのです。

こうして33年ドイツの第一党に躍進すると、「わが民族の精神的、意思的な一致」を実現するための「国民革命」と称し、ナチスの基準に政治制度や国民生活を均一化させる運動を断行しました。政治組織を改変し党の組織をあらゆる生活の場に浸透させ、労働・教育・余暇などすべてをナチズムによって支配することで、瞬く間に独裁国家を作り上げ「ユダヤ人排斥運動」を展開していったのです。

独裁国家となってからは「嘘も百回繰り返せば真実になる」として党に有利な情報のみを一方的に発信する徹底した情報統制と、ゲシュタポ(ナチスの国家秘密警察)による厳格な世論統制を行い、システムの構築と集団心理を巧みに操るハードとソフトの両面から世論をコントロールしていきました。

ヒトラー自決の翌日となる45年5月1日、ゲッベルスは6人の子供を毒殺し、妻のマグダと共に拳銃で自らの命を絶ちヒトラーの後を追ったといわれています。ヒトラーに忠誠を尽くし続けた彼にとっては当然の帰結であったといえるかもしれません。

ゲッべルスの死後、彼の机の引き出しからバーネイズの著書『世論の覚醒化』が発見されたと知り、バーネイズは、「知る由もなく、どうしようもないことだ」とコメントしています。バーネイズがオーストリアから移住したユダヤ系移民であったことを考えると、運命の悲劇としかいいようがありません。

ホロコーストで失われたユダヤ人の命は600万人以上にのぼるといわれています。社会向上に利用すれば戦争回避にも役立てることができる技法を、自己利益のため主義・主張を正当化し一方的に民衆に押し付ける道具として悪用した結果の惨劇でした。

第二次大戦後もアメリカではパブリック・リレーションズは進化し、世界の平和と安全を守るため、政府による民主主義の普及に貢献してきましたが、最近のイラク戦争の報道を見る限りでは、本来のパブリック・リレーションズからプロパガンダ的な方向に向かっているところが垣間見え、とても残念です。

「戦時中と平和時における世論説得の手法は、ただその意図や目的が違うだけであり、両者の技法そのものは同じである」とのバーネイズの言葉どおり、パブリック・リレーションズは絶大な力を発揮することが可能であり、ひとたび使い方を誤ると恐ろしい結果を招いてしまう可能性をはらんでいます。まさに「デモクレスの剣」といえます。

ですからパブリック・リレーションズの実務家は、いつでもプロパガンディストになり得ることを心に銘じ、確固たる倫理観に基づいた双方向のコミュニケーションを実践し、職責を果たしていかなければなりません。

投稿者 Inoue: 19:00 | トラックバック

2005年11月18日

パブリック・リレーションズの巨星たち
2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891?1995)、「米国大統領とバーネイズ」

こんにちは、井之上喬です。

いかがお過ごしですか。

先週に引き続き、今日は80年間にわたって活躍したエドワード・バーネイズの「米国大統領とバーネイズ」について考えてみたいと思います。

バーネイズは多くの政府機関や個人の政治家に対してカウンセリングを行いました。その中には米国大統領や大統領直属の機関もあります。

はじめて大統領直属の政府機関で活動したのは、当ブログ10月31日号にも書いたパブリック・インフォメーション・コミティ(Committee on Public Information = CPI)における活動です。CPIは第一次世界大戦中の1917年、ウッドロー・ウイルソン(Thomas Woodrow Wilson)大統領のもとで米国の参戦に対する米国内の賛同を得るために組織されたもので、委員長であるジョージ・クリール(George Creel)にちなんでクリール委員会(Creel Committee)とも呼ばれました。マスメディアを総動員してパブリシティを広範に展開したこの活動では、100もの外国紙にプレスリリースを配信したり、19種類の言語による独自の機関紙を発行するなど、移民国家としての徹底した対応を行い、世論の同意を得ることに成功しました。

このCPIの活動を通して、それまでの計画性を持たないパブリシティが実質的な効果を生む戦略的手法として構築されました。CPIにより開発されたこの手法はシステム化され、戦時における戦略構築の雛形として、米国が第一次大戦以降かかわった戦争に使用されてきました。

大統領とはじめて直接のかかわりを持ったのは、1924年の共和党のカルヴァン・クーリッジ(Calvin Koolidge)の大統領選挙戦のときでした。任期中に急逝したウォーレン・ハーディング(Warren G. Harding)大統領の政権で副大統領を務めたクーリッジが大統領職にあった時点で行われた選挙でした。「堅物」イメージが強いクーリッジでは再選が危ういと考えた側近たちが、彼のイメージ・チェンジをはかるためにバーネイズに声をかけたのです。

バーネイズは、全米が注目するイベントでクーリッジが笑顔を見せる姿を演出すれば、堅物のクーリッジからソフト・イメージをもったクーリッジにイメージ・チェンジできると考え、当時注目を浴びていたセレブリティを選びました。アル・ジョンソンやドリー・シスターズなど当時のブロードウェイの歌手や俳優など大スターたちを大統領の朝食会に招待したのです。

朝食会では相変わらず無表情のクーリッジでしたが、ホワイトハウスの庭で歌手のアル・ジョンソンが、選挙キャンペーンのスローガンである「クーリッジ再選!」を繰り返し歌いあげると、普段笑わない彼の顔に笑みが浮かびました。その瞬間が激写され、バーネイズの思惑通り全米の新聞が写真入の記事で取り上げたのでした。かくして3週間後の選挙では見事に圧勝し、クーリッジは第30代米国大統領となったのです

しかし、大統領とかかわり成果をあげられなかった仕事もあります。世界の経済恐慌を受け不景気が本格化し始めた頃、バーネイズは当時のフーバー(Herbert Hoover)大統領によって緊急雇用委員会の委員に任命されました。社会保障や公共事業など社会主義的な考えに基づいた活動を容認しない大統領の下で講じられた戦略は、どれも中途半端なものばかり。ワーク・シェアリングや賃金分配などの試みを行いましたが、結局は労働者側の負担増となり景気回復につなげることはできませんでした。

そのような状況で迎えた32年の大統領選挙では、フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)が圧勝し、フーバーが再選することはありませんでした。パブリック・リレーションズの実務家の役割について、バーネイズは後の著書で「戦略構築から関わり、戦略を正しい方向へ導かなければ、たとえ十分なコミュニケーション・チャンネルの協力体制があったとしても成果は上げられない」と振り返っているように、抜本的な改革が必要なときこそ、その道のプロフェッショナルの忠告を聞き入れ、物事に取り組まなければならないということなのかもしれません。

政治的なイデオロギーがからんだ例として、50年代にアイゼンハウアー(Dwight D. Eisenhower)政権と、彼のグアテマラのクライアントであるUnited Fruit Company(当ブログ11月4日号に紹介)に協力する形で、社会主義政権の崩壊にかかわったことが挙げられます。

この時期は第2次世界大戦が終結し、米ソ超大国間の激しい冷戦が繰り広げられていました。53年にはアイゼンハワー大統領が米国情報局(USIA)を設立。同年バーネイズは、the National Committee for an Adequate U.S. Overseas Information Programと呼ばれる委員会の委員長に抜擢されました。28人のコミュニケーションやパブリック・オピニオン、外交問題の専門家で構成される超党派的なこの委員会で、バーネイズは米国の海外へのインフォメーション・プログラムにアドバイスしました。

一方、グアテマラでは44年以降、アレバロ政権下で社会主義改革が実施され、United Fruit Companyとの対立を深めていきました。そして51年、ジャコモ・アルベンスが後継者として大統領に就任するや税金未納を理由に同社の所有地を没収し始めたのです。これに対抗するために、バーネイズはニューヨーク・タイムズやタイムなどの記者を現地に呼び、その事実に関する報道を大々的に展開し、米国内での認知度を高め、世論を味方につけました。

54年6月、アイゼンハワー大統領は、共産主義傾向を強めるアルベンス政権に対する非難声明を発表しますが、アルベンスはその非難声明を無視します。それから2週間後、ホンジュラスで編成されたカスティロ・アーマス率いる軍隊がグアテマラに上陸。アルベンス政権を倒し、自らアーマス政権を樹立したのです。

振り返ると、バーネイズは40年代前半からUnited Fruit Companyとかかわり、同社が生産するバナナの米国内での大量消費の喚起に貢献。しかし東西冷戦の真っ只中、共産主義が中米諸国に徐々に浸透してきたこの時期、グアテマラの政権との対立は同社のビジネスへ深刻な影響を与えました。そのような状況の中で、米国政府に協力する形で政治的にもかかわることになったのかもしれません。

バーネイズはその他にも、F・ルーズベルト大統領夫人のエレノア・ルーズベルト、国務省や財務省、商務省などへのアドバイスも行いました。

このように彼は多くの政府機関や個人の政治家に対してカウンセリングを行いましたが、大統領や、政府機関などとのかかわりや活動をとおして、それらがいかに国益を左右するものであったか推しはかることができます。

彼のかかわったプロジェクトの中には、課題を残す活動もありましたが、パブリック・リレーションズにいかにリアル・タイム性が求められ、その仕事が奥深く幅の広い多岐にわたった活動であるかが理解できると思います。

投稿者 Inoue: 15:00 | トラックバック

2005年11月11日

パブリック・リレーションズの巨星たち
2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891?1995)、「社会や組織体に与えた影響 その2.」

こんにちは、井之上喬です。

皆さんいかがお過ごしですか。先週に続いてバーネイズのお話です。

エドワード・バーネイズは、「パブリックリレーションズ・カウンセラー(実務家)はクライアントのパブリックに対するコミュニケーターにとどまらずアドバイスを行うカウンセラーの役割を担うべきである」と考えていました。さまざまな組織体に対するカウンセリングを通して組織体にも大きな影響を与えました。

そこで今日は、パブリック・リレーションズを理論体系化した先駆者バーネイズの組織体に与えた影響を考えたいと思います。

彼のかかわった企業はP&G社、GE社、GM社など多数あり、その全てを紹介することはできませんが、代表的な例として現在米国の巨大放送ネットワークのひとつであるColombia Broadcasting System(CBS)とバンク・オブ・アメリカの例を紹介します。

1920年のアメリカ初のラジオ放送開始を皮切りに、20年代は商業的利益を見込んだ多くの企業がラジオ放送事業に参入した時期でした。CBS 創業期の29年、バーネイズは創業者、ウィリアム・ペイリーのカウンセリングを行いました。彼はペイリーにラジオを新しいコミュニケーション手段として重視し、その速報性やパブリックへの影響力を考えて公共性の高いニュースに力を入れるべきだとアドバイスしたのです。

当時のラジオ局の制作方針はあいまいなものが多くありました。そこでバーネイズは、一貫した制作方針に基づく正確な情報配信を行うことを提案。4つの地域でそれぞれ異なった時差が存在する米国内で使用する番組表を統一し、それまで長かったプレス・リリースを一段落にまとめることで、一目ですぐ番組内容がわかるリリース作成を実施しました。

ペイリーははじめ、ニュースの制作方針が厳しすぎると考えていましたが、バーネイズの説得により彼の提案が採用されました。その他にも著名な女性コメンテーターを積極的に起用したり、海外からのニュース配信やローマ法王による放送の実現など、「CBSニュース」のイメージ確立のためにニュース番組や公共番組に力を入れました。

また建築家と組んで、利用者の屋根に受信アンテナを設置するなど、放送内容とインフラ構築の両面からラジオ放送の普及に取り組みました。

かくして、それまでニュース部門でNBCに後塵を拝していたCBSが、31年にはNBCを抜きトップの座を獲得したのです。

一方、29年から45年は、株価大暴落による大恐慌と第2次世界大戦という二つの大事件の影響で、パブリック・リレーションズの実務が発展した時期です。この時期の米国大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt, 1882-1945)はニュー・ディール政策を推進する中、産業界の指導者に対し「自己利益を国民の福祉に優先させている」と非難を強めました。そのために国民の大企業への感情は急速に悪化。存在意義として企業の社会的役割が問われる時代を迎え、大企業は防衛のためのキャンペーンを強いられることになりました。

米国が大変化の真っ只中にあった38年、バーネイズはバンク・オブ・アメリカの当時の会長であるA.P.ジアニーニに請われ、カウンセラーを務めることになりました。

当時カルフォルニア州を拠点に順調に拡大路線を歩んでいたバンク・オブ・アメリカは、地元の小さな銀行を買収し、複数の州で支店を展開する銀行経営(ブランチ・バンキング)を行っていました。複数州にまたがる銀行経営が米国商法に抵触する可能性があるとの理由で、証券取引委員会による調査を受けたのです。

公聴会では、大企業の安定性や大きなプロジェクトへの貢献度合いなど、大企業の社会的役割を明確に打ち出しました。また成功事例として、ブランチ・バンキングがイギリスやオーストラリアで成果を上げ、社会にも容認されている事実を強調。さらに、ブランチ・バンキングを推進するコロンビア大学のチャップマン教授とその賛同者で構成される委員会へ専門家としての協力要請を行いました。

その他にもパンレットの配布やニュース・リリースなどを通してブランチ・バンキングの認知度を高める活動を広く展開。また、委員会により執筆された本を出版し広く配布しました。それらの活動が功を奏し、アメリカでのブランチ・バンキングへの否定的意識の払拭に成功したのです。

また、支店が置かれている地元民の評定調査も行いました。その結果、顧客や地域住民、その他パブリックからの評価が低いことが判明。バーネイズは、その改善には、基本的な経営方針策定から日常業務にいたる活動にパブリック・リレーションズを導入する必要性を説き、人と人との積極的な交流の促進をアドバイスしたのです。まさに双方向性を実践していたといえます。

具体的には、対外的なニュース・リリースや政府への対応(ガバメント・リレーションズ)と平行して、大企業に対する嫌悪感の払拭のためにコミュニティ・リレーションズの強化をはかりました。行員の積極的なコミュニティ活動への参加を促したり、地域の人々に大企業の利点を理解してもらう活動を行ったのです。今で言うCSR(企業の社会的責任)的な活動がこの頃すでにバーネイズによって実践されていたことになります。

このように彼の手がけたプロジェクトはビジネスの手法だけでなく組織体の在り方そのものにまで影響を与えました。プロジェクト成功の要因は、社会科学に裏打ちされた綿密な調査と分析、一見関連性のない複数のファクターを組み合わせて新しいものを作り出す発想力。そして、ターゲットにメッセージが的確に到達するために、誰にどのような情報を発信すれば届くのかを心得ていたことなどにあったといえます。

以上、ここで紹介したどの手法も現代のパブリック・リレーションズで用いられていることを考えると、当時の彼のアイディアや活動が如何に革新的なものであったかが容易に理解できます。そして彼が実行した数々の新しい試みは、その後の米国のパブリック・リレーションズの進展に深く結びついていたともいえます。

彼の活躍は財界にとどまらず広く政界にも及んでいました。というわけで、次のテーマは「米国大統領とバーネイズ」を取り上げたいと思います。次回をお楽しみに。

投稿者 Inoue: 09:54 | トラックバック

2005年11月04日

パブリック・リレーションズの巨星たち
2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891?1995)、「社会や組織体に与えた影響 その1.」

こんにちは、井之上喬です。

いかがお過ごしですか。

今回から井之上ブログの配信が金曜日に変更になりました。

さて、バーネイズは1910年代から活動し始め、その生涯を終えるまで実に80年以上にわたりパブリック・リレーションズの世界に影響を与え続けた先駆者です。

では、彼の手がけたさまざまなプロジェクトは社会や組織体にどのような影響を与えたのでしょうか。今日は今週月曜日に引き続き、パブリック・リレーションズの巨星であるエドワード・バーネイズの「社会や組織体に与えた影響、その1.」と題して、アメリカ社会のライフスタイルにまで影響を及ぼしたプロジェクトを見ていきたいと思います。

バーネイズがこだわり続けたのは、社会科学に基づいた調査による社会構造や大衆心理の分析と、その結果得られたターゲットの属性に訴えかけるパブリック・リレーションズを徹底して展開することでした。そして、最も効果的な媒介(主にメディア)を通して戦略的にパブリックの賛同を得られる環境を作り出すことで、数々のプロジェクトを成功に導きました。

20年代、タバコの売り上げに行き詰まりを見せていた米国のタバコ業界は新しいターゲットとして女性に目をつけました。その頃American Tabacco Companyの「ラッキー・ストライク」のプロジェクトに関わっていたバーネイズは、タバコを「時代を先取りするカッコイイ女の象徴」に据えるためのイメージ戦略を展開しました。

いくつか例を挙げると、イースター(復活祭)のパレードで女性の参加者たちに「自由のための光」のシンボルとして、タバコを吸引しながら行進させました。また、当時のパッケージにグリーンが使用されていたことから、ファッション業界を味方につけて多くのファッション雑誌で特集を組み、グリーン・カラーをその年の流行色に仕立て上げてしまいました。

いつでも「スタイリッシュで解放的」でいたいという女性の心を動かすことで、多くの女性の喫煙を促したのです。タバコのもたらす健康への有害性がまだ叫ばれていない時代だからできたプロモーションでした。

また、著名人や医師、弁護士など資格を持つ社会へ影響力のある人々(インフルエンサー)の発言効果を利用して新しい考え方をパブリックに浸透させた例もあります。

その中に、40年代から20年近く携わったthe United Fruit Companyのバナナの市場拡大プロジェクトがあります。バーネイズは「バナナは健康によい食べ物」と標語した数々のプロモーションを展開。さまざまな調査の過程で49年、医師のシドニー・ハースによる「セリアック病(消化不良の便を含む小児脂肪便症)にバナナが効く」との研究結果が20年前に発表されていたことを知りました。

そこでバーネイズは、医療関係雑誌にこの研究結果を発表すると共に、ハース医師の50年にわたる医療活動とセリアック病の治療法発見の功績をたたえ、同医師の79歳を祝うバースデー・パーティを開催しました。プロジェクトに話題性を持たせたうえで、研究発表をまとめて出版した本をなんと10万部もマスメディアや医療関係者に送付したのです。

これを契機に、多くの新聞・雑誌がこの問題を取り上げるようになり、「バナナは乳幼児には消化が悪い」とされていた過去のイメージを一変させ、乳幼児にバナナは必要不可欠な食べ物とされるようになりました。その後バーネイズの助言で、the United Fruit Company によるバナナ摂取と健康の因果関係に関する研究ファンドが設立されました。

この他にも、今ではアメリカの朝食の定番になっている「卵とベーコン」を、ベーコン会社のプロモーションで新しい朝食のメニューとしてアメリカの家庭に提案しました。

このプロジェクトはthe Beech Nut Packing Co.,のために考えたベーコン消費量を伸ばす大々的なプロモーションで、ただ広告を打つのではなく、「おいしいからもっと食べて」と医者自身の口から、ベーコンを食べることは健康によいと語らせたのです。医者に対して食生活に関するアンケートを実施。その結果から「朝食はしっかり摂るのが良い」とした意見が多くあることに注目して、卵とベーコンの朝食をアピール。5000人の医師に対してその調査結果と、専門医の意見を載せた手紙を送るなど、インフルエンサーをつかった間接的な手法でライフスタイルに影響を与えたのです。今では最も一般的なアメリカン・ブレックファーストがこのようなかたちで誕生したことは驚きです。

これら以外に、米国内でシルク(絹)を広めるなど、バーネイズの社会に与えた影響は多岐にわたっています。そして、現在も人々の考え方や習慣として社会に根付いている事実を考えると、パブリック・リレーションズの与える影響の大きさを改めて実感することができます。

次回〈来週金曜日〉はバーネイズの「社会や組織体に与えた影響、その2.」と題して、パブリック・リレーションズのカウンセラーとして組織体に与えた影響を考えていきたいと思います。

投稿者 Inoue: 18:23 | トラックバック

2005年10月31日

パブリック・リレーションズの巨星たち
2.PRを体系化した先駆者 エドワード・バーネイズ(1891?1995)

こんにちは、井之上喬です。

今日は10月の最終日です。11月は衣替えの時期でもあるので、これを機に、このブログを週末の空いている時間によりリラックスして読んでいただけるよう、アップデートを今までの毎週月曜日から、毎週金曜日に変更することになりました。というわけで、次のアップデートは今週の金曜日、11月4日となります。これからもご愛読よろしくお願いします。

1995年3月9日、パブリック・リレーションズの先駆者、エドワード・バーネイズ(Edward L. Bernays)が世を去りました。当時IPRA〈国際PR協会〉の会合に出席していた私は、他のメンバーと共に黙祷を捧げたことを覚えています。その時点では彼の偉大さをあまり実感することはありませんでしたが、2001年PHP研究所より出版した『入門・パブリックリレーションズ』で彼の残した足跡をたどっていくうちに彼の真の偉大さを知るようになりました。

今日は初回のアイビー・リーに続き「パブリック・リレーションズの巨星たち」の第2弾としてパブリック・リレーションズに行動科学や社会科学の手法を取り入れ理論体系化したエドワード・バーネイズの功績を取り上げたいと思います。「パブリシティはアートである」とアイビー・リーは双方向性の性質を持ったコミュニケーションをいち早く実践しましたが、その活動に形を与え体系化したのがバーネイズであるといわれています。


80年に及ぶ彼の活躍を一度では記しがたいので「その軌跡」「社会や組織体に与えた影響」「米国大統領とバーネイズ」「「ゲッペルス?プロパガンダの恐ろしさ」「PR教育者としてのバーネイズ」の5回に渡って紹介していきたいと思います。第1回目は彼が歩んだ軌跡を追いながら彼の人生の全体像を眺めていきます。

エドワード・バーネイズは、1891年11月22日、オーストリアのウィーンで生まれました。彼が1歳になるとき一家は米国、ニューヨークへ移住。父はニューヨークの農産物取引所で穀物の輸入業者として活躍しました。母は高名な精神分析医、シグムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)の妹であり、フロイトはバーネイズの父の妹と結婚したので、フロイトは母方の伯父であり父方の叔父でもありました。バーネイズが行動科学や社会科学などの学問に強い関心を寄せたのもフロイトの影響が大きかったといわれています。

後にニューヨークの農業大学に進み、卒業後 National Nurseryman で記者職を経験後、the Medical Review of Reviews and the Dietetic and Hygienic Gazetteで編集の仕事に携わりました。そして13年、22歳になった彼は初めてのプロモーションを手がけます。

13年、性教育のために書かれた演劇 ‘Damaged Goods’をプロモートする手法として現在では一般化されているスポンサー制を初めて導入しました。”Medical Review of Reviews Social Fund”を設立。そこで著名人で構成される委員会を設置し、メンバーシップを募り、集めた資金で製作を実現させたのです。

演劇のプロモーションで華やかな成功を味わったバーネイズは、編集の仕事には戻らずプレス・エージェントの道に進むことを決意。13年から18年にかけて、それまで米国で馴染みのなかったニジンスキー主演のロシアバレーなど、ブロードウェイで数多くの映画や演劇などのプロモーションを手がけ大きな成功を収めました。この経験からメディアが人々の考え方に与える影響がいかに大きいかを実感します。

20世紀初頭、自己防衛的な対応としての導入が始まったパブリック・リレーションズは、第一次世界大戦を迎えて戦費調達のための活動が中心となり、強力な説得型の手法を用いました。その概念は現代で使われているところのプロパガンダ的なもので、固定的な目標のため組織化された一方向型のプロモーション活動は、パブリック・リレーションズの発展形態としては未熟な段階にあったといえます。

その象徴的な活動ともいえるのが、17年、時の大統領ウオードロー・ウイルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856-1924)により設立されたパブリック・インフォメーション・コミティ(Committee on Public Information = CPI)です。クリール委員会(Creel Committee)とも呼ばれた、ジョージ・クリール(George Creel, 1876-1953)を委員長とするその委員会は、全国的なパブリック・インフォーメーション活動を展開し、戦争活動に賛同する世論を形成する活動を行い、世論を味方につけることに成功しました。

バーネイズは18年からメンバーとしてその委員会に参加し、プレス・エージェントの経験を活かしながら世論形成の手法を学んでいきました。

クリール委員会の活動を通じて多くのプラクティショナー(実務家)を輩出し、戦後20年代のパブリック・リレーションズは黄金期とも言われる急成長期を迎えます。これらのなかにはバーネイズを始め、CPI副委員長で30年には、自らPR会社を創設し、やがて大手会社に仕立てたカール・バイヤー(Carl Byoir, 1886-1957)などの姿もありました。

バーネイズはクリール委員会の活動を通して、戦時中に使用した世論形成の手法が平常時の政治活動やビジネスにも有効であると考え、19年にはニューヨークに米国内で7番目となるパブリック・リレーションズのオフィスを設立し、パブリシストとしての道を歩み始めました。

22年、彼はドリス・フライシュマン(米国で初めて夫婦別姓を名乗った女性)と結婚。ドリスはパートナーとして、62年に引退するまで、Edward L. Bernays, Counsel on Public Relationsの経営に参加し、バーネイズと共に考え行動しました。その鋭い洞察力と判断力でパブリック・リレーションズの基礎作りに大きく貢献したといわれています。

20年代前半、バーネイズは伯父であるフロイトの英語訳本であるGeneral Introduction to Psychoanalysisの出版に協力し、フロイト理論の米国での普及に貢献。フロイトとの関わりによって、バーネイズの思想家、理論家としての評価は高まったともいわれています。

23年、パブリック・リレーションズの最初の本として知られるCrystallizing Public Opinionを出版。そのなかで、業界で最初にパブリックリレーションズ・カウンセルという用語を使用し、それまで曖昧であった業務範囲や手法そして職業倫理について明文化し、パブリック・リレーションズの理論と実践には社会科学の知識が必要であると述べました。

また、アイビー・リーの「パブリックの知らされる権利」を一歩進めて「パブリックは理解されなければならない」とし、情報発信者と受信者の双方とのコミュニケーションを図るツーウェイ・コンセプトの概念を初めて紹介しました。そして、パブリックリレーションズ・カウンセル(実務家)は組織体とパブリックのメディエータの役割を果たすとの理論を展開させました。

初版から70年を経た今もこの考え方がパブリック・リレーションズで実践されていることを考えると彼の理論が当時如何に先進的なものであったかが見てとれます。

後日、ナチ・ドイツのプロパガンディストで宣伝担当相のゲッペルスは、この本を愛読し、そこから得た情報を基に、ドイツ在住のユダヤ人排斥キャンペーンを行ったといわれています。

1928年にPropaganda を出版。人の考え方は与えられた情報により形成されるとする理論とそのメカニズムを記したこの本は、当時プロパガンダに対する不信感を抱いていた米国で大論争に発展しました。

バーネイズは、これらのほかにもいくつかの著書を残しています。45年には Speak Up for Democracy、52年に教科書的な著書 Public relations、55年に妻ドリスと共に著者・編者として参加したエッセイ集The Engineering of Consentを出版し、65年には自伝としてBiography of An Ideaを出版しています。

また彼は、パブリック・リレーションズの普及にも大きな足跡を残しています。1923年ニューヨーク大学で米国における最初のパブリック・リレーションズのコースで教鞭をとり、1947年には、ボストン大学で同じく米国で最初のパブリック・リレーションズ学部をスタートさせています。また、1939年、妻のドリスと共にパブリック・リレーションズの業界として初めてニューズレターContactの発行を開始しています。

80年に渡るバーネイズの活動範囲は多岐にわたり、CBSやジェネラルモーターズなどの大企業、数々の政府機関、フーバー、F・ルーズベルト、アイゼンハワーなど歴代米国大統領へのカウンセリングを行うなど、彼の与えた影響は政界や財界にとどまらず社会全体に及んでいます。これらについては後日詳しく述べたいと思います。

バーネイズは79年にYour future in a public relations career、86年にThe Later Years: Public Relations Insights 1956-1986を出版するなど、晩年も執筆や公演などパブリック・リレーションズの発展、普及のために精力的に活動し、95年に103歳で世を去るまで、その生涯をパブリック・リレーションズに捧げました。

バーネイズは20世紀初頭に登場したパブリック・リレーションズの黎明期に活動を始め、成熟期にいたるまでとどまることなく活躍し続け、長きにわたりパブリック・リレーションズの成長と発展に貢献し続けた唯一の実務家といえます。

1990年には、『ライフ』誌の「20世紀の最も重要な100人のアメリカ人」の一人に選ばれています。

次回は、バーネイズが「社会や組織体に与えた影響」について考えていきたいと思います。

投稿者 Inoue: 10:00 | トラックバック